母と弟
大野葉子
母と弟
そこは歩き慣れた廊下だが何故今更こんなところを歩いているのか、彼女にはわからない。
この廊下を通って
(わたくしは誰のところへ向かっているのかしら?思い出せないわ。)
わからないけれど、ここを歩いているということは御殿の主に用があるのだ。
(なんの用事だったかしら?主上はもういないのに。)
身に付いた習慣は頭の中に浮かぶ疑問を置き去りに彼女を
許しを得て
「姉君。ご息災でしたか。」
驚きの余り思わず顔を上げてしまった。
「主上…。なぜ。」
目の前にいたのは彼女の弟だった。ただ、彼女の知る弟よりもずっと幼い少年の姿をしている。
弟は質問には答えず、袖で口元を隠してくすくすと笑っている。この仕草にも覚えがある。自分たちがまだ
が、おかしい。
「主上はふた月も前におかくれあそばし、今は東宮さまがご即位あって天下をしろしめしておられるはず。それに、あなた様が主上であらしゃるとしたら、わたくしはすでに宮中を出て西の院におりますはずですのに、なぜわたくしが
そう、彼女の弟は帝として天下を治めていたが長患いの末、二ヶ月前に四十そこそこでこの世を去ってしまっている。弟の身分が高すぎて直接死に顔を拝んだわけではないとはいえ、甥が跡を継いで即位しており弟の死は甥の名で発表されているのだ。さらには最愛の息子の死を嘆き悲しんだ彼女の母も後を追うようにして先月亡くなっており、弟の死には疑いの余地がない。
なのに何故彼は今目の前でのんきに笑っているのか。それも彼女の記憶の奥底にある幼い頃の姿で。
それともうひとつ。
彼女は確かに「主上」に妻として仕えていたが、その「主上」は弟より一代前の帝である。なので弟が内裏の主となってからは一度としてこの清涼殿に足を踏み入れたことはなく、「主上」の后妃が通る廊下を通って弟に会いに清涼殿に足を運ぶことは本来ありえない。
その二つの疑問を口にしたのだが弟はふふふと可笑しそうに笑って答えようとしないまま、一方的に用件を話しだした。
「母上がわたしの傍を離れようとしないもので少し困っているのです。たまには姉君と過ごされることがあっても良いのに。」
からかうような口調は彼女の知る弟そのものだ。
やっぱり目の前にいるのは死んだはずの弟なのだなと妙な確信を抱きつつ、彼女は穏やかに突き放した。
「母上はあなた様が傍にいれば安心なのです。わたくしではありません。母上を御したいとお考えなら父上にご相談なさいませ。」
「父上はもうずいぶん前におかくれになりましたよ。姉君はお忘れになったのですか。」
「仰せのとおりですけれど、あなた様も母上も今は父上と同じ彼岸に旅立たれたではございませんか。」
「父上にはまだお会いしていないのです。決まり事のとおりであればわたしはそろそろ転生の頃なのですが母上がわたしの袖を離さぬので、母上の裁きが終わるまでわたしの転生を待ってもらっているのです。転生すれば父上にもお会いすると思うのですが。」
死んだばかりの人間は四十九日に及ぶ審判を経て転生先が決まるらしい。弟はその期間を過ぎているのでとうに転生しているものと思っていたが、母がその転生を阻んでいると言うのか。
「生きているわたくしに言われてもどうすることもできませんわ。」
彼女は少し苛だってきていた。
弟はちょっとでも面倒なことがあるとすぐ周囲に押し付けようとする。幼い頃からずいぶんとその尻拭いをさせられてきた。三つ子の魂百までの言葉どおり、死ぬまでそんなところは治らなかったが、死んでも治らなかったようだ。
母のせいで転生できないかのように弟は言うが、いつでも弟のことを気にかけていた母と、そのことを母に愛されている証だとして自分に見せつける行動を重ねてきた弟を幼い自分がどんな気持ちで見つめていたか、弟には死んでもわからなかったのだろうか。
「母上はご不安なのです。わたしの袖を離したらわたしともう会えないと思っておられる。こんなにも母上の御心が安らがないのは、姉君が母上の供養をきちんとなさっておられないからでは?」
弟は口をとがらせて言いつのる。そのそぶりは四十を過ぎた大の男のものではなく、今の見た目どおりの子供のものだ。
「まあ…。」
「母上が可哀想だ。姉君に見捨てられて。」
「そちらで母上を苦しめているのがわたくしだと言いたいの?」
苛だちが怒りに変わりそうだ。
目の前の小さい弟はそんな胸中を知ってか知らずか、地団駄を踏んで怒りだした。
「そうですよ、姉君のせいだ。わたしが死んじゃっても姉君がしっかりと母上をお慰めしていれば、母上はこんなに早く死ななかった。」
「姉君のせいだ!姉君のせいだ!姉君のせいだ!」
「やめて!」
彼女は耳を塞いで蹲った。
違う、わたくしのせいじゃない。
わたくしが何を言っても、何をしても、気落ちした母が弟の許へ行きたがる気持ちを動かすことなんてできなかった。
だって、母はわたくしより弟が好きだった。わたくしより弟を愛していた。生来病弱な弟をずっと気にかけていた。
そして、帝になった弟は母の誇りだった。
こらえきれなくなった彼女は弟を睨み、怒鳴り返した。
「あなたが元気にならなかったから母上は死んじゃったのよ!母上はあなただけが心の拠り所だったのに!」
するとどうしたことか。室内がすーっと暗くなり、弟の姿が見えなくなった。調度品も、自分が入ってきた部屋の戸口も何もかも消えて、真っ暗な中にひとり取り残される。
「主上?」
左右を見回しても弟の姿はない。静まりかえった空間が広がっているだけだ。
「どこへ行ったの、ねえ?」
急な静けさに不安になって両手で我が身を抱きしめていると、
「姉君。」
弟の声が聞こえた。
ただそれは先ほどまで聞いていた少年のそれではなく、弟が最期を迎えた頃の声だった。
「主上?」
「母上のことはわたしに任せてください。」
彼の声は穏やかだ。
「わたしの死が母上の寿命を縮めたことは申し訳ないと思います。姉君が気落ちした母上に生きる希望を作ってあげられなかったと悔やまれるのも無理からぬことです。でも、母上の生き甲斐はわたしでしたから、わたしが死んだらその時はと少なからず母上もお考えだったのでしょう。」
暗闇の中、なんとか弟の姿をみつけようと目を凝らすが、変わらず彼の姿は見当たらない。
「主上、どこに?」
弟はかすかに笑みを含んだ声で続けた。
「そこからは見えないのです、姉君。でも大丈夫。母上とわたしはずっと一緒です。」
ふわりと鼻先を何かがかすめていく感触がした。
それが何かわからずに戸惑っていると、弟の穏やかな声が響いた。
「目が覚めても忘れないでくださいね。母上もわたしも、満足していますから。」
そこではっと目が覚めた。
そこは暗闇でも清涼殿でもない、自室の御帳台でいつもどおり寝具を使っていた。当然ながら近くに弟がいるようなこともなく、弟の代わりに愛猫が自分の顔を覗き込んでいた。
夢か、と心の中で呟く。
(弟がわざわざわたくしの夢にやって来るなんて。)
ふーっとため息をついて額に手をやろうとし、気が付いた。涙が頬を伝っている。
(わたくし、泣いていたの。)
このひと月ほどずっと気にかかっていたのは弟の死から立ち直れないままに世を去った母のこと。
母のもう一人の子である自分が母を慰められたらと、病床の母の枕べに日参していたがその甲斐もなく母は父や弟の待つところへ旅立ってしまった。「わたくしを置いていかないでください」と願ったのに母には伝わらなかったことがむなしかった。弟のいない世界は母にとって生きるに値しない世界だったのかと。
だが、母の望みは最愛の息子が待つ世界で暮らすことだったのかもしれない。
それは決して自分が役立たずだからとか、自分のことを心配していないからとかそんな理由ではなくて、もっと単純に、弟とずっと一緒にいたいと思っていたから。
そしてもうひとつ。
そんな母の気持ちを弟はちゃんと理解して、向こうで一緒にいてくれているらしい。
彼女はそっと愛猫を抱き上げてその胸に引き寄せる。
気まぐれな愛猫は普段よりずっとおとなしく抱かれている。そのぬくもりに心の底から安堵が押し寄せてくる。
(母上は弟と会えて幸せなのね。)
そう思うと涙がこみ上げて、あっという間に溢れ出した。
「よかった。」
弟も母も今は安らかなのだ。
自分が心配することはもう何もない。
小さくもらした呟きが聞こえたのだろう、御帳台の向こうで女房たちが動く気配がして、ほどなく声がかかった。
「
涙を拭って目頭を押さえるが、泣いていたことはすぐに女房たちに気取られてしまうだろうなとすぐに悟り、諦めて穏やかに応えることにした。
「おはよう。今日もよろしくね。」
母と弟 大野葉子 @parrbow
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます