ワタリカラス

空付 碧

部屋から出ていけなった、カラス

 私がアパートに帰宅した時、男は我が家へ侵入している真っ最中だった。

左の壁から、片足を出している。カーテンを割いたような穴から、ぬっと男は出てこようとしていた。


 同時に顔を見合わせ、二人して表情筋が凍った。男は黒ずくめだった。ロングブーツにロングコート、リボンのようなネクタイに、瞳、髪と真っ黒だった。左の眼球は髪で隠れている。それより、男はナイフを持っていた。私は何も考えられず、何かしら叫ぼうとした時、男が先に口を開いた。


「いやいやいやいや」

 驚いた。こちらのセリフだ。焦っている様子を見て、こちらが優勢だと余裕が出る。震える声を必死に抑えた。

「不法侵入ですね。警察を」

「いや待って、君に用はないから」

 男はサラリと流し、床へ両足をおろすと、反対の壁に向かった。私は一歩前に出る。


「ちょっと‼」

「待ってね。こっちもびっくりなんだよ」

 男はナイフを壁に当てた。すっと縦に切れ目を入れると、壁に穴が開く。刃渡りは10センチ程度だ。しかも壁を触る程度でしかないのに、簡単に開いてしまった穴を覗き込む。


「えぇ、何これ何の冗談?」

 男は切った時と同じ仕草で、ナイフを真っ直ぐなぞる。チャックが閉まるように、壁は傷一つなくピタリとくっついた。

「あ、こっち閉めるの忘れてた」

 と出てきた穴を塞ぎに戻る男に、状況を把握でいないままでいた。せめて何か一言、と思った瞬間に男は床を蹴って宙返りをする。

そのまま床へ着地せず、男は天井へと両足を着いた。重力に反して逆さになったまま、ナイフで穴を開く。ついていけない。

 開いた穴の中が見えた。パイプや電線は全く見えず、ただただ真っ黒なだけだ。


「なん、ですか?」

「出口探してるんだけど。とりあえずドアから出ていっていい?」

 逆さのまま、男が聞いた。左目は黄緑色に発光している。

「どうぞ‼速やかにお帰りください」

 勢いのまま玄関を示す。男は床へ降り、私とすれ違って出ていった。後ろ姿が見えてドアが閉まり切る前に、ガラリと音がした。真後ろのベランダから、同一人物が入ってきていた。


「うわぁ。びっくり。終わった」

 男がいう。開いた口が塞がらない。ここは二階だ。天井に立った事といい、不可思議にも程がある。

「どうしたものかなぁ。とりあえず紅茶いれてくれる?」

 男は悠々と私の椅子に座った。私は動けずにいる。

「あなた、誰ですか?」

「あー」

 初めて気づいた、と男は立ち上がる。


「どうもこんばんは。ご機嫌いかがですか?今日からここが居場所になったカラスです。どうぞ宜しくはしませんが、見過ごしていきましょう」

「え、わかりません」

 笑顔で並べられて、素の声が出た。男もポカンとしている。

「え、見てたでしょ?」

 不思議そうに男は問う。あやふやに私は頷く。

「手品みたいな、奇妙なものを見ました」

「手品じゃないよ。種も仕掛けもない。この空間が、俺の居場所になっちゃっただけで」


「……化け物ですか?」

「失礼だなぁ。ヒトから逸脱しちゃったけど、化け物は言い過ぎだね。君は酷い奴だよ」

「あ、すみません。じゃあ、超能力者ですか?」

 男は眉間にシワを寄せる。

「それも嫌な響きだなぁ。そういうの嫌い。何というか、色々あって変わった生き方を選んだだけだし。敢えていうなら、変人だね」

「へんじん」

「そうそう、変人」

 何故か嬉しそうに頷いている。友好的な雰囲気を崩すことなく、男は言う。


「それで君は、ここの住民だよね。生きてるの?」

 一瞬息を飲んだ。男はごく自然な態度だ。私の頬は引きつる。

「……生きてますねぇ」

「じゃあ引越しを検討してるとか」

「ないですねぇ」

 男は不満そうな顔になる。

「引っ越した方がいいよ。じゃないと、俺と暮らすことになるよ?お互い不快だよ?知らない人とはいない方がいいよね?」


 押され気味なのが、なぜなのか。引越しとは簡単に言ってくれる。

「確かに、そうですけど、本当に出ていけないんですか?」

「俺がベランダから入ってきた時、何考えてたの?

 目が笑っていない。恐らく、馬鹿にされつつある。

「……悪い冗談かなって」

「俺も同じ意見だよ。気が合うね。じゃあもう一回やったら、引越し考えてくれる?」

「それは、難しい相談で」

「まぁいいや。今度は逆から行くから、玄関の鍵閉めといて」


 男はベランダに向かう。私が鍵をかけたことを確認してから、男は柵を飛び越えた。何のためらいもなく、呆気なく落ちた男に衝撃を受けている間に、玄関のドアが開いた。

「じゃーん。どうも悪い冗談です。ご覧いただきありがとうございました。よし紅茶を飲もう。早く入れて」

 もう一度、私の椅子に腰かけたので、私はふらりと台所へ向かう。

「……お湯を沸かします」

「俺、茶葉が好きだから買っといてね。あとチョコも必須」

「勝手な事を言いますね」


 ヤカンを火にかけ男を見ると、足を組んで自慢げに列ねる。

「そうだよ。結構、我儘なの。でも、やる事はちゃんとやるよ。俺は今まで、色んな所で様々なことをやってきた。猫を拾ったり、宝探しを見物したり、それぞれの場所で居場所をもらう代わりに、役目を果たしてきたの。それが、俺の存在意義であり、仕組みだから」

 カップを2つ、ティーパックは急須に。お湯を注げば、華やかな香りが広がる。


「チョコはないです」

「買ってね。俺の必需品だから」

「あの、出ていく目処はたってますか?」

 カップを手にして、男は首を傾げる。

「俺の役が終わるまでだからなぁ。何すればいいかなんて、教えてもらってないし。自分で見つけて役目を果たすの。だから数日か、数十年か」

「数十!?」

 驚く顔に、何度も頷いている。引越しを勧めているようにも見える。


「これまでは廃屋とか、路地とか、人と接点を持たない場所で、淡々とやる事やってきたの。それが今回、初めて他人の家に合致しちゃった。わかる?出来れば君を死人として扱いたい。でも君はこの世界の法に則り、家賃を払ってここに住んでる。だからここは俺の空間だけど、君にも権利はある。出来れば君が引越せば、お互い解決できるよね」

「死人、ですか」

「嫌でしょ?俺は嫌だなぁ。しんどいなぁ。でも手違いにしてもさぁ。喜劇か何か?向いてないよ。俺は端役で充分だっていうのにさ。嫌になるわ」

 独り言の多い男は、紅茶を煽り飲み干した。私も紅茶を飲む。久しぶりに飲む気がする。追加の湯をいれて、男は二杯目にはいる。


「どう?引っ越す気になった?」

「困りましたね」

「うん、困ったよ」

「でも先週越したばかりで」

「あっじゃあ荷物まだ段ボールの中でしょ?」

「昨日全部開いたばかりで」

「うわぁ」

 二杯目も簡単に飲み干し、男は部屋を見渡してため息をついた。


「俺の趣味に合わないなぁ。模様替えしていい?」

「いや、やめてほしいですね」

「俺の場所だけどね。うーんそれじゃここでいいか」

 男は壁とクローゼットの間に嵌った。そのまま動かなくなり、私は挙動不審になる。

「え、何してるんですか」

「寝るんだよ」

「立って寝るんですか」

「うん。一番落ち着くし」

「はぁ」

 そこで私は、不意に気づいた。


「名前は何ですか?」

 一度閉じた瞼が、ゆっくり開く。

「元本名の偽名がいい?それとも元偽名の本名か、正真正銘の偽名」

「偽名だらけですね」

 しばらく悩んで、聞いてみる。

「一番呼ばれたいのはどれですか?」

「え、特にないよ。干渉したくない」

「でもしばらくいるんですし、とりあえず何かひとつ」

 男は考え込み、一言いった。


「アンでいいね」

「それはどれですか」

「正真正銘の偽名かな」

 ニヤッと笑って、男は寝に入った。私もカップを洗うのは明日にして、手っ取り早く寝る準備をする。

「あんまり煩く騒がないのは高得点だなぁ。使えるなら、いてもいいねぇ」

 男はそれきり、黙り込んだ。

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