ある少女の生きる意味

青伊 公緑

前編

 生きる意味ってなんだろう。私は生まれてからそして死ぬまでずっと考えていた。これは、私が立ち去った、そして最も生きたかったこの町への、死神となった私の、私なりの復讐だ。



 「綺麗。」

私の描く夕日を見て、中学生になる弟はつぶやいた。弟は病室のベッドから身を乗り出し、私の持つ筆の軌跡をまじまじと観察している。

「私の絵なんかよりも本物の夕日の方が何倍も綺麗だし、そっち見なよ」

夕日のまぶしさに目を細め、少し照れながらそう返した。昔から弟は私の絵を好きだと言ってくれた。

「ねえハル、姉ちゃんの絵で一番何が好き?」

この病室には私の描いた絵が沢山飾られている。私はものすごく照れ臭いのだが、弟はこの病室をすごく気に入っていた。

「商店街の絵かな、それかお祭り。人がいっぱいいて、この町の元気をもらえるよ。でも。」

弟はそこで言葉を止めた。

「でも?」

「今描いてる絵が一番好きかも」

弟はもっと体を乗り出して言った。少し風が冷たくなった。

「んふふ、ありがと。体冷えちゃうからベッド戻りなさい」

私は弟にベッドに戻るよう促し、弟はそれに従った。私は少し不満そうにする弟に布団を被せた。

「今日はここまでにしようかな。また、明日来るね。」

「うん。ありがと姉ちゃん、夕日、描き上げたら一番に見せてね。」

「もちろん」

当たり前だと言わんばかりの勢いで私は返した。これは過去の記憶だ。



 雨の音が聞こえる。目を覚ました。また夢だ。よくあの夢を見る。悪夢だ。私は布団を目いっぱい覆い被ると耳を塞いだ。雨の日が嫌いだ。でも晴れの日も嫌いだ。曇りの日はまだマシだ。起き上がれない。起き上がる意味もない。学校に行かなきゃいけないという義務だけが毎日の私を動かしている。そこに意思も意味もなかった。どたどたという足音とともに母親が起こしに来た。鬱陶しい。私は嫌々ながらもどうにか起き上がった。

「起きなさい。お母さんもう仕事行くから。朝ごはんちゃんと食べるのよ。それと帰ったら、部屋掃除して、汚いわよ。」

そう言うと床に散らばったゴミを踏みながら、カーテンを開けた。絵画で取ったトロフィーの一つが窓の桟から床へ転げ落ちた。

「はい。」

私は覇気のない無気力な返事をした。

「それと帰りにハルキの病院行ってくるから、夕飯は勝手に食べてね。あなたもたまには顔を出しなさい。」

そう言うとそそくさと部屋から出て行った。私は制服へ着替え、玄関の開閉する音を確認した後、一階のリビングへ降りた。アスファルトを打つ雨の音だけが聞こえてくる。私は見たくもないテレビの電源を付けた。天気予報だった。朝食は無味乾燥だ。昨日の朝食は思い出せないが、今日の朝食も昨日と同じだろうと思った。朝食を終えると食器を素早く洗い、片づけた。そのまま洗面台には行かず、シンクに備え付けた歯ブラシと歯磨き粉で歯を磨き、顔を洗った。この家にあるものは父・母そして私のものが大部分で弟のものは殆どない。リビングにはそれは一つもない。しかし、洗面台にはそれがある。私が洗面所を使わない理由の一つだ。私はテレビを消し、昨日と変わらない中身のカバンを背負うと玄関に向かった。雨の音が大きい。私は傘立てから一番大きい傘を抜き取ると、それを差して家を後にした。


 私が遅刻をするのはいつものことだった。朝のチャイムが鳴ると同時に校門をくぐり、朝の会が終わると同時に教室に入った。私に文句を言う人は誰もいない。はじめこそ少しはいたが今はおかしな人間に近づかないようにといったよそよそしさを生徒も先生もまとっている。しかし、今日は違った。誰かからの視線を感じている。それは奇異と好奇心からくる物見遊山な視線ではなく、監視している、そんな感じを背中に常に感じていた。


 今日は修了式だった。明日から家でずっとじっとしていられる。そんな少しの安心感の中、帰路につこうと席を立った。その時、名前が呼ばれた。校内放送だ。

「美術部二年、オオノハルカさん。美術準備室まで来て下さい。クロキ先生がお呼びです。」

拙い放送部の声に少しだけ腹が立った。しかしそれは本来ならば呼び出したクロキ先生に向かうものだが、私の彼女への評価はもともと非常に低いのでこれ以上腹が立つことはなかった。私はその足で美術準備室へ向かった。


「オオノ先輩!」

私は美術準備室へ向かう途中呼び止められた。私はバツの悪そうに少しだけ笑顔を作ると、彼女の方へ振り向いた。

「先輩!今日、描かれてくんですか!?」

期待のまなざしで尋ねられた。

「えー、今日はクロキ先生に呼び出されただけで、描いてはいかないかな」

「もう、戻られないんですか?」

「うん、もう二年生も終わるし、来年は受験生だからね。そのまま引退かな。」

「残念です。でも、私たち後輩はオオノ先輩の絵に魅せられてこの高校に進学した部員ばかりです。もし、お手すきの時間があれば、是非ご指導にいらしてください。私たちが入学してからまだ一度もいらしてないので……。」

「ありがとう。でも、もう来ないよ。」

「どうして――。」

「またね。」

私は彼女の言葉を遮り、最大限の作り笑いをして立ち去った。

また誰かに見られている気がする。


 「失礼します。」

そう言って私は美術準備室へ入った。埃っぽく、そして絵の具の油っぽいにおいがして少しだけ気持ちが悪くなった。

「オオノさんいらっしゃい。ちょっとここに座って。」

椅子に座る先生は、自分の前に置かれた椅子を指さし、少し自信なさげにそう言った。私は、不自然ではないくらいのできるだけ先生から離れた位置まで椅子を引いて、そして座った。

「オオノさん。進路は考えてる?」

「いえ、具体的には……。」

「絵は描いてる?」

「描いてません。」

「何かほかにやりたいこととか、興味のあることとかは?」

「やりたいことも、興味のあることもありません。」

「今、絵描かずに何してるの?」

「何もしてません。」

「何があったかは、私には分からないけどもさ、もうそろそろまた絵を描いてみても良いんじゃないかしら。そうしたらまた気が晴れるかもしれないし。」

勝手なことを言うな。私はすぐにでも言い返したかったし、立ち去りたかった。

「絵は――。」

私がそう言いかける前にクロキ先生はいくつかのパンフレットを差し出した。

「もし、もう一度描きたいと思うのなら美大を目指してみない?あなたが目指すのなら私が指導できることも沢山あるしそれにうちの高校の活性化にもなるし。」

私はクロキ先生に言い返す元気を完全に奪われた。それに彼女は初めから私に絵をもう一度描け、美大を目指せと言いに呼びつけたのだ。

「分かりました。再考します。」

私は力なく差し出されたそれらを受け取り、力なくそう答えた。

「あなたならきっと素晴らしい画家になれるわ。」

そう最後に言ったのを聞きその場から立ち去った。何のための、誰のための画家なのか。素晴らしいって誰の感想だ。そう思った。


 雨は少しだけ弱まった。私は昇降口で傘を差しながらそれに気づいた。

(母さん、今日ハルキのところに行くんだっけ。)

私は朝、母さんの言っていたことを思い出した。たまには顔を出しない。行けるところまで。そう思い、私はハルキのいる病院へ歩き始めた。私がまた絵を描き始めたらハルキはどう思うのだろうか。悲しむ、いや喜ぶ。いや、喜ぶことは絶対にない。きっと気持ちの悪い複雑な気持ちになるに決まっている。いや、何も感じないかもしれない。弟は私が絵を描こうが描かまいがそんなことが些細なことと思えるほどの不幸を一人で背負っている。私なんかにきっと興味がなくなるほど毎日が辛いだろう。それでも必死で生きてるのだろう。私は独りよがりの寂しい奴だ。そう思うと私は弟のところへ向かう理由を失った。いや、そんなもの初めからなかったのだ。



 私はハルキの為に生きていた。

 弟は幼いころから病を抱えていた。それは決して治ることがなく、年々悪化していった。小学校三年生になると彼は殆どの時間を病院で過ごすようになった。学校へも、お祭りにも、旅行にも行けず、楽しいことは殆どできなかった。弟のいない時間が増えるにつれ私の中で不安が生まれていった。私が弟にできることはないだろうか。それはきっとかわいそうと弟を哀れむ同情だった。私は、それから積極的に弟へ関心を向けた。身の回りの手伝いも、入院時のお見舞いも、家族の誰よりも動いた。けれども不安は消えることがなかった。私が提供しているのは生きるために必要不可欠な行為であり、私がやらなくても誰かがやるのだ。それは決して私にしかできないことではないし、弟を楽しませることではなかった。

 私はある時、小学校の美術の時間に絵を描いた。なんの特徴もない、校舎と校庭、そしてそこで遊ぶ児童を描いただけの水彩画だ。それを弟は大層気に入ったのだ。私はそれから時間を見つけては町の絵を描き、弟へ見せた。見せるたびに弟は喜び、また描いてとせがんだ。弟を連れ出して二人で絵を描きに出かけたこともあった。彼の絵はとても上手く、彼の病気を恨んだ。そして私は自らの時間の殆どを絵に費やすようになった。その結果、絵画の賞を数多く受賞したりもした。それは副産物であったが、それでも、私が弟の為にした努力の別の姿だと思うと少しは満足感もあった。私が弟を生かすんだと、そう思って。そして、私は弟の為に生きるんだと強く思っていた。

 しかし、それは突然終わりを迎えた。弟の目は一年前、光を失った。

私は絵を描くのをやめた。

 私が彼の為に描いた絵は全てもう役割を持たず、部屋のトロフィーや盾は副産物にも満たないガラクタになった。そして私は毎日のように虚無と不安に襲われ、次第に弟には会えなくなった。私はもう弟の為に生きられないのだ。いや、弟の為に生きていたと思うことはただの思い上がりだった。私は弟に生かされていたのだ。



 私は病院へ向かう歩を別の場所へと向けた。どこでも良かった。私は私の描いたことのある景色から逃げたかった。私は当てもなく歩いた。どこかの町のどこかの川のその土手に立っていた。静かな場所だった。

 朝から降っていた雨はやみ、雲は一つ残らず消え去っていた。

 綺麗な夕日が私を照らした。

 (もう、どこにも逃げられないじゃんかよ。)

私は崩れ落ち、額を地面にこすりつけた。そして乾きかけたアスファルトをもう一度濡らした。夕日は私が弟に描いていた唯一描きかけの絵だった。もう生きる意味はない。どうしようもない。何のために生きるのか。何のための人生なのか。私をずっと見てる誰か、何か、私を助けて欲しい。虚無と不安の中から救い出してほしい。そう強く願った。

 その時、ふっと風が凪いだ。顔を上げると、神様がそこにいた。

神様は少女の形をしていた。

「あなたの願いは……、何?」

少女はそう呟いた。

「あなたは……?」

私は私よりも年下に見えるその少女に問いかけた。

「私は、死神。命を代償に契約者の願いを叶えるもの。この町で最も不幸な人間の前に現れる。――あなたの願いは、何?」

私は藁をもつかむ思いで、声を絞り出し、掠れた声で精いっぱい叫んだ。

「ハルキの病気を治して!」

なんでもよかった。この少女が神様だろうが死神だろうが、ただの子供であろうが。

「分かった。」

私は恐る恐る顔をあげた。少女は無表情を崩さず瞬きを一回だけした。

「今、君の弟の病気は全快した。期限は一か月。後悔、しないように。」

そう言って少女は視界から姿を消した。私は。そのまま泣き続けた。

 ここから、私の最後の一か月が始まった。

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