事情が分かった、カラス
アンとの共同生活は、絶妙に噛み合った。
まず互いが互いを干渉しない。ひとつ、アンが紅茶とチョコレートを要求することだけで、あとは一切お互いの口出しはしない。むしろする必要がなかった。アンは端から私に興味はなく、動き回っていても目もくれない。
私もアンが自分の役割を探すため、宙をぼうっと眺めていたり、天井をうろうろしたりを咎めはしない。ネズミとの同居に近い気もする。
アンは帰る場所を思えば、私の部屋に固定されるらしいが、街の探索などの出入りは自由にできた。玄関であれ、ベランダであれ、彼はふらりと出ていきふらりと帰ってくる。変人と自称するならベランダから出ていくのは、いささかおかしいとは思う。
「大丈夫、人だってよく飛び降りるでしょ?」
「そうそう飛び降りませんよ」
「そう?簡単なのになぁ」
何がだろう。紅茶を入れて一服していると、ドアベルが鳴った。
友人が菓子袋を持って訪ねて来た。
「近くに用があったから寄ったの。あ、でも今日は彼氏さんがいるんだね」
飛び上がりそうになった。勢いよく振り返ると、カラスも驚いた顔で固まっている。
「二人分入ってるからね。それじゃ」
彼女は簡単に挨拶をして去っていった。紙袋に、チョコレートケーキが二つ入っている。
「彼氏、に見えたんですかね」
「いや、彼氏なんだ。もうここでは、君は俺の彼女として成り立っている」
こそばゆい話に聞こえたが、彼は至極真面目に紙とペンを手にした。
「共同の空間を使っているから、世界自体が俺らをそう定義にしたのか、俺の役割に君が関わっているのか」
言って苦い顔をしている。
「ラブコメは勘弁して欲しいなぁ」
「厳しいですね」
ぐいと紅茶を飲んで、彼は久しぶりに私にまっすぐ向き合った。
「足掛かりになれば何でもいいけど」
「手がかりじゃないんですね」
「君の名は、モモンガにしよう」
「えっ私ちゃんと名前ありますよ!?」
これまでで一番大きな声が出た。彼は頷きながら、モモンガと書いている。
「こういうのは、形式が大事なんだよね。モモンガは何人家族?」
「……両親だけです」
「どこ出身?」
「この地区で生まれ育ちました」
「一番遠い旅行はどこ?」
「多分、3県先です」
「空と海と地はどれが一番好き?」
「えっと、地面ですけど飛行機は結構好きです」
まるで取り調べだ。彼はひっきりなしに質問をして、答えを書いていく。淡々と迷いない問に、私もテンポよく答えが出てくる。
「自分の人生に違和感を感じたことは?」
「ない、ですけど、現状はかなり違和感ですね」
「確かにねぇ」
彼は一息ついて、紙袋を漁る。私は黙って皿とフォークを用意した。私の分の皿を見て、え、お前も食べるの?みたいな顔をしたが、黙って分けてくれる。
「うーん、どっちかわからないけど、俺の利益を優先的に考えよう。君は、君が感じる何かを探して」
「……具体的にはどんな事でしょう」
「さっきの友達みたいなのでいいよ。自分が変だな、と思うことがあれば要相談だ」
ペロリとケーキを平らげて、私の方にもフォークを伸ばしてくる。私は遠くへやりながら、自分の分を食べていった。
アンは自分の居場所が安定したおかげで、私を引き連れてより活発に動くようになった。博物館、美術展、商店街、小道裏道袋小路。傍から見ればただのデートだ。けれどこんなにも真剣で、殺伐としたデートはあまり存在しないだろう。
「アンさんの格好って浮世離れしてて目立ってませんか」
「俺を変だと思う奴は、だいたい元が変な奴だね。俺は溶け込むために居場所を探して生きているし、現に誰も俺を振り返ってないでしょ?」
彼の言うことは正しかった。誰も、私たちが見えていないかというほど、目が合いもしなかった。
「モモは理系?文系?」
「モモって何ですか」
「モモンガって長いじゃない」
素直に名前を尋ねないのは、彼のモットーかもしれないとも思った。彼自身が偽名を名乗ったからだ。
「理科は好きでした」
「化学?物理?生物?地学?」
「うわぁ、何でしょう。地学には興味ありましたけど、習いはしなかったです」
「空は好きなんだね。でも、持は地面に生えてる」
よくわからない。
「きっと君はヤギに近いね。あぁでも君はモモンガだ」
「ややこしい事言わないでください」
プラネタリウムを見て、デパートの上階でケーキを食べ、石ころに目を凝らす。違和感なんてどこにもない。これだけ歩き回っているのに、お金が尽きないことくらいだ。
「仕方ない。奥の手で行こう」
男は諦めたふうに、言った。疲れ果てた、公園の鉄棒の上だ。家に帰ってお茶とチョコレート、私は晩御飯を済ますと、彼が着ていたコートを脱いだ。ブーツさえ脱がなかったのに、ロングコートをこちらに差し出していて、戸惑いを隠せない。
「これ羽織って」
「え、なんか嫌です」
「俺も嫌だよ。とりあえず、被るように襟を握ってて」
うんざりしている様子に、渋々とぞろびくコートを羽織る。チョコレートの匂いが強い。もしかしてこの男はチョコレートで出来ているのかもしれない。
「そんな訳ないね。よし、一瞬我慢して」
コート越しに抱えられて焦る。男はベランダに出ると、塀に私を立って私を置く。星の見えない夜だ。
「えっ何でここに立たせるんですか!?降りますよ」
びゅうと足首を風が撫でる。不安定で、いつ落ちるのかと泣きたい。
「君はここから飛び降りるんだよ」
「死ねってことですか!?」
風でネクタイが揺れている。男は何も怖くないと、当たり前に言う。
「だってモモンガだし。モモンガは夜を滑空するんだよ?」
「知ってますよ。知ってますけど私はモモンガじゃないですし」
「モモンガだよ。君はモモンガだ」
彼は日常単語のように繰り返す。あまりに普通に言われて戸惑う。私は、モモンガなのか。洗脳というより、呪文に近い気がした。
「君には特別にコートを用意したんだよ。飛べない理由がないね?」
「私、死んだらどうしましょう」
震えながら聞けば、呆れたような返事があった。
「飛べずに死ぬモモンガは間抜けだと思うけど、万が一の時は埋葬するね」
「火葬じゃないんですか」
「俺手続きわかんないから」
いよいよ不安になってきたが、腹を括るしかない。袖の通っていないコートを引っ張って、男は道連れに近い形で私を落とした。声を上げるまもなく、バサリとコートが凧のように広がる。風が真下から吹き上げて、部屋よりも高く舞い上がった。
「飛んだ」
「当たり前だって」
クラゲが漂うように、宙の一点に留まった。夜景が下に広がって、落下は怖いがこのまま落ちるという要因がなかった。男のお供に上がっているだけだからだ。
「よく見て。違和感はない?」
風で左目が見えている。蛍のように発光する目のおかげで、視線の先には一時的に閃光が走る。私は初めて宙に浮いたのに、違和感とやらの難問を解こうとした。黄緑色の光を目で追い、上を見上げ、後ろを振り向く。体が冷え切る前に、私は気づいた。
「アン、あれは何でしょう?」
「どれ」
左45度を指差す。彼はそちらを向いて、瞬きをした。
「南だね。黒が見える」
「あと赤い点が二つある。遠くて、見えにくいけど」
「ん、黒が揺れたよ。風になびいてるみたいだね」
「片方の赤が一瞬隠れたわ。髪か何かかしら」
「動じないねぇ。近寄っていくのも不用心だしなぁ。あれ、蹄があるんだけど」
しばらく検討会をして、結論が出た。
「黒い馬が、宙に浮いている」
アンは足を組んで頬杖をついた。私は夜闇に溶け込んだ、ずっと遠くの馬を見ている。
「同業者かなぁ」
「馬も、居場所を探したりするんですか」
少し落ち着いて、私はアンを見た。彼は馬から目を離さない。
「俺の知ってる馬は透明で、宙を駆けてたからねぇ。居ないわけじゃないと思うよ。でも、これはどうかなぁ。威厳がありすぎるよ」
「どうしましょう」
「じゃあ、とりあえず帰って紅茶を飲もう」
突然、浮力が消えた。急降下に脳が揺れて、混乱しているうちに家のベランダに戻っていた。
「お湯沸かして」
「気分が、悪くて」
「えーしょうがないなぁ。今回だけ俺が沸かすよ」
部屋で気分が良くなるまでに、男は紅茶を三杯も飲み干していた。
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