出口の糸口をみつけた、カラス
アンが滞在して、二週間がすぎた。
彼は壁を昇り降りしながら、考え込んでいる。
「俺一人で見に行っても、位置がわからないんだよね。つまり君は、俺の目となり足となるって事で確定した」
側面に直立して、男は言う。私はココアを飲みながら、曖昧に頷いた。
「でも、あんなにでかい存在、どうしたものかなぁ」
「どうしましょうね」
「よし、考えに行こう」
ベランダの戸を開けられる前に、暖かい格好に着替える。コートは貸して貰えない。
「モモは滑ることを覚えたんだから、一人で来れるでしょ」
塀によじ登る私を見下ろしながら言ったアンに、驚きを隠せない。
「あれはアンさんの不思議パワーのおかげではないんですか」
「俺が止まり木だと思って目指せば問題ないから。俺行くよ」
男が飛び降りた。彼がこうだと言った事が全てなのだ。
私も慌てて、下へ落ちる。地面へ衝突はしなかったが、前回のような凧では無い。
ただ足元に風が吹いて、立ったまま空気の上を滑っていく。ジェットコースターのようだ。何もしないまま、アンの後ろを付いていき、気づけば例の上空に居た。息が上がっている。
「いいね。非常にモモンガっぽかったよ」
「景色と気圧で、クタクタですよ」
「大丈夫、気にしてないから。よし、馬を探して」
アンの隣で南を見る。遠く見えていた存在は、肘一本ほどに大きくなっていた。
「近付いてますね」
「近いの?」
「ほら、あそこにいますよ」
指さして、あぁと男は頷いた。
「本当だ。やっぱり威厳があるなぁ」
「無言の圧力というやつでしょうかね」
男が不意に私の襟足を掴んだ。南に近づいてるのはわかるが、如何せん首が締まっている。腕を叩いて意思を示せば、パッと引力が消えた。
「死に、ますよ」
「大丈夫大丈夫。これをどうにかするまで、君は死ねないから」
笑顔で言っている。グイグイ近づいていくうちに、寒気が走った。
「なんだか、寒いですね」
「そう?」
「どんどん冷えていく感じがします」
馬は二メートルを超えている。真っ黒な体は鍛えられて、たてがみが風に揺れるきり微動だにしない。まだ数キロ距離はある。この馬はどれほど大きいのだろう。
カラスは考えて、戸惑いなく急降下する。ほぼ引きずられて下に行くと、寒気が強くなった。震える私を見たあと、今度は急上昇する。脳がどうにかなりそうだ。上にあがるほど寒いはずだけれど、馬より上に行くと震えは止まる。男は言った。
「わかった。冬だよ」
「ふ、冬ですか?もう冬ですよ?」
「冬将軍っていうの?強い寒気だよ」
納得するアンだが、よくわからない。
「玄冬ってやつも、黒だし。大方冬将軍だね」
「でも、冬将軍は北から来ますよ?」
「だから問題なんでしょ。馬だから南っていうのは安っぽいし、とりあえず聞こう」
アンはこれ以上は近寄らず、両手を口に添えた。
「もしもーし、何されてるんですかー?」
大きな声が通っていく。馬は動かない。
「もしもーし、カラスがお送りしていまーす。あなたは誰ですかー?」
返事はない。カラスはしばらくして振り向いた。
「俺の声聞こえてる?」
「私はつんざくように聞こえてますけど」
「よかった。じゃあアレには届いてないって事だね」
それからしばらくアンは何かを喋っていた。口元だけでもぞもぞ言っていたり、電波のような頭に響く音を発したり、どうにか馬との意思疎通を図ろうとした。
「ダメだ。全然、手応えがない。モモ交代」
「わ、わかりました」
私も真似して口元に手を持っていく。
「聞こえますかー?」
聞こえていない。少し恥ずかしい。
「なんか直感で、届きそうな音程とか試して」
カラスは空中に座り込んでいる。水筒に入れた紅茶を飲み優雅にくつろぐ横で、私は無茶振りを必死でこなした。寒いから早く終わらせて、一杯いただきたい。
馬は貼り絵のように動くことは無かった。紅茶はもうない。
「まぁ、仕方ないねぇ。帰ろう」
二回目も、すごすご帰る結果になった。
「昼間は下からじゃ見えないですね」
「上からでもわからないんだよ。行ってみる?」
二人並んでベランダから上空を見る。白っぽい空は肌寒い。
「昼は流石に、人に見られるんじゃないですか」
「まぁ見えないって保証はないなぁ」
塀に寄りかかって、アンは項垂れる。
「冬かー黒い冬ねぇーどうしようかなー」
「でも、季節がああいった形で存在するって不思議ですね。あれは本当に冬ですか?」
アンは短く息を吐いて、部屋に入った。もちろんブーツを履いたまま、こたつに入って机のチョコに手をつける。
「馬鹿だね。姿かたちなんて、見方によって変わるもんでしょ。君は人の皮を被ったモモンガなんだから、つまりアレは、冬の格好をした馬なんだよ」
「馬の格好をした冬じゃなくて?」
「どちらでも、境界線は曖昧だから。ただどうすればあの馬が消えるかが問題なわけだよ」
男は銀紙を量産していく。私は買い置きのチョコレートを補充して、ソファに座った。
「南に居ちゃいけないなら、空気ごと回転させて北へ配置するのはどうですか」
「奇抜さは採用するけど、無理難題だね」
「馬の天敵を送り込むとか」
「天敵って、ライオンか虎?獅子座か白虎あたりを呼ばないといけないんじゃない」
「大きな扇風機で追いやるのは」
「扇風機を持つ手がない。いやでも、そうだね。所詮冷気の塊だから、いい線いってるよ」
男は考えながらも手を止めない。私はぼうっと天井を見上げた。それからアンを見て、彼がやってきた時のことを思い出す。
「アンさんはどうやって消えるんですか」
「馬鹿なこと聞かないでよ。俺はまだ死んだことないから」
「いや移動手段です。アンさんは、どうやって次の場所に行くんですか」
男は机に頬杖をつく。
「言わなきゃダメ?」
「アンさんもあの馬も黒いので、ヒントになるかなぁと思いまして」
カラスは少し考えて、コートの懐からナイフを出した。例の壁を切ったナイフだ。
「ひとつの空間での役目を終えると、瞬きが見えるんだよ。光にこの刃を当てて切り開くと、もう次の居場所の隙間に入ってるって感じかな」
「何も光っていない時に切るとどうなるんですか」
「この間見たでしょ。真っ黒に繋がる」
念押しのためか、机に刃を当てた。直径5センチメートルの穴は真っ暗で、何も無いようで何かありそうな気になる。
「手を入れてもいいですか」
「噛まれるよ」
「……何に?」
にんまり笑って、黙って紅茶を飲む。
「この黒にあの馬を溶かすってどうですか」
「……なるほどねぇ」
男は人差し指を穴に入れた。私は指から目が離せない。
「でも難点はあの馬が微動だにしないことと、この黒に引力がないってこと。つまり、両方並べても何も起こらないし何も解決しないよ」
指が出てくる。けれど入れた部分から先は、綺麗になくなっていた。男は平然と続ける。
「確かにこの闇は無だから、溶かすって発想は限りなく解に近いね。奴は闇に紛れ溶け込んでいるだけであって、闇に溶けてはいない」
もう一度穴に指を入れれば、人差し指は元に戻っている。心臓がうるさく動いている私に、男は上機嫌で指を動かして見せた。
「黒に溶かして、冷気を分散させる……うん、いいね。いけるんじゃない」
男は嬉しそうに笑うと、テレビをつけた。
「どんな方法ですか」
「実行の直前に言うよ。すぐに結果を得られるかわからないから、張り詰めず気楽にやろうね」
「今晩ですか?」
「いや、明後日にしようか」
お天気お姉さんが週間予報を説明していた。しばらく冷え込みが厳しく、明後日まで雪だそうだ。
「まぁ滞在が延長できるなら、それもいいな。結構居心地いいしね」
ゆるく机に突っ伏す男は、不法侵入者だったとは思えない。こたつは変人もダメにするのか。
「居座る気ですか?」
「冗談言わないでよ。そんなに慌てなくても、俺は必ずこの空間から出ていくし、君が先ってことはもうないよ」
警戒心の薄れたカラスは、一粒チョコを渡してくる。
「俺の演目って多種多様なの。氷河期の終わりを見届けたり、少年の通り道にコインを落としたりさ。ただの一瞬で終わることもあれば、永遠に近い時間を一箇所に留まることもあるの。けど今回は春までというタイムリミット付きで、容易くはないけれど大役でもないミッションね。だから、心置きなく休憩が取れて、快適なわけ」
「そうしないと、アンさんの居場所っていうのは得られないんですか?」
「……そうだね」
男は口元で笑う。
「生きたいと思ったら、そういう形でしか生きられなかったんだよ」
私は受け取ったチョコレートを口に入れた。テレビはスポーツ報道をしている。
「もし、役を演じきれなかったらどうなるんですか?」
「すべてがゼロになる」
言って、男は声を上げて笑った。
「ただ原点に帰るだけさ。居場所という名の萎れたマスコットを見つけた日に巻き戻っていくだけ。どんな失敗も、やめたいなと思ったとしても、あの時の生きたいと思った気持ちに焼き尽くされるんだよ。全部が夢だったことになるの」
「死ねないんですか」
「死ねないよ」
「苦しくないですか」
「全部が舞台だからね。俺は人気の高い役者だから、それだけで楽しいの」
紅茶を飲み出すカラスを、なんとも言えず見ていた。
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