睡眠向上研究会

ふじの

睡眠向上研究会

 最近全く眠れない。

 仕事の不安が浮かんできてあったいう間に眠りが吹き飛んでしまう。運良く眠れたとしても上司が夢の中に現れて「起きろ」と急かされ、すぐに目が覚めてしまう。はっきり眠ったという感覚を持ったのはいったいいつ以来なのか。もう思い出すこともできない。


 僕がそう語り終えると、その部屋にいた人たちが全員で「わかるわかる」と強く頷いた。


 そして、壇上にいた白衣の女性が天使のような笑顔をまっすぐに僕に向け、

「お辛かったでしょ? でも安心してください。そのためにこの施設があるんですから」

 と言って、力強く頷いた。周囲の男女からホッとしたような空気が一気に流れる。もちろん僕もその一人だ。


 僕たちは「睡眠向上研究会」と呼ばれる施設の一室にいた。


 清潔感のある壁には余計な装飾はなく、脳が刺激されなくて心地よい。照明も妙に青っぽいというか冷たい感じでこれもまた下手に活力を刺激されなくてちょうど良い。


 うん、悩んだけどきてよかった。


 僕は手に握ったままだった友人の名刺のシワを伸ばした。この施設は紹介状がないと新しい患者を受け入れてくれない。偶然出会った小学校の同級生に感謝だ。今度、あいつに何かご馳走しなきゃな、と思っていたら僕の名前を壇上の美女が呼んだ。


「は、はい!」

 あわてて立ち上がると、柔らかく微笑んでくれた。

「あわてなくて大丈夫ですよ。順番になりましたのでお部屋に案内します」

 彼女の顔を見ているだけでよく眠れる気がする。


 暗い部屋で彼女が僕の頭にヘッドセットをあてる。何か音楽でも聞いて眠るのだろうか? 眠りに効果があると言われている音楽や音はすでに試している。もし同じような治療なら少しがっかりだ。不安が顔に出ていたのだろう。彼女は「安心してください」と言って微笑んだ。

「先ほどの問診や検査の結果をふまえ治療は完全にオーダーメイドです。簡単に仕組みをご説明しますね」

 そう言って彼女は僕にもわかるように優しく説明してくれた。


「眠れない原因はいくつかありますが、問診結果から『恐怖』が原因となっていると思われます」

「恐怖、ですか?」

「エェ。いわゆるストレスです。仕事に対する責任感がとてもお強いんですね」

 彼女が感じ入ったというように目を潤ませて僕を見つめる。

 眠れなくても幸せかもしれない。

「恐怖には恐怖です。仕事を忘れるような体験をすることで脳をリフレッシュすることができます」

「あぁ、バンジージャンプをするとすっきりするっていう」

 彼女がうなずいた、ように見えた瞬間、部屋の明かりが突然消えた。


「え? あれ? 停電ですか?」

 あわてる僕に答えは返ってこない。彼女も怯えているのかもしれない。

「大丈夫ですか?」

 そう言って手を伸ばした先に何か毛のようなものが触れた。彼女の髪の毛だろうか。思ったよりごわごわして脂ギッシュだ。彼女も仕事が忙しいのだろうか。何か生暖かいものが僕の指に当たる。これは。しっとりとして暖かい。この感じは、間違いない。舌だ。ちょっとざらついているけど。見た目よりなんて積極的なんだろう。これは僕も一歩踏み出す必要がある。そう思って彼女の顔があると思われる方に僕もゆっくりと顔を近づける。もわぁ。生暖かい息がかかった。うん、臭いね。いや、でも息が臭いくらいなんだ。歯磨きしっかり頑張って貰えば次は問題ない。


 ようやく彼女の顔と思われるものを指が捉えた。毛が生えている。毛深いにしてもほどがある。化粧ってすごいな。そう思った時だった。

 僕の眼の前でギラリと大きな二つの瞳がひかり、明らかに牙と思える白いものが僕の首元に迫ってきた。

「うわぁぁぁ」

 その瞬間、僕の意識は途絶えた。


「おはようございます」

 爽やかな声がした。遠い世界から聞こえるような声だった。無視することにした。

「おはようございます。よく眠れたようですね」

 笑みを含んだ聞き覚えのある声に脳が覚醒する。

「あ、あれ?」

 あわてて飛び起きた瞬間、目の前に彼女の顔があった。

「おはようございます。眠りはどうでした?」

 そう言われて気づく。忘れていた爽快感が脳と体を満たしている。3桁の計算でも瞬時にできそうなくらい脳が軽い。


「すごい。いつの間に眠ったんですか」

「うふふ。昨日、暗闇の中であった『恐怖』がうまく日常のストレスを飛ばしてくれたみたいですね」

 なんと。あの時点ですでに治療は始まっていたのか。

「昨日のあれはなんだったんですか?」

「ライオンさんです」

 彼女が軽やかに教えてくれる。そうか、ライオンさんに僕はキスしようとしていたのか。そりゃ、食われそうになるよ。


 それから数週間は本当に快適だった。夜暗くなるとあのライオンが出てくるような気がして仕事のことを思い出すどころじゃなかったからぎゅっと目を閉じているだけでストンとよく眠れた。


 睡眠が安定すると人は活力がわく。

 久しぶりに友人たちを出かける気力も湧いてきた。小学校からの友人の田中と飲みに行く気になったのも治療のおかげだ。

「面白い研究会だなぁ」

 製薬会社に勤めている田中は興味津々だった。

「だろ? ほら、同級生だったこいつに教えてもらったんだよ」

 僕はそう言ってだいぶボロボロになった名刺を取り出した。

「あぁ……なんか見覚えがある名前だけど。あんまり記憶にないなぁ」

「そうか? すぐわかったけどなぁ」


 名刺の名前に目を落とす。確かメガネをかけた、黒髪の……不思議なくらい特徴が思い出せない。そういえばこいつからどこで名刺をもらったんだっけ。


 田中はじっとそういつの名刺を見ていた。そして、ちょっとこの名刺貸してくれないか、と真面目な顔で頼んできた。田中も睡眠に悩みがあるのかもしれないな、と思って俺はうなずいた。


 再び眠れなくなった。

 ライオンごときでは新しく増えたプロジェクトの鬼の締め切りを忘れるのは困難だった。

 僕が再び研究所を訪れた時も、同じ白衣の女性が僕を迎えてくれた。

「大丈夫ですよ」

 そう涙が潤んでそうな瞳で僕を優しく受け止めてくれる彼女には母性すら感じる。


 この前と同じように個室で準備を終えると、彼女はにっこり微笑みながら、

「少しだけ強い設定にしてありますので頑張ってくださいね」

 と言った。


 はて、頑張るとはなんだろうか? そう思った時、外から凄い絶叫が聞こえてきた。

「なんだ?」

 壁の向こうから男の叫び声が聞こえる。

「お前らが俺の人生めちゃくちゃにしたんだよぉぉぉ」

「ここにいてください」

 彼女が強い口調で僕にいうと、ドアを開けた、「だめだ!開けちゃ」あわてて彼女を止めようとするが遅かった。「ウァァァァァ」声にならないような声をあげた黒い塊が彼女を突き飛ばした。「ゔぐぁ」彼女の声と思えない鈍い空気の塊のようなものが口から漏れ、すぐに真っ赤な血の塊を吐き出した。白い白衣が真っ赤に染まっている。僕は何も言えずに何もできずにただ突っ立ている。なんだ。ナンダコレハ。黒い塊に見えた男はゆっくりと彼女に目線をやり、にんマリと微笑んだ。

「やっだ。やっだぁ。これで眠れる。あと、一人だぁ」

 そいつの目が僕の方に流れる。彼女の中に埋まっていた出刃包丁をゆっくりと引き出す。ぼとぼとと赤い血が男の手からしたたりおちる。

「あどぉ、ひどりぃっっ!!!」

 男が飛びかかってくる。

「ウァァァァァぁ」

 頭を抱えてうずくまった瞬間、意識が途絶えた。


「おはようございますぅ」

 不自然なくらい明るい声がふってくる。深い眠りの間ずっと息を止めていたような気分で目が覚めた。脳はいろんな感情を絞り切って真っ白になってしまったような感じだった。

「どうでした?」

 男に刺されたはずの彼女は爽やかな笑顔で僕の目覚めを迎えてくれた。

「よく眠れました?」

 太陽のような笑顔になんとかうなずいて見せると彼女は嬉しそうに目を細めた。あぁ、生きている。生きていることがこんなに素晴らしいなんて。最高の目覚めだった。


 九死に一生を乗り越えた僕は仕事を軽々とこなし、夜は殺人鬼が来る前にと必死で目をつむるとスコンと眠りに落ちていた。


 それから数ヶ月は本当に絶好調だった。このままいけば不眠は乗り越えられると思っていた時に、新しい上司がやってきた。外資系企業からヘッドハンティングされたというその男は本当に人間かと思うくらい冷ややかな目をしていた。決して声を荒げたり、侮辱する言葉を口にすることはなかったけれど、彼が冷ややかな眼差しをふりかけた相手はあっという間にに消えていった。殺人鬼よりも数倍強い眼差しだった。


 僕が3回目の治療を申し込み、いつもの通り問診を終えて最後の呼び出しを待っている時、田中から電話がかかってきた。うっかり電話を切り忘れていた。周囲に気を使って1回目は出ないでいたら、2回、3回と着信がある。田中がこんな風に電話をしてきたことはない。さすがに何かあったのだろうと思って部屋の隅に移動して電話に出た。


「もしもし、お前、まだあの研究会通ってるのか?」

 開口一番で紹介の依頼か?まぁ、不眠の辛さは僕が一番わかってる。

「あぁ。今まさに病院にいるよ。紹介希望か?」

 僕がかすれた声でなんとか笑おうとすると、田中は声を落として囁いた。

「すぐそこを出ろ。あんな名前の同級生はいないんだよ。卒アル確認したか?」

「は?」

「俺、あの名刺、借りただろ?名前に見覚えがあったから。見覚えあったはずだよ。同級生じゃない。この前死んだ俺の友達が同じ名刺持ってたんだよ」

 何を言ってるんだ? こいつは。


「あいつも不眠で……。最後、『夜中にあと一人だぁ』って叫んで外に飛び出して車に轢かれたんだよ。あいつその名刺持ってたんだよ。お前、やめ……け。そこなんかおか……」

「おい、田中?」

 急に電波が悪くなった。なんだ、何を言いたいんだ。頭がぼんやりとしている。俺には眠りが必要だ。


「お待たせしました。さぁ、眠る時間ですよ?」

 いつの間にかいつもの彼女がにっこりと微笑みながら立っていた。

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睡眠向上研究会 ふじの @saikei17253

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