夢の中の水底

九十九

夢の中の水底

 男は夢を見る。其れが夢だと知った上で、不安定に、不明瞭に、不明確に。荒唐無稽に組み立てられた夢を見る。

 

 男の夢の中は暗く湿っていた。右で、左で。近くで、遠くで。雫が水面へと反響するかの如く、籠った水音が木魂する。

 夢の中は水底の様だった。表面は、或いは上面は時に穏やかに、時に荒々しく揺れているのに、水底は、或いは下面は唯静かで、穏やかで、しかし言いようのない恐怖がじわりじわりと身に沁みつく。

 どのような心理現象、或いは身体状況によってそのような夢を見るのかは男には到底わからぬままだが、男はその夢を見る事が好きだった。水底の泥の様なその暗く湿った夢が、男は好きだった。


 男は感嘆の溜め息を付くと自身の頭上を仰ぎ見た。恋に焦がれる少女の様な顔で男が見詰める視線の先に「其れ」は居た。大凡、人が見れば発狂するような「其れ」が、男の視線の先に佇んでいた。

 「其れ」の全体は大きく、像の五倍は有ろうかと言う鹿の胴体を切り取った様な体躯に、鉱石の鎧を纏った山羊の足の様な太く節くれだった足が、蜘蛛の足の様に八本付いていた。

 顔らしき物は何処にも無く、胴から伸びた獣の首は途中で斜めに線が引かれた様に先が消えている。覗く断面からは黒い靄と鉄錆びた黒が流れ続け、靄に紛れる小さな白い破片は動物の骨の欠片とよく似ており、不安を駆り立てられる。

 鹿の胴体で言えば下腹の部分にはぱっくりと大きな裂け目が出来ており、鋭い牙が縫い目の様に裂け目に並ぶ。鋭い牙の隙間、裂け目の中からは不定形な触手状の物が、それぞれが意志を持つように無造作に揺らめいている姿が覗いていた。

 男は「其れ」を「彼」と呼んでいた。其れが例え夢の中で有ったとしても大凡の人間が見れば、悪夢として魘されるか、感受性によっては発狂するような造形の「其れ」を「彼」と親しみを込めて呼んでいた。

 彼は男へと音の無い言葉で問いかけた。彼が言葉を紡ぐと、周りで幾つもの気泡が立ち上る。

 男に問いかけられた彼の言葉は、恐らく音にした所で人間には到底理解の及ばぬ物で有ったが、夢であるから分るのか、それとも男が一方的に彼の言葉に宿る意志を作り上げているのか、男は彼の言葉の意味を理解していた。

「直ぐに用意するよ」

 まさしく旧知の親しい友人に対する口ぶりの男は、恍惚とした表情で彼の言葉に答えた。

「今回は少し顔が曖昧な部分が有るけれど、結構近くで見ていたからね」

 男はそう言って、自身のポロシャツの隙間から痛々しく変色した青痣を撫でて笑う。

 男が瞬きをした次の瞬間には、一人の若者が男の隣に現れた。之は男の夢であるから、男が夢だと知りながらも見ている夢であるから、思う様な人物を呼ぶ事など造作も無い。衝撃に眩む中見上げて居た為、顔が曖昧だった事だけが心配だったが、問題無く呼べた様だ。若者の顔を改めて見てみると確かにこんな顔をしていた、と男は頷く。


 男の夢の中へと現れた若者は一瞬、不思議な顔をして辺りを見渡す。そうして男の姿を見つけると好戦的な厭らしい笑みを浮かべて口を開いた。が、直ぐに閉口して、その場に崩れ落ちる。若者の視線の先には「彼」が佇んでいる。

 男は、柔らかな慈母の様に微笑んで、若者へと近づく。若者はすっかり怯えて縮みあがり、なりふり構わず両腕を振り回した。若者は逃げたいのであろう、足の付け根が僅かに痙攣を見せるが、腰の抜けた状態では如何する事も出来ずに、唯駄々を捏ねる子供の様に喚きながら上半身を振り回した。

「あぁ、大丈夫だよ」

 男は泣いている子供を宥める様に、けれども情事の艶を含ませた様な声でそう言った。目の前に欲望を曝け出された娼婦の様に、他者の官能を鳴らす様に、男の堅実でありながら穏やかな風貌とはかけ離れた声音で、そう言った。

 瞬間、夢の中の温度が温かい物になる。太陽どころか光も差し込まぬ海底にも似た夢の中で、春の陽気に包まれた様に温度が上がる。大きな気泡が弾けて、熱が男達の頬を緩やかに撫でる。

 若者は男の様子に呆気に取られて、目の前に立つ人物を唯々見上げた。その瞬間、若者の眼に「彼」が映っていなかったのは、若者の脳が下した一種の防衛反応で有ったのかも知れない。

 彼を無い物として扱う若者に対して男が思う所が無かった訳では無かったが、其れまでも何人かそう言う反応をする輩が居たので、仕方が無いと肩を竦めるだけにした。彼が裂け目から伸ばした触手で男の背中を叩いた事も大きい。男は微笑み、催促する彼の触手を軽く叩いて承諾の意を示す。

「あぁ、すまない。昨日の夜はずっと泣いている子だったから、今回は静かな方が良いかな、と。でも確かに夢には終わりが有るからね」

 男は言いながら急かす彼に道を開けた。

 彼の裂け目から伸びた触手がずるりと湿った音を立てて蠢くと、蛇が獲物を絞め殺す様に若者の身体へと巻き付いた。

 拘束された若者は引き攣るような悲鳴を上げる。震えて歯の根が合わないからか、先程の様に喚く様な叫びが若者の口から出る事は無かった。掴まれている現状に、そして認識した目の前の存在に、恐怖で塗り固められた若者は如何する事も出来ずに引きつけを起こし始める。其れでも若者が最期の理性を手放し切れなかったのは、夢の中だからと何処かで思って居るからだろう。

「君と言う個を失うこと無く、彼と対峙できるなんて幸運だな、君は」

 一欠けらの悪意も無く男はそう言って笑った。この先、何が起こるのかなんて散々見て来た筈の男は、けれども少しの他意も無く、若者の理性が残って居る事を喜んだ。此処に来て初めて若者は男を恐れた。

 夢の中はいつの間にか温度を無くし、先程とは打って変わって真冬の水底の様に冷たい。 

 彼の触手が若者の身体を締め上げる。縄と縄とが擦れ合う様な音が徐々に大きくなり、やがて何かが折れる音と千切れる音が同時に鳴ると、若者の口から幾つもの気泡が立ち上り、そこでやっと声の出し方を思い出したらしい男の絶叫が響き渡った。其処から先は若者にとっては筆舌しがたい恐怖で有った。大凡の人々が見れば発狂する光景が其処には有った。縊り取る、中へと侵入し溶かす、暴発させる、内側から突き破る、抉り取る。最も恐れるべきは、気を失う事も、絶命する事も、叶わずに弄ばれる事だった。

 若者は小さく、だが確実に頭を横に振り、声無き声で男へと助けを求める。しかし、恐怖で塗りたくられた若者の眼に映る男は穏やかに微笑むばかりで助けようとする意志は見えない。それどころか見慣れた日常の一幕の様に、例えば友の食事風景を何となく眺めている様に、目の前で起こる異常を異常として捉えていない。

「美味しいなら良かったよ」

 実際、男は目の前の異常な残虐性を持った殺戮を友人の食事風景としてしか捉えていないようであった。

「其れが終わったら少しだけ話をしようか」

 目の前で起こる惨劇には目もくれず、男は微笑んで、彼とする会話に思いを馳せた。

 暗く、唯々静かで穏やかで、それでいて恐怖が染み出す水底の夢の中は、男にとって居心地が良い。


 男は恍惚とした表情で目を覚ました。男にとっては最高の目覚めだ。目が覚めてもなお夢見心地で男は夢を想う。夢の中の彼を想う。

 初めて夢を見た時、初めて彼と対峙した時、彼方からの問いに拒むのではなく受け入れる事を選んで本当に良かった、と男は思う。そうでなければこれ程までの幸福な目覚めを得る事も無かった。

 眠りに落ちる時にはまるで若い獣の様に欲し、眼が覚めれば夢見心地の侭次の夢を想い心躍らせる。素晴らしい夢と目覚めの繰り返しは、難しい事等何も知らずに唯次の日に友人と遊ぶ事だけを待ち望んでいた幼いあの日々によく似ている。

 何と素晴らしい日々であろうか、と男は穏やかな気持ちで微笑む。思えば彼の夢を見る様になってから随分と目覚めが穏やかな物になった。其れまで憂鬱と恐怖を孕んでいた夢からの浮上が、高揚と安堵へと変化した。

 全て彼のお陰だ、と男は笑うと、朝の準備をする為にベッドから起き上がった。


 男がコーヒー片手に点けた薄いモニター越しに、奇怪な形で次々に人々が絶命する怪事件についてのニュースが流れ始める。今回の犠牲者の写真もまた男の見知った顔だったので、男は満足げに笑った。あぁ、何て最高の目覚めなのだろうか。

 そうして今日も男は夢を見る。其れが夢だと知った上で、不安定に、不明瞭に、不明確に。荒唐無稽に組み立てられた水底の夢を見る。

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