後編

 目を覚ました。いつも通りの朝。それと同時に今日が雨の日であることも分かった。自分が今どのような環境にいるのかは匂いや音で分かるようになった。どたどたと病棟が騒がしくなり、同時に室温が若干上昇する。何よりも朝の空気には朝特有の成分が含まれている、そんな感じがした。

 僕は雨が嫌いだ。僕はまだ姉と過ごした日々を昨日のことのように鮮明に覚えている。けれども姉を失ったあの雨の日のことは忘れたかった。


 僕は絵を描く姉が好きだ。それは勿論僕の姉が最高の腕を持つ天才画家であることは一つの要因であったが、それは些細なことだった。姉は絵を描いているときが一番幸せに見えたのだ。そして最高の笑顔で僕にそれらを見せてくれた。僕はそれらを心から誉め称えた。僕は姉の絵と姿から生きる希望を貰っていたのだ。しかしそれは終わりを告げた。

ある雨の日のことだった。僕の目は姉の絵を見ることができなくなった。僕の病気からは想定されるべき症状で、いつか来ることはずいぶん前から分かっていた。姉の新しい絵を見られなくなることはとても悲しかったが、新しい絵を描く姉の姿を近くで感じられれば、僕はそれで幸せだと考えていた。それは楽観だった。姉はその日、描きかけの絵を外に放り出した。病室の絵具はゴミ箱に投げ入れ、飾られた絵は持ち出され処分された。僕はその光景を肌で感じていたにも関わらず止めることができなかった。僕は姉の気持ちを全く考えていなかったのだ。それは考えれば当然のことだ。全盲者の目の前で楽し気に絵を描くことは誰もできないであろうと思う。それが一番に楽しんでいた支持者の前ならば尚更だ。そんな酷なことを僕は姉に期待していたのだ。姉はそれから、毎日のように来てくれた病室にも足を運ばなくなった。徐々に姉のものは病室から減っていった。ただ一つ、描きかけの夕日を除いて。


 晴れだ。僕はそう感じた。時刻は夕方。僕は目を開けた。

「綺麗。」

咄嗟に僕は呟いた。

「これがあなたのお姉さんの願いだった。」

風が凪ぎ、そう誰かが僕にささやいた。僕は涙で目が一杯になった。

「君、こんなに小さな女の子だったんだね。」

少しだけ笑顔を作ってそう神様に返した。

「あなたの願いは叶えた。一か月後、あなたの命をもらいにくる。」

僕は涙を流しながら最高の笑顔で言った。

「ありがとう。」



 興奮気味の母からの電話でハルキが視力を取り戻したことが知らされた。私は驚きよりも安堵の気持ちが湧き出てきた。そしてこう思った、絵を描かなくてはならない。私が生きた証明をしなくてはならない。一生分の名作をハルキに残さなくてはならない。私は病院へ走った。


 「ハル!」

勢いよく病室の扉を開き、叫んだ。

「姉ちゃんそんなに叫ばなくても分かるって――。」

私はハルキが言い終わる前にベッドに飛び込んだ。久しぶりに見たハルキの顔はとても元気そうに見えた。母はびっくりした顔で言った。

「こらハルカ、ハルキにそんなことしちゃだめでしょ!」

「大丈夫だよ、母さん。姉さんも久しぶり。また絵、描いてよ。」

「うん!うん!」

私は大きく頷いた。

「姉さんそれ。」

ハルキはテーブルの上の描きかけの絵を指さした。それは少し泥で汚れていた。

「これって。」

「姉さんが去年ここで描いてた夕日だよ。これ、完成させてくれない?」

「こんな小さな絵じゃなくてキャンバス一杯に描くから任せといてよ!」

「はは、ありがと姉さん。」

弟は少しだけトーンを落としそう言った。この時の弟の感情の機微を見抜けなかった。

 弟は数日間の検査を経て、経過を見て家に帰されることとなった。



 私は自室に籠り、毎日のようにキャンバスに向かった。私は一年のブランクを感じながらも、最高のそして最後の一枚を描き上げた。私の人生の集大成だ。今日は、最期の日だった。私は、自室にかけたカギを開け、弟を招き入れようと彼の部屋へ向かった。

「ハルー!」

扉を開けたが誰もいなかった。

(ハルキは中学か……。)

新学期が始まっても私は高校に登校せず絵を描いていた。何日も外の空気を吸っていない気がする。私は新鮮な空気を吸おうと外に出た。夕方。近くの公園へ着くと、ベンチに座った。何人かの子供たちが遊具で遊んでいる。ハルキもこれからは沢山遊べる。友達もたくさん作れる、勉強も、恋もできる。おいしいものも食べれるし、色んな景色を見れる。――私の命と引き換えに。それだけでも私の命には使い道があった。それにわがままを突き通せた。ハルキの為に最高の一枚を残せた。これで十分だ。私の人生には価値があった。綺麗な夕日だ。そろそろあの少女が私の命を取りに来る。夕日を浴びながら最期の時間を過ごすのも悪くない。私は、頑張っ――。

その時、携帯の着信が鳴った。母からだ。



 「ねえ死神さん。僕がここから飛び降りたら契約はどうなるの?」

僕はその少女に尋ねた。大きな橋の上、その中腹に僕らはいた。橋の上にも関わらず不自然に風が凪いでいた。

「君は自殺したりはしない。そうなっているの。」

「そんなんだ。死神さんには何でもお見通しなんだね。」

僕は笑ってそう言った。

「そろそろ、かな――。」

「ねえ、これで良かったの?」

不安そうに少女は尋ねた。

「良かったよ。最後に元気な体で目いっぱいはしゃげたし、久しぶりに友人もできた。それに、姉ちゃんの絵を描く姿が見れたからね。僕としては満点だよ。」

そして少し僕は遠くを見た。綺麗な夕日だ。

「少し期待してたんだよね……。姉ちゃんが僕の病気が治るように願ってくれるの。僕のことを忘れてなくて良かった。そういった意味でも満点かな。」

きっとこれは独りよがりの満足感だと思う。今だけの、最期の。

「君の人生には意味があった?」

「姉ちゃんの人生を悪い方へ変えたのは僕だし、僕が消えれば姉ちゃんは好きなだけ絵が描ける。僕の目を気にすることなくね。そういった軌道修正はできたんじゃないかな。」

僕は自嘲気味に言った。少女は僕の顔から視線をそらさず、不動で、感情は見せなかった。

「つまり死ぬことが君の願いだったってこと?」

「そうかもね。」

「私みたい。」

そう少女は呟いた。

「でもあなたはずっと死ななかった。自殺する勇気がなかった。だからこそあなたには生きる意味がある。生きた意味が必要だと思う。」

少女は語気を強めてそう言った。そして再度僕に問いかけた。僕はその姿に少し驚き、彼女の方を向きなおした。

「あなたの願いは何?」



 弟が死んだ。号泣した母はそう告げた。私が得た情報はそれ以上でもそれ以下でもなかった。私は持っていた携帯を落とした。

(どうして……。)

そう思った。涙は出なかった。あの少女に願ったはずだ。弟の病気を治すように、私の命と引き換えに。あれは夢だったのだろうか。弟がこの一か月間ずっと元気だったのは夢だったのだろうか。弟にまだ絵も見せてないのに。

「オオノハルカさん。」

風が凪いだ。眼前にあの少女が立っていた。

「私の命をとりにきたのか。ペテン師……。こんなぼろぼろの私の命を。全て失った私の命を。」

私は彼女をにらみつけてそう言った。

「いいえ、あなたの命を取りに来たのではありません。あなたは契約者ではありませんので。」

「どういう意味だよ。私の命と引き換えに弟の病気を治すって言ってただろ。」

「いいえ、私の契約者はオオノハルキさんでした。そして彼の願いは、姉であるあなたの願いを叶えること。そしてその願いは叶えられた。そのため契約通りハルキさんの命を頂きました。」

――つい先ほど。そう少女は付け加えた。

「なんでハルがそんなことを――。」

「私はこれを届けにここに来ました。」

それは私が一年前に描いていた夕日の絵だった。

「これは……?」

「ハルキさんの本当の想いと、願い、そして生きた意味です。」

私は裏にハルキからのメッセージが書かれていることに気付いた。すべて読み終わるにはそれほど時間を必要としなかった。私は落ち着いた声で立ち去ろうとする少女を呼び止めた。

「なあ、死神さん。私と契約ってもうできないの?」

そして少女は無表情を崩さず、それでも優しそうに私に言った。

「ええ、あなたは不幸ではないので。」



 死神になる前、私は人間だった。

 自ら命を絶った人間は黄泉の国にも、極楽浄土にも行けなかったし、輪廻転生もできなかった。この町を彷徨う存在となり、奇異な力が与えられた。先ずは情報収集能力だ。私は知りたい様々な情報を知ることができた。知識だけではなく、未来までも手に取るように分かった。もう一つは現実を改変することができることだ。不治の病を治すことも、人間の感情を変化させることもできた。常識や認識の書き換えも可能だった。しかしこれには制限があった。まず、一定期間内に少なくとも一回はこの能力を利用しなくてはならない。使用しなかった場合、私の存在は無に帰る。二つ目は、能力の使用がこの町に限られることだった。そのため世界中の常識を書き換えることはできない。次に死者を蘇生することはできないことだ。それだけではない。能力の使用には任意の人間の命を犠牲にしなくてはならなかった。

 自らの力で生きる意味を得られなかった私は、何者かによって存在する意味を与えられた。その時私は死神となった。

 生きる意味を失いかけた不幸で臆病な人間に、生きた証を与えることにした。それが私の生きる意味となるように。

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ある少女の生きる意味 青伊 公緑 @Midori_Torumari

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