部屋から出られた、カラス

 冬至を過ぎた某日。

 天気は晴れ、気温は冷蔵庫より一度低く、町灯りを消せば満天の星空が広がっているはずだ。私の部屋、彼の空間で私たちは向き合っていた。彼はいたずらっぽい笑顔で、私に言う。


「モモは馬を見つけるのはうまいけれど、暗くて輪郭まではっきり見えないでしょ?」

「そうですね。探すにも少し時間が必要です」

「そんな君に、とっておきの逸品を」

 彼は左手を自身の肩甲骨の方へ持っていく。手を戻したときには、一枚の黒い羽根があった。


「これを目に張れば、暗闇も真昼のように明るくなる」

 そう言って、彼は羽を目隠しに張り付ける。驚く前に、目の前の男が黒いシルエットにしか見えず、声が出なくなる。

「君が見て、俺が対処する。モモと協力することが、今回の大舞台だからね」

 彼はそのままベランダに行き、塀の上に立つ。私は外を見て驚いた。すべてが真っ白に見えるのだ。灰色がかって建物や街灯は見えるけれど、ただ白い世界だった。


「立てる?」

「はい、どうにか」

 彼は口角を上げて飛び降りた。私もあわてて、後につく。ただ目の前の黒い存在に向かって滑っていった。ふいに止まったところで、あっと声がでた。

「います。くっきり見える」

 真っ赤な目と目が合う。向こうはカラスの羽しかみえないだろうが、睨むほどの迫力で、身体が凍る。視界には全身が映らない。馬は近いのか大きく膨れ上がっているのかわからない。


「早いね。どれ」

 カラスは私の後ろへ回り込む。

「ああ、本当だ。これは恐ろしい」

 くすくすと笑い声が首筋にかかる。

「よし、後ろへ下がるから」

 彼は例のごとく私の襟をつかんで、どんどん後ろへ引きずっていく。苦しかったが、馬の目が遠ざかるにつれて、硬直は溶けていく。日常生活であんなに厳かなものに出会うことはないだろう。


「よし、いいね。じゃあモモ、親指と人さし指で長方形を作って」

「はい?」

「そんなことも出来ないの?両手を使って、人さし指と親指をくっつけるの」

「……はぁ」

 私は言われた通り作って見せる。自分の指も黒く見えて、多少ショックを受けた。この黒は、何の黒だろう。

「腕を伸ばして。馬の頭と足にピントを合わせる感じで」

 私は遠くなった馬に向けて四角を合わせた。馬は四角に収まったが、数センチ小さかった。


「あーダメ。きっちり収めるのがコツだから」

 背中を押されて、されるがままだ。でもどうでもよかった。私は馬の頭、強いて言うならぴんと立った耳と蹄に指を合わせることに集中する。

「あった」

「いいね」

 すると私の背中に、男の胸が当たる。彼との距離がゼロになった。


「えっ何!?」

「俺もモモの指に合わせて馬を捉えるの。こんなことで焦らないでくれる?」

 公言通り、彼は私の手の外から腕を伸ばし、指を四角へ合わせる。

「モモ、前へ足伸ばして」

「はぁ!?」

「安定しないから、さっさと足伸ばして」


 私はおそるおそる足を延ばした。彼も即座に私の太ももに足をかける。空気中でアンの上に腰掛ける格好になった。

「よし、大丈夫」

「何が大丈夫なんですか」

「俺たち恋人同士だから大丈夫大丈夫。いい、絶対ピントを外さないでね」

 彼の頭が動く気配はない。つまりは、彼は私の目を通して、左目で馬を捉えているのだろう。


「そのままゆっくり指をスライドさせて、長方形を小さくしていって」

「う」

 近い。じわりと指を動かし、両手の人さし指へ近づけていく。追うように、アンの指の影も動いた。すると、馬の輪郭が歪んでいく。長方形から、馬がはみ出すことはない。なるほど、マジックのようだ。ただ緊張から力のバランスが取れず、ぶれてしまう。


「集中しろって」

 イラついた声が聞こえて、腹が立つと同時に目が覚めた。運転席のシートに身を預けるように、彼に背を押し付ける。彼は微動だにしなかった。馬はどんどん横へ広がり、枠の中で黒い塊になる。

「人さし指をくっつけて」

「潰していいの?」

「潰すんだよ。それから、合わさった指をスライドさせて指先から離して」

 言われた通り、親指と人さし指の付け根がくっついた。馬の姿はもうない。そのあと、指を滑らせじりじりと、人差し指の関節をなぞっていく。指先が離れた時、空気に黒い粒子が散り、消えていった。


「大成功!」

 キンと耳が痛い。足場がなく、自分から離れることができない。アンは両腕を天へ上げて、何度も歓喜の声を上げた。

「ミッションコンプリート!やったね!一発で成功なんて俺って本当に冴えてる!さすが!」

「ちょっと、離れて」

「あぁそうか」


 彼は上機嫌で、何事もなかったように体を離し、私の前へ回り込む。べりっと、目の羽を剥いだ。途端に世界は黒く、街灯は白とオレンジの光が地面に広がって、にっこりと笑うアンと目が合った。

「これで終わり。モモお疲れ」

 そして高笑いをして、彼は部屋へと急降下していった。

 彼の帰り支度は早かった。ポケットにあるだけのチョコレートを詰め込み、紅茶を飲む。


「ここの世界のチョコレートって本当においしいよね。次どうなるかわからないから缶で持っていきたいな」

「ないです」

「だよね」

 ここ一番の声で返事がある。私はソファに座って様子を見ていた。

「本当に、終わったらあっという間なんですね」

「そうだよ。俺にしかないルール」

 彼はこちらを見ない。


「アンさんは、」

 言おうとして飲み込んだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい質問だった。無表情で、紅茶のおこぼれをもらう。

「覚えてられるわけないよ。俺今のところ万単位で移動してるし」

 知ったように彼は言う。口が歪んだ。

「しんどくないんですか」


「覚えていようとすると、潰れるんだよ。終わったことはそれ以上にはならないし、世界はさっさと俺を忘れる。何の利益にもならないんだから、俺は俺を信じて、生きるため目の前の役に没頭するね」

 彼は絨毯の上に座る。笑顔が憎たらしかった。

「こっちとしては、永久的に残る出来事ですけど」

「知ったこっちゃないね」

 大声で笑ったカラスを足でける。


「まぁ、モモは異例中の異例だし、少しは覚えてられる可能性はあるけど」

「別に覚えてなくていいです」

「はーそう」

 にやりと笑って、例のナイフを取り出した。彼の出口が見えたのかと、私は部屋を見渡す。

「モモは勘違いしているよ。俺のように移動しなければ生きられない存在や、生まれ変わっても一つのものに執着する運命や、ひたすら生き続ける神もいる。それは不幸でもなければ幸福でもきっとないね。モモは輪の中に入っているんだから、いつまでも記憶に縛られなくていいんだよ」

「……何の話ですか?」


「まぁ、巡りあわせってあるって話。ただ、俺に覚えておいてほしいんなら、目印をつけておくけど」

 思わず眉間にしわが寄った。彼は良心的な顔をしている。なんだろう。私はそんなにも置いていかれる動物のような顔をしているのか。

「アンさんが、どうしてもっていうならいいですけど」

「馬鹿だなぁ。最初から思ってたけど、モモって本当に馬鹿だなぁ」

「ここから出られない間抜けに言われたくないですね」

「世界がそうしたんだから、仕方ないって何度言えば」


 ピタリと彼の動きが止まった。真下を見た。私もつられて絨毯を見る。チカリと、小石が光ったような瞬きがある。彼はナイフを動かした。絨毯に切れ目ができる。男が当初入ってきたときのような、真っ暗ではなく光り輝いている。アンはするりと入り込んだ。私はとっさに穴を覗いた。狙ったように男はナイフを振って、左の首筋に傷をつけた。皮肉気に男は笑う。

「ばーか」

 そう言って、男は完全に光に埋もれ、絨毯の切れ目は閉じていった。呆然と、私は首を触る。血は出ていない。

「……そんなに、馬鹿かなぁ」

 私はしばらく座り込んでいた。


 彼の言ったように、世界は男を忘れていた。私には彼氏の影なんてなく、私は空を滑らないし、日はのぼり季節は巡る。唯一、私の部屋には茶葉が残っていた。同じように、首筋に小さな傷が残っている。

 絨毯の光の中で、目を凝らしたとき目の五つある生き物が一瞬見えた。カラスはマルチに演劇をしているらしい。彼が生き残れるのか、必要のない心配を数分して、私は紅茶を飲んだ。

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ワタリカラス 空付 碧 @learine

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