人狼と猫

黒鍵猫三朗

人狼と猫

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

木造りの小さな小さな小屋。

少女は古びた毛布をぎゅうぎゅうに握りしめ、しわしわに寄れる布に流れる涙をすべてしみこませていた。

 

少女の着るワンピースでは隠せない腕や足に古い切り傷が所せましと並んでいた。これほどまでに幼い子がまるで歴戦の勇者かのように全身に傷を負っているのには訳がある。



――少女は人狼だった。



満月の夜。彼女は狼に変貌する。

一度、狼へと変わった彼女は理性を失ってしまう。

狼は本能のままに周囲のものを破壊し、動物や植物を根こそぎ食らい尽くす。


食ってしまう対象は人間も例外ではなかった。

彼女は村を追われ、近くの森に捨てられてしまった。


よくある話だ。

彼女はそれから“彼”と一緒に過ごしてきた。


「ううっ……。アジィ……。私を、一人にしないで……」

 

少女は小さな小さな虫がささやくようなか細い声でつぶやくと、目を閉じた。



「イェンツァ、イェンツァ! 起きなさい、イェンツァ!」

「はいっ!」

 

イェンツァは飛び起きる。


「あいたぁ!」

「いてぇ!」

 

イェンツァは何かにはじかれ地面に叩きつけられる。

目を開いた彼女の目の前には、何物にも穢されてない真白なふわふわが横たわっていた。


「全く、イェンツァ。何をしているんだ。もう夜だぞ?」


妙に鼻にかかった声が響く。 

イェンツァはベッドだったはずの場所を撫でる。

そこにはベッドの代わりに冷たく固い地面があった。

だが、そんなこと、もうどうでもよかった。


「ア、……ア、アジィ!」

 

イェンツァは目の前の白いもふもふに飛びついた。


「こら、イェンツァ。暑苦しい。離れなさい」

「アジィ……アジィ……アジィ……。むふふふ」


 “彼”はイェンツァの五倍はあろうかという巨大な体躯を持った猫である。猫は自分の鼻を痛そうに押さえながらイェンツァのことを見つめている。


「おかしな奴だ。ようやく、我々が動くにちょうどいい時間になったな。それで、今日は何を狩るんだ?」


「アジィは何を食べたい?」

「そうだな。私は魚が食べたいかな」

「じゃあ、川に行かないとね!」


イェンツァは何も言わずアジィの上に乗っかった。


「やれやれ、たまには自分の足で歩いたらどうだ?」

「アジィの上。それが私に唯一許された居場所なの」

「……そうか」


アジィは背中に感じる暖かさをじっと感じていた。

自分と運命を共にする相手の温かさほど、心にしみこむものはない。


「ねぇ、アジィ。魚ってどうやって捕るの?」

「むぅ……」


今日は曇り。

夜は星もない。

夜目が鋭いアジィ。

夜にしか行動しないイェンツァにとっては大した問題ではなかった。

だが、魚を取る方法は知らなかった。


「アジィは猫なんだから、その二本あるしっぽとか使ってなんとかならないの?」

「……私は飯を食わなくなって久しいからな。もう覚えてないんだよ」

「ええ~。じゃあ釣るしかないじゃん。釣り竿ないの?」

「やれやれ。たまには自分で用意したらどうだ?」

「アジィ、お願い」

 

イェンツァに見上げられたアジィはクシャっと顔を縮めるとスッと姿を消す。


「ひゃあ!」

 

背中に乗っていたイェンツァは地面に尻もちをついてしまう。

川岸の木の根元へ移動した彼女は膝を抱えながら川の流れを見つめていた。


「……アジィ、遅いな。釣り竿なんてもういいから戻ってこないかな?」

 

彼女は自分の行動が生み出してしまった結果を想像するだけの能をまだ持ち合わせていなかった。

自分のそばに頼れる相棒がいないこと。

相棒が果たしていた役割の大きさ。

 

イェンツァは川の水面に黄色の光が混じっていることに気が付いた。

黄色い光はイェンツァの目に届く。

イェンツァにはその光がとても魅力的に感じられた。

ミツバチが花に、ライオンが肉に、月が地球に吸い寄せられるように。

イェンツァはその光を見ずにはいられなかった。


「あっ……」

 

突如イェンツァの腕が隆起したかと思えば、全身の筋肉が小さな爆発でも起きたかのように盛り上がった。


「やばっ……、アジィ!」

 

イェンツァの顔が変わる。

人であったものから。


狼へ。


「イェンツァ!」

 

そこへ釣り竿を加えたアジィがイェンツァの方へ駆け寄ってくる。

アジィはその大きな前足で彼女の目を覆う。

すぐに、巨大な体を生かして彼女に体当たりをかます。

アジィは彼女の上に馬乗りになって動きを封じる。


「あうぅ……。アオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」

「イェンツァ! しっかり気を保て! こんなところであきらめたらだめだ!」

「ウウウウウウウウウウウウ!」

 

イェンツァの目から理性の光が失われた。

アジィはその変貌ぶりをまじまじと確認した。


「イェンツァ……? 聞こえてるか?」


 フゥーフゥーと獣臭い息がアジィの鼻にかかる。


「イェンツァ。君と私は人に迫害されてきた。

 異形の物は受け入れられない。

 それはこの世界の理だった。

 だからこそ、君は私と一緒に人がいない世界に行くんだろ?

 もう少しじゃないか。

 後一日も歩けば、人が寄り付かない世界に入る。

 そうすれば、こうして変化してしまうことを悩むこともない。

 さぁ、今は自我を取り戻して?」


「フゥーフゥー。アオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!」

 

イェンツァの手がアジィの腹、最もやわらかい場所を貫いた。



「ダメェ!」

 

イェンツァは毛布をかぶり直し全身を丸める。

イェンツァは顔を抑える。だが、その手から感じる匂いは血の匂いだった。

 

あの時、もう一度目を開いた時にはもう、真っ赤な猫がそこに横たわっていた。


「私のせいで……」


イェンツァは突然、猛烈なのどの渇きを感じた。

喉が張り付いていそうなほどだった。

 

彼女は毛布をめくった。


「あっ……」

 

小屋の屋根は腐っていた。

所々穴が開き、星の光が差し込んでいた。

普段のイェンツァであればこんなミスはしなかっただろう。

だが、川岸からずっと走り続け転がり込んだ場所の状態なんて確認しなかった。


彼女の瞳の真ん中に映ったものは黄に輝く真ん丸な満月だった。


「アウウウ……!」

 

少女の全身が盛り上がり、醜い狼へと変貌する。

狼になってしまっては、彼女の意識は残らない。

夢の中にいるのと同じようにぼんやりとした世界が彼女の心を占領してしまう。


「あああ、ダメっ!」

 

イェンツァは体を押さえつける。

だが、そんなことをしても無駄だと言うことは本人が一番よくわかっていた。


「アウウウウウウウウウ!! ウァァァァァァァァァァァァ!」

 

突然、小屋の屋根が崩れ落ちた。


「ガァァァァァァァ!!」

 

イェンツァの体を押さえつける何かが降ってきた。

イェンツァはあっという間に組み伏せられると目を抑えられる。

その温かくやわらかい感覚にイェンツァは覚えがあった。


「アジィ……?」

「そうだよ。お嬢さん」

 

弱弱しい声でイェンツァはささやく。


「どうして……? 死んだんじゃ……?」

「私は化け猫。命という概念からはもうとっくに外れてしまっているのさ……」

 

イェンツァは目を押さえつけられながらむふふと笑い出した。


「アジィ……。アジィ……。よかった……!」


イェンツァは宝物を逃がすまいとするようにアジィをやさしく抱きしめた。

目を閉じたイェンツァは深い眠りへと落ちてゆく。

目が覚めればきっと目の前に自分の相棒がいると信じて。

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