悪夢の掃除機

くら智一

Episode 0

 「夢幻病」――。昨今、日本を騒がせている謎の病だ。脳に生じる病気で、一度眠りに入って発症したら最後、二度と目覚めないらしい。無限に続く夢――故に夢幻むげん病だ。


 医学界では早急に対応が進められているが、外科手術で治せない難病を前に、医師たちは手をこまねいているだけだった。


 そんな折、地方の一都市では不思議な噂が流れた。得体の知れない人間が夢幻病患者を治したというのだ。マスコミは半信半疑で現地を調査したが、手がかりをつかむことはなかった……。





「祐二っ! 朝よ。早く起きなさいっ!」

 どこの家でも繰り返される風景が一瞬で悪夢に変わった。

「ゆ……祐二? 祐二っ! たいへん……病院へ電話しないと!」


 現在、医療施設は夢幻病の患者を受け入れない。治せない患者を入院させることは無駄だと考えているからだ。今朝、新たに夢幻病にかかった少年は静かに寝息をたてていた。身体の機能は正常に働いている。意識が夢の世界から戻らないのだ。もっとも夢の世界など実在せず、脳内の神経回路がいずこかで塞がれている。


 少年の母親は、地元で最も著名な医療施設へ息子を連れて行ったが、全身をスキャンした後、夢幻病と判断されて、結局他の患者同様、家で介護するよう告げられた。


 少年は昨日まで健康に中学校へ通っていた。近頃、帰宅するなり部屋へ閉じこもる癖があったものの、食欲に問題はなく、親子間の会話から何かしらの問題を察することはなかった。少なくとも病気になる前兆のようなものは一切なかった。


 それだけに母親、そして仕事から早退した父親はどうしたら息子を助けられるかわからず、途方に暮れていた。


「神様……。どうか、息子を……祐二をお助けください」


 少年の両親は特に信心深いわけではなかった。苦しいときの神頼み……。ただし、彼らは先祖の墓参りだけは春と秋に欠かすことがなかった。無神論者の多い日本では古いならわしを大事にする真面目なタイプである。


 泣いて祈りを捧げること3日――、彼らの息子は回復せず眠り続けた。母親がため息をつきながら午前中の家事を済ませると、おかしな男が家を訪ねてきた。家のインターホンを鳴らし、玄関の外にたたずんでいる男は全身を黒い服が覆っていた。


 黒くつばのある帽子に、黒いシャツ、黒いズボン、黒いトレンチコート。怪しい風貌であることは間違いない。夢幻病の息子を抱える母親がもし、男の異常性から警察に通報していれば、この後のエピソードは起こらなかった。近年では、難病の子供がいるという家庭を訪れる怪しい男など、詐欺師以外の何者でもない。


 だが、男の前で玄関は開かれた。母親は病院で冷たい言葉を放った白衣の権威主義者と全く正反対の服装をした男に興味を持った。少年の父親は、すでに会社へ出かけていた。


「……夢幻病の少年がいると聞いた。報酬目当てではない。信用してくれるのなら、助けられるかどうかだけでも診てあげよう」


 ふてぶてしい喋り方だった。男の肌は白く、血が通っていないようだ。かといって白人というわけではなく、日本人に近い顔つきをしていた。敢えて言うならハーフ顔といったところだ。黒い衣服と白い肌は超常的な印象を与えた。


「……あなたに治せるのですか?」

「無論、診察するだけではない。治療するためにやってきた」

「……わかりました。医者にも見離された祐二を見てやってください」


 黒づくめの男は靴をぬいで家の中へ入った。靴下も黒、靴の裏側も真っ黒に塗られていた。彼は案内されることなく、まるでどこにいるのか知っているかのように少年の眠る部屋へと足を進めた。


「少年の母親よ、ひとつだけ約束がある。身内の者だけなら構わないが、決して無関係の人間を呼ばないように」


 男は光の射す少年の部屋へ入っていった。ベッドの上に眠る少年の前で膝をつき、彼の額へ真っ白な手のひらをあてた。


「……間違いなく夢幻病だ。彼……祐二君の抱える闇が見える。そうか、彼は数日前、イジメに遭っていたクラスメートを助けたところ、次の日にその被害者から陰湿な仕返しを受けたらしい。加害者のグループではなく、被害者というところが救い難いな。そして人間に絶望し、過剰なストレスから目を覚ますのを拒否し続けている」


「イジメ……ですか?」

「切っ掛けに過ぎないがな。要はストレスが許容量を超えたために、身体が日常生活に戻るのを拒んでいるのだ」


 黒ずくめの男は立ち上がり、少年の母親に告げた。

「これから治療を始める。できれば祐二君とふたりきりにしてほしい。母親に対して難しい注文だということはわかっている。だが、敢えて言うなら、貴女あなたのためだ」


 母親はしばらく黙っていた。まず夫を呼んで相談しようかとも思った。男の眼をじっくり見据える。眼球だけ白と黒が入り混じり異彩を放っていた。自分の懐に携帯電話が入っているのを確認しつつ、ゆっくり首を縦に振った。


 黒ずくめの男は、母親が部屋の外に出てドアを閉めるのを確認すると、再び少年の顔をのぞき見た。安らかに眠っている……。だが、安らかなのは夢の中だけだ。外の世界で親は嘆き、目覚めるのを心待ちにしている。そして夢幻病が治ったとしても自身が逃げようとした問題と向き合う事実は変わらない。


 少年を取り巻く問題は本人が解決しなければならない。黒ずくめの男にできることは、病による眠りから目を覚まさせることだけだ。男は帽子を取って天井を仰ぐと、頭部に力をみなぎらせる。血管が浮かび上がり、白い肌に赤味が差した。やがて、赤色は彩度を強め、マグマのように赤く変容していく。頭部の形も変わり、人間ではない、オオアリクイのような細長い口をもった動物に変貌を遂げた。


 細長い口を少年の耳に突っ込む。同時に少年の表情が苦痛に歪んだ。


 ズズズズと音をたてて、少年の耳から黒い何かがアリクイの尖った口へと吸い込まれていった。


 ――背後で携帯電話を落とす音が鳴った。振り返るアリクイの顔は、ドアの向こうから一部始終を覗いていた母親が顔面蒼白になって、腰を抜かす姿を捉えた。何もなかったかのように無視して、再び少年の耳に尖った口を突っ込む。その際、口からわずかに漏れたのか黒い煙のようなものが部屋に拡散した。


 黒ずくめをまとったアリクイは、やがてマグマのように紅潮させた顔色を薄め、口を少年の耳から離した。異形の頭部が再び変形し、元の人間の顔へ戻っていく。部屋のドアは半分開いたままだ。母親の姿はなくなっていた。


「う~ん……」


 変声期の途中にある声が漏れた。少年は数日ぶりに塞がっていたまぶたを開けると、目の前に立つ黒ずくめの男が視界に入った。


「うわぁぁぁっ!」


 驚愕の声で叫んだ少年は、微動だにしない男を見て警戒心と好奇心が混ざった顔のまま、身体を起こした。


 同時に部屋の外が慌しくなる。少年の母親が夫を家へ呼び寄せ、警察にも通報していた。まだ警察は到着していなかったが、父親が部屋へ怒鳴り込んだ。


「おまえっ、勝手に人の家へ入って何をやっているんだっ! 妻に聞いたら押し入ったと言っていたぞっ!」


「……ご覧の通り、祐二君の夢幻病を治しただけだ。それに不法侵入ではない。奥さんから許可をもらっている」


「祐二っ!」


 少年の母親が部屋に飛び込んだ。


「少年……。驚かせて済まない。君の夢幻病の原因となっていた物質はすべて吸い込んだ。一部が漏れて、おそらく母親が吸い込んだのだろう。厄介なことになる前に私は去る。少年よ、困難から逃げるな。向かい合わなければ解決することはない」


 外からパトカーのサイレン音。どこから聞きつけたのか知らないが、夢幻病を追うマスコミの車の音も家の近くから聞こえた。


「さて、退散するとするか……」


 黒ずくめの男は急ぐ様子もなく、部屋を出て家の廊下を歩いていった。男を避けるように少年の両親は自分たちの息子に近づき抱きついた。


 少年を救った男は、玄関を出たところで警察とマスコミに包囲された。単純な刑事事件ではない。「夢幻病」に関わる重要な情報を持った人間を逃がすわけにはいかなかった。特殊装備を身にまとった警官とマスコミ関係者は連携して、目の前にいる不審な男を捕らえようとしていた。


 黒ずくめの男が背後を振り向くと、少年が両親にはさまれるようにして玄関口に立っていた。母親は、先ほどまで蒼白となっていた顔が嘘であるかのように平静を取り戻していた。


「少年よ。夢幻病は……心の病だ。心と言っても、人間に限って言えば脳みそだ。私は夢幻病を治すために生まれた掃除機だ。長い年月を経て意思を持った掃除機が集まってできた九十九神つくもがみのひとり」


 男は取り囲む人間たちへと歩いていった。


「大人は変わらぬな。夢幻病の情報ばかりを求めるお前たちには、お灸をすえてやらねばならん」


 言葉をかき消すように、合図と共に大勢が男を取り押さえるため、一斉に飛び掛かる。


 ――ところが、黒い煙が突然、押し寄せる人間たちを包むように周囲へ広がった。


「……おいっ、どういうことだ。消えちまったじゃないか! 警官は何をやってるんだよっ!」

「報道関係者は邪魔するなっ! 公務執行妨害だぞっ!」

「夢幻病については情報に賞金も出ている。無力な警察に発言権はない!」

「取り逃がしたらお前たちの責任だと一面に載せるからなっ!」


 大人たちが寄ってたかって喧嘩を始めた。煙が消えてもなお、ののしりあいは途絶えることなく、殴り合いに発展した者は一方的な傷害罪を訴え続けた。


 祐二は、もはや影も形もなくなってしまった黒ずくめの男の声に気づき、耳を傾けた。


「少年よ、目を覚ませ! 掃除機で吸い込んだほこりは無くなるわけではない。権力者たちはストレスを世界中にばら撒き、小さなグループではストレスを一部の人間にぶつけて平穏を得ようとする。悪意は上流と下流を循環するのだ。目の前の悪意から決して目を逸らすな。夢幻病を完治する手段は君が考えるんだ」


 不思議な声は耳鳴りのように祐二の頭に残った。



<END>


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