Note

増田朋美

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パリのシャンゼリゼ通りから、少し離れたところに、彼女は住んでいた。

名前をトラー・モームというその彼女は、どこかの女優さんのような色気があって、どんな色でも美しく着こなせてしまえそうな、綺麗な子だった。将来はもしかして芸能活動でもできるんじゃないかとおもわれるほど、かわいい子だった。今風の、目がパッチリとして、細みな体をした美女ではなくて、それよりも、大昔の映画に出てきそうな、大作風とともに去りぬの主人公の女性みたいな、そんな女性だった。そのとおり、多少気が荒く、学校では授業中にも突然怒鳴りだして、よく先生に怒られていることも多かったが、チボーは、そういう彼女を面白い女の子だとおもっていた。

二人が出会ったのは、小学校のころだった。同じ学校で、同じクラスになって、たまたま隣の席に座ったことから始まる。そのときのことは、チボーもよく覚えている。確か、初めて家庭科の授業をしたときに、彼女が間違えて牛乳をこぼしてしまい、チボーが雑巾を貸してやったことが、付き合い始めたきっかけだった。

具体的にどこかでデートしたとか、そういうことはあまりしなかった。というのは、チボーが音楽学校に進学することを決めていて、休日はほとんどバイオリンの先生の元へ通わないといけなかったからである。そういうわけで、二人はつきあうとしても具体的なことはできないから、今日あったことを交換して語り合おう、ということにして、交換ノートをはじめた。と言っても、キャラクターのかかれている子供っぽいノートではなくて、チボーが親戚にもらってきた、黒革のA4サイズのノートだった。二人はそれに、今日あったこと、それに対する感想などを書き込んで、毎日学校で会うたびに交換して見せ合う。これは、小学校を卒業するまで続けられた。トラーはその後、地元の公立中学校に、チボーは、音楽大学の付属中学校に進むことがきまった。これで交換ノートも終了してしまうのかとおもったが、幸いトラーもチボーも近隣に住んでいたため、二人は、毎日ノートを郵便ポストに入れることによって、交換ノートを続けた。二人とも決して成績はよいわけではなかったけど、そこは欧米特有の個人主義のためか、特に、やめろといわれることはなかった。日本で交換ノートと言うと、学校ではいじめを助長してしまうと言って、禁止している学校もすくなくないが、欧米では、さほどうるさくなく、特に禁止という命令が下ることはなかったのである。

中学校に入ってからは、ノートという媒体はやめて、便せんを購入し、手紙を書いてやり取りする、いわゆる文通という形態に変わった。でも文通を始めてまもなく、トラーの書く内容が、へんな風になっていった。あるときは、ものすごく明るくて、楽しかったことを手紙に書くのに、次のページには学校でひどい目にあった、死にたいと書き込むようになったのだ。どうもいじめにあってしまったのだろうか。それに、勉強についていけない、難しすぎてわからないと言う記述も見られた。チボーは、時折手紙の中で、勉強のヒントなどを書いてやったが、辻褄の合わない表現をするなど、彼女の記述、つまり文体そのものがおかしくなっていった。チボーはいわゆるリセ(日本で言うところの高校)への進学が決定し、規則正しく高校に通学したが、トラーは、病院に通うようになっていき、ほとんど彼女は外ではなく、自宅に閉じこもるようになってしまったのである。

でも、トラーとの交流は完全に途絶えてしまうことはなく、二人の交換文通は続けられた。

トラーがとじ込もってしまってからも、チボーが、文通をやめたくないと言ったためである。定期的に、手紙のやり取りは続いた。チボーはリセを卒業し、音楽学校を出て、バイオリニストとして、オーケストラにも入り、ソリストとしても活躍するようになった。それらのことを、非常に詳しく手紙に書いて、報告していたのだが、トラーは、家に引きこもったままだった。時おり、バカロレア(日本で言うところの、高卒程度認定のこと)の試験を受けると宣言して、勉強を始めたりするようだが、どこかでつまづいて、塞ぎ混んでしまうのだ。結局、彼女の資格取得は、長続きしなかった。

それでも、交換文通は続いていた。いくらメールが普及しても、郵送による手紙形式によるものだった。その方が、相手が存在するという気になれるからだ。

ところが、冬が厳しくなってきたある日。郵便で送られてきたトラーの便箋にこんな文句が書かれていた。なんだとおもったら、彼女の10年年の離れた兄の知り合いが、日本から二人やって来る、という。確かにトラーには、お兄さんがいて、早くに親を亡くした彼女にとっては、刺青師をしているお兄さんは、親代わりのようなもの。十年離れたお兄さんだから、あまり彼女に干渉することもなく、二人揃って生活していくことができたのであるが、いくらお兄さんの知り合いであっても、なんだか嫌な予感がしたチボーであった。

なんだかなあ、日本から連れてくるなんて、日本の古くさい考え方にトラーが洗脳されてしまわなければよいのだが。そこが心配になったのである。

数日後に届いた手紙には、日本から面白い友達がやってきたよ。と、書かれていた。なんとも物凄く綺麗な人で、有名な俳優にも負けてない、と記述されていた。トラーのやつ、日本人客に惚れてしまったのか?チボーが連想していた日本人男性というと、目が小さくて皮膚がぷくんとしていて、鼻が低い、黄色いはだの、変なやつという顔つきであった。そんなものがどうして、カッコいいといえるんだか?まあ、多分すぐ飽きがきて戻ってくるだろうと思ったが、そのうち、あんたにも紹介するよ、と、言う文句をみて、愕然とした。

「それが、ずいぶん素敵な人で、日本人とは思えないくらい素敵な人です。かなり大変な人なので看病するためにお返事はしばらく延期させてね。」

という最後の文句を読んでもっと愕然とする。あーあ、こうなってしまうのか。そんなにきれいな人が日本にもいたのか。どうか、その人とどうのこうのなんて、言わないでくれよ。頼んだぞ。と、チボーは終いには神頼みしてしまいたくなってしまうのである。

こんなもどかしいきもち、誰にも話せるはずもない。もし、そんなことを口にしたら、バカなこというもんじゃない。と笑われてしまいそうである。

実を言うと、トラーがなぜ、ほかの男性からちやほやされなかったか不思議なくらいだった。子供のときから美人で評判だった彼女だが、小学校から今現在まで、トラーは誰かに告白されたことは一度もない。本人はどうせあたしは、と自信を無くしているが、有名な女優にそっくりなので、もしかしたら誰かに盗られてしまうのではないか、とチボーはいつでもひやひやしていた。彼女のお兄さんのマークさんは、あの気性の激しさから、そうなってしまったんだろうと予測していた。

さらに続けて、トラーが書いた本文を読んでみる。

「彼の名は、磯野水穂さんです。彼は、ピアニストとして、活動していたそうです。好きな作曲家はゴドフスキーだって。あたしは詳しくないけれど、すごい難しい作曲家なんだよね?それを平気で弾けちゃうんだから、すごいってことだよね。」

ん?どういうことだ。ゴドフスキーなんて、日本人には体格が小さすぎて弾けないはずではないだろうか?

という事はその日本人男性、格闘家並みに大柄という事になる。

背が高くて、ものすごい演奏技術を持ち、それに俳優に負けないくらい綺麗となれば、もう自分には敵うものは何一つない。あーあ、ついに盗られてしまったか!チボーは、がっくりとおち込んだ。確かに、返事を出す気にはなれず、結局はその白い封筒を、机の上に放り投げてしまったのであった。

そのあとにはこんな記述もされていた。

「もう一人の杉ちゃんという人は、とても変わっていて、彼の引き立て役です。でも、いろんなことにうるさくて、もてなしに出したお菓子に、こんなに食べにくいものばっかりじゃないかと文句を言っています。そういうところは、日本人らしくなくて、面白いおじさんだなと思います。二人とも、面白くて、いい二人連れだと思いました。私たちも、そういう二人組になれるといいな。」

翌日。

その日は、特に個人レッスンも楽団の練習もなく、休みの日だった。休みの日はみんな、友人や恋人とバガンスに行く人が多いのだが、僕はその相手がいない。ただ、家にいて、一人でバイオリンの練習をしているのも、面白くない。でも、其れ以外やることもない。朝食をとった後、チボーは一人でバイオリンの練習を開始した。

しかし、母親が入ってきて、今から親戚のおばさんが、うちに来るから、弾くんだったらどっかよそで弾いてきて頂戴!何て言いながら、廊下を通りかかった。その中には、あんまり弾きすぎるとご近所に迷惑になるでしょ?という意味も含まれている。まあ、パリと言えば過密な大都市だし、在りとあらゆるところに住宅が密集するように立っているから、隣の家の人がしゃべっているのも聞こえてしまうのも、いたしかなく、それではうるさいと言われてしまうこともまれではなかった。

しょうがない、道路で練習してくるか、と、チボーはバイオリンをもって、家を出ていった。

家を出て、メイン通りである、シャンゼリゼ通りを歩き、ある商店の近くにあるベンチにケースを置いて、楽器を取り出し、弓に松脂を綺麗に塗って、バイオリンを調弦する。幸い音楽に偏見のある人は少ないので、公園とか道路で演奏していても、余りうるさく窘められることは少ない。それにうまい人には金を出してくれることもある。

さすがに今日は、昨日出された手紙のせいで、明るい曲を弾く気にはならなかった。それよりもなんだかそろそろ雪の降ってきそうな、寒い季節にふさわしい、ヴィヴァルディの四季から冬のソロ部分を弾き始めた。

「あ、バイオリンの音がする。」

前方のほうから、日本語が聞こえてくる。

「たぶん、あの人が弾いているんじゃないかしら?」

と、聞きなれた声で日本語をしゃべっているのが聞こえてきたのだった。間違いなくトラーの声だ。もしかしたら、お兄さんに日本語をたたき込まれたのだろう。それにしても、普段からなかなか勉強しようとしなかった彼女が、一生懸命覚えようとしたのは、やっぱりその人物が「きれいな人」だったからに他ならないのではないかとチボーは思ってしまった。

チボーはムキになって、四季より冬のソロ部分を何回も繰り返して演奏した。

やっぱり、近づいてきたのはトラーであった。同時に彼女に手を引っ張られながら、一人の日本人男性が、やってきた。と言っても、彼が想像した、格闘家並みに大きくて、がっしりしていて、筋肉もりもりとは全く違う人物だった。身長だって、153センチ程度しかないし、体はげっそりとやせ細って、やつれている。とてもゴドフスキーが弾きこなせるような人ではないような気がする、、、。

「チボーよ。私の幼馴染の。」

トラーが日本語でそう説明すると、チボーは、おいおい、あんまり容易く紹介はしないでくれよ、という顔をした。これを見て、日本人男性が、

「なるほど、彼も少し理解しているようですね。」

と細い声で発言したため、自分の考えていることも読み取られてしまったんだな、とわかってしまった。チボーが、彼の、着ていた着物と袴で、日本人であることがすぐにわかったと話すと、彼は、ずいぶん熱心に習ったんだねと褒めてくれた。まあ、褒められるべきではない。日本語は難しい言語であるので、忘れにくいだけのことである。そのまま互いの自己紹介をし、チボーは自分も東京で演奏活動をしたと説明した。そして、日本人は自分の民族衣装が好きではないのかとちょっと皮肉めいたことを言ってやった。この人物が間違いなく磯野水穂さんであった。でも、本当にゴドフスキーを弾きこなしてしまうのか、疑問に思うほど窶れていて、顔も雪みたいに真っ白で、ほとんど血の気がなく、綺麗な人というより、なんだか窶れた痛々しい人という表現がぴったりのような気がした。

そのうち、トラーが音楽の話を持ち出して、バイオリン弾きは、苦労するという話をチボーに話させた。すると、水穂も、自身はピアニストで、大して身のならないうちに引退してしまったと言った。日本でも人気者なれそうなはずなのに、なんでだろう?とチボーは疑問に思った。すると、トラーが、一曲聞いてもらったらどうだと言い出した。日本人は結構厳しく批評する人が多いから、ちょっとやってみようとチボーも思いつき、マックス・ブルッフのバイオリン協奏曲の独奏部分を弾き始めた。

水穂さんは、なかなか真剣な顔をしてそれを聞いてくれた。そうなると、やっぱり音楽家としての表情というものが読み取れた。それは、日本人であっても、そうでなくても共通するものであって、宇嘘偽りなくこの人は音楽家なのだということをちゃんと示していた。

しかし、曲の後半に差しかかったとき、水穂さんの表情が苦しそうになった。

「どうしたの?」

トラーが急いでそう聞くと、何か答えを言おうとしたようだが、その代わり、魚の骨でものどに刺さって、それを一生懸命吐き出すかのようにせき込み、口の中から朱肉のような色の液体が噴水のように吹き出して、水穂さんは雪の上にどさり、と倒れ込んだ。

「水穂、しっかりして!」

トラーが、そう話しかけてもせき込んだまま、立とうともしなかった。

「だ、大丈夫?」

チボーは、そう話しかけるが、やっぱりせき込んだままである。

「水、水。」

咳き込みながら水穂は言った

「あ、はい、ちょっと待って!」

チボーは、急いで楽器をケースにしまい込んで、トラーにもってもらい、自分は水穂をよいしょ、と抱きかかえた。そして、公園に連れて行き、公園のベンチに寝てもらって、トラーにコインを渡し、自動販売機で水を買わせて、それを水穂に飲ませたが、さらに咳き込み続ける。

「とにかくうちへ連れて帰ろうよ。」

チボーはもう一回、水穂を抱え起こした。

そのあまりの軽さに、さらに驚いてしまう。これでは、まさか碌なものを食べてないんじゃないか?

「たぶん、この人、肺結核だよ。それも、かなり重度の。このままだと凍え死んじゃうから、とにかく寝かせてやらないと。」

「そんなものはどうでもいいわ。とにかく水穂をなんとかしてあげないと。」

トラーに言われてチボーは、急いでトラーのうちへ向かって走っていく。とりあえず、トラーの案内で、客用寝室へ連れて行き、水穂を寝かせてやるが、とにかく一番気になるのは、その体重であった。

人間の男性としては、信じられないほど軽い重さだった。日本人はあまり肉を食べない菜食主義者が多いと聞くが、ここまで軽いというのはあり得ない話ではないだろうか?

トラーが、今はやっている健康食品である、やくという動物の乳を水穂に飲ませたが、ほとんど受け付けてくれなかった。そうじゃなくて、野菜スープとか、栄養価のあるものを出すんだよ!と、チボーは言うと、トラーはわかったと言って、部屋を飛び出してしまった。一人残ったチボーは、とりあえず、枕元にあった粉薬を彼に飲ませた。もう一枚毛布を水穂にかけてやろうとして、彼の首周りにたくさんの嚢胞ができているのをみて、さらにびっくりする。膿痂疹にそっくりだ。つまり、これはもしかしたら、栄養不良によるものだろうか。そうなると、単に重度の肺結核という事情ではなさそうである。たぶんきっと、相当なひどいこと、つまり虐待でもされていたのではないか。確か、日本で15歳の少年が何十日も食事を与えられずに餓死寸前まで放置され、やっと救助されたときは、脳が萎縮し知能にも、障害が残ったという事件があった。平和で、子どもを大事にするというイメージが強い日本で、なぜこのような事件が起きたか、余りにも衝撃的で、フランスでも詳しく報道されていたっけ。もしかしたら、其れと同じなのでは、、、?

こうなると、単なる恋敵とは思ってはいけない、とチボーは決断する。もう、こうなったら、水穂さんに協力しよう。と、決断した。

そのあとは、マークさんたちも帰ってきて、杉ちゃんという人に指導を受けながら何とか雑炊を作って食べさせ、水穂さんもやっと楽になってくれたようだ。もう、あとは僕たちでやるから、と、マークさんに言われて、チボーは自宅に帰った。

それにしても、今日あった人物の重さは衝撃的であった。人間ってあんなに軽いものだっただろうか?

多分きっと、彼には、なにか裏事情があるな、チボーはそう思った。

しかし、不思議なものである。日本は、あんな風にげっそりとやせ細ってしまうほど、ご飯に不自由する人はいるだろうか?日本もフランスも、飽食の国というか、ご飯がたべられないほどの貧困にあえぐ人は、もういなくなったととっくにおもっていた。また、日本の医療はあそこまで結核が進行するほど遅れているだろうか?そんなことはまずない。

さらにおかしなことはもう一つある。あの薬飲んで、まさしく電源を切ったように眠ってしまったので、一件落着かと胸をなでおろしたが、急に苦しそうに呻るのだ。これはお兄さんのマークも目撃していて、日本では、こんな危険な睡眠剤を平気で投与するのか!なんて話したりもした。そんな危険なことが平気で行われているのなら、日本は、平和どころか結構危ないところなんだなと改めて気が付いた。

チボーは、それを便せんに書いて、日本にはかわいそうな人もいるんだなと、いう言葉で締めくくった。できれば、何とかしてやりたいね、とトラーに同情するような表現を使ったことには使ったが、本当のところ、彼を、何とかしてやろうとは、思えなかった。なぜか思えなかった。

数日後に届いた返信によると、トラーは、あの杉ちゃんという人に一生懸命雑炊の作り方を習っていると書いてあった。なんだか日本のコメ料理は、非常に難しいものがあるらしく、煮て炊く火加減が難しくて、いつも失敗ばかりしているようだ。日本のコメ料理のときの合言葉、「はじめちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いても蓋とるな」という言葉を理解しないと、コメ料理はできやしないと杉ちゃんに言われたそうだ。

それはどういう意味なのか、よく分からないけど、あたしは頑張ってみる。だって、そうじゃないと水穂がかわいそうだもん。なんて、書かれていた。

そうなると、水穂さんという人はやはり不幸な境遇の人なんだろうが、チボーは、はじめちょろちょろなんて、訳のわからない言葉通りに作らなければならない料理を、強制させられているトラーのほうがかわいそうだと思ってしまった。とりあえず、次の返信として、そんなことを教わっていて、君のほうは大丈夫なのかと書いて、心配でしょうがないという言葉で結び、封筒に入れてポストに入れた。

また数日後に手紙が届いた。マークさんに叱られたというのだ。今日は、一生懸命おかゆの作り方を杉ちゃんに教えてもらったが、三回も失敗してしまった。お兄ちゃんが、時間がないじゃないかと私をしかった。杉ちゃんは、自分の教え方が悪いと言ったが、お兄ちゃんは、お前ができの悪いのが悪いという、あたしは、もう頭に来て、部屋を飛び出して行ってしまった。と、手紙には書かれていた。

だいじょうぶかなあ、あんなむずかしい料理の仕方を習わされてトラーも、精神状態が変になっていないか。その原因を作ったのは、水穂さんという、あの美形男子だ!チボーは、水穂のことが憎たらしくなった。トラーだって、悪いけど、健康ではない。それを知っているのなら、もうちょっと考慮してやってもいいじゃないか!杉ちゃんという中年おじさんも、あんな風に、マフィアのおじさんみたいなしゃべり方をして、彼女は、壊れやすいのに傷ついたりしていないだろうか?

チボーは、机に向かい、鉛筆を取って、返信を書き始める。この時、メールというモノに頼らなくてよかったと思う。チボーはトラーの気性の激しさをよく知っている。だから、噴火した時にメールを送って彼女を刺激したら、さらに悪い事例に発展してしまう可能性があった。

「僕は君が心配でしょうがないよ。あの綺麗な人の世話ばかりして、君が不安定になっていくのが心配です。無理して、あの人の世話をするよりも、もう限界だとはっきり認めたほうが、良いのではないでしょうか。」

そんな内容を手紙に記し、トラーに伝わってくれることを祈って、ポストに投函した。

その数日後。いつも通りチボーが郵便受けを覗くと、トラーからの手紙が入っていた。

へたくそな字だったが、文字というのは、書く人の心情まで出してしまうものだ。今回のトラーの字は、ひどく怒って書いたらしい。慌てて家の中へ入り、封を切って、急いで内容を読んでみる。

「こないだはよくもひどいことを言ってくれたわね。あたしは、可哀そうでも心配でも何も在りません。あたしは、水穂を看病してやることで、やっと彼の世話係という役目がもらえました。それが、どんなにうれしいことなのか、あなたにわかるかしら。あなたが、オーケストラで、ソロをもらうのと同じくらい、あたしは、大事な役目を得たんです。水穂は、あたしたちが看病しないと生きていかれないの。それをしているあたしは、やっとただの不用品から解放されて、今すごく喜んでいます。其れなのに、あなたときたら、それを心配だなんて、何てひどいことをいうのかしら。あたしから、役目を盗らないで!」

つまり、トラーの想い人は、僕ではないとチボーははっきりと、確信した。ああ、これだけ思っていたのは、無駄になってしまうのかと思った。同時に美人の女の子って、なんでこんなに気まぐれなのだろうと、大いにがっかりした。

翌日。

チボーは、母親に頼まれて、シャンゼリゼ通りにある、小売店に買い物に行った。いわゆる、商店街に近いもので、いろんな小さな店が、連なっているところだったが、そこで、マークさんと杉ちゃんを見かけた。ただ、声をかけるほどの距離ではなかった。二人は、でかい声で食べ物を吟味している。たぶん、水穂さんに食わしてやるものだろう。そうなるとちょっと、がっかりしてというか、自身の恋敵という事で、嫌な思いになってしまった。

でも、注意深く聞いていると、杉ちゃんは、かなり困っているようだ。なんでも、かっぱ巻きというものを作るのだと、マークさんは店のご主人に説明しているが、そのかっぱ巻きの説明に苦労している。チボーはどういうものはまるで知らないが、どうも杉ちゃんの話を聞くと、キュウリに酢を付けたご飯を海苔で巻き付けるというものらしいが、まず、季節が夏でないので、キュウリが手に入らない。それに、海苔も日本ではないために、手に入らなかった。

之じゃあだめだ、あきらめよう、とマークさんが言って、二人は、あきらめて帰っていくが、杉ちゃんの言葉である、水穂さんの大好物だというのが気になった。それほど、かっぱ巻きは、聖なる食品なのだろうか?

家に帰ると、また手紙が来ていた。差出人はもちろんトラーだ。こんな立て続けに手紙を出すなんて、

どういうことだと思いながら、チボーは封を切って、読んでみる。

「今日はとてもかわいそうなことがありました。水穂の唯一安全な食品と言えるかっぱ巻きが、こっちっでは作れないそうです。どうしても材料がここでは手に入りません。それはそうだよね。夏でないのに、キュウリ何てとても作れないよね。そろそろ雪の降る季節なのに、キュウリが手に入るわけがない!と、八百屋のおじいさんに、怒られて帰ってきたそうです。水穂は、肉も魚も何も食せないそうで、あたしたちがおいしいと言って食べていたものが何も食べれない。唯一かっぱ巻きが安全だったそうです。ほかに何があるというんだろう。ごめんね、ほかに相談できる人がいないので、手紙を送りました。」

そうか。

そうなると、僕の番は、まだ終わってないなとチボーはおもった。トラーは、もしかしたら、僕のことを空気と同じくらい大切な存在と思っているのだと考え直した。だったら、彼女の手紙は、もう少し続いていくだろう。非常にもどかしい気持ちもあったが、チボーは返事を書いた。

「たいへんだったね。確かに食べるものが見つからないのは困るだろう。ただ、今は医療だってすごくいいわけだし、きっと何とかできると思います。君も、自分を追い詰めてしまうことはせず、しっかり自分をいたわることも忘れずに、頑張って看病してやってください。もし可能であれば、これから、ますます寒くなると思うから、部屋を暖かくしてやってください。」

本当は、愛をこめて、と書きたかったが、また怒られる気がしてやめにした。

返事を封筒に入れて、郵便局へ出しに行こうと玄関に出ると、母が、庭に設置している物置の中から、白い箱を出していた。

「あれ、どうしたの?その箱。」

チボーが思わず言うと、

「いや、会社の上司にもらったんだけど、うちには使う人はいないし、どうしようか迷っているところよ。もう毛布はうちでは間に合ってるし。難民にでも、寄付しようかしら?」

と母が箱を開けると、いかにも暖かそうな灰色の毛布が出てきたので、チボーはあることを決断した。

「お母さん、それ、あげたい人がいるんだが、あげてもいいだろうか?」

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Note 増田朋美 @masubuchi4996

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