終章 ―― 天威〝霊山の狐〟


 それからのことは、陽雨は伝聞でしか知らない。

 石蕗家ゆかりの、集合場所となっていた旅籠屋。山へ帰る気力の残っていなかった陽雨と月緒は、その一室を借りて泥のように眠ったのだった。

 丸一日眠り、そして目を覚ましたころにはだいたいのことが終わっていた。

 

 桐悟が言うことには、拍子抜けするくらいあっさりとことが運んだようだ。

 彼は大楠たち今回の件に絡んでいない上役に城主の様子を語り、それを企てたと思しき苧環以下数人を捕らえたと伝える。彼らは驚愕に目を見開きながらもそれを聞き、急ぎ真相の追求を行った。そしてそれが真実と認めると、そのときをもって桐悟の冤罪は晴れたのだった。

 意外にも、それを証明したのは牢に囚われた苧環だった。苧環は立ち会った大楠たちに――冤罪の晴れ切っていない桐悟は、そこにはいなかった――弁明も虚構も交えることなく、淡々と、滔々と己が悪行を語った。

 そして、語り終えると同時。隠し持っていた刃物で自らの首を掻き切ったのだった。

「良くも悪くも、誇り高い人だったんだろうな」

 首魁であった苧環は死罪は免れなかっただろう。それを見越したのか、また、桐悟に敗北したことが許せなかったのか――それを知る術はもうどこにもない。

 旅籠屋の布団の上で桐悟の話を聞く陽雨は、そう呟いた彼を目を細めて見る。父親を死に追いやった男の死をどう受け取っているのかは知れないが、そこに悔いを覚えている様子は見受けられなかった。

 桐悟は続けて裏白玄也について語る。牢の中の彼は微動だにせず虚空をぼんやりと見続けるばかりで、食事にも手をつけていないらしいと告げた。しかしそのことに、陽雨は興味なさげに頷くことしかしなかった。

 城主は今は城の外のある屋敷で寝かされている。折を見て国外の静かなところへ移されるようだ。

 そして――

 暮日崎の城の面々は、『悪を討ち、城主と国を救った』という〝結果〟のみを享受し、それに至る〝過程〟については有耶無耶にすることとした。表向きには『〝霊山の狐〟が城を騒がせた際に、桐悟を含む石蕗菊路の死に奮起した兵たちが苧環を討った』と説明がなされるらしい。

「ま、当然だな」

「しかし、それでは……」

 陽雨はことも無げに頷き、桐悟は苦々しくも申し訳なさそうに俯いた。

 当然桐悟は義賊〝霊山の狐〟とともに事を為したと上役たちに話したが、先述の説明ではあくまで義賊を利用・・したという体で伝えられてしまう。

 それらの事情は当然理解できる。義賊とはいえ賊と結託したなどという事実は隠しておきたいことだった。それでも陽雨たちの尽力を知る彼としては納得し切れない。陽雨は、そんな彼を宥めるように言った。

「気にするな。この辺りのこと明らかにしても誰も得しないぞ。わたしたちは名誉がほしかったわけじゃないし、むしろ放っておいてくれた方がありがたい。天威が表舞台に立つ時代はとっくに終わったんだ」

 桐悟も天威が存在を知られるべきでないことは分かっていた。ゆえに上役には『天威〝霊山の狐〟』ではなく『義賊〝霊山の狐〟』と協力したと――彼女らの超常の〝力〟に一切触れることなく、いろいろ曖昧にして伝えたのだから。

 また、月緒の〝力〟を目の当たりにした――苧環の悪事に荷担しておらず、特に罰を与えられなかった――兵士から話が行くかもしれないが、そこはあまり警戒する必要はないと思えた。大半の兵士は、この一件について口を閉ざしている。口外する者がいても多少噂になったくらいではすぐに消え去るのが目に見えていた。

「あったことといえば、それくらいか」

 そう言って粗方のことを伝え終えた桐悟は、城へ戻らんと慌しく腰を浮かす。しかし何かを思い出した様子の陽雨がそれを留め、ひとつ、あることを願った。

「裏白玄也に言伝を頼む」

 先ほど様子を話したときには何もなかったのに、と、桐悟は首を傾げたが、

「『わたしたちは、化け物じゃない』……と、それだけ」

 放たれた言葉に、桐悟は笑みを湛えて頷いた。

 

 陽雨と月緒は、怪我と〝力〟が回復するまで数日を旅籠屋で過ごす。

 その間、彼女らは石蕗白樺や大楠高仁と話をする機会があった。

 白樺は表向きの発表ではない、〝霊山の狐〟の活躍を桐悟から聞いたようで、ふたりは深く丁寧な礼を感謝とともに送られた。

 彼女は良家の子女らしい淑やかな佇まいの少女で、歳も近いせいか、どことなく月緒とも似た雰囲気を持っていた。陽雨は月緒と握手を交わすふたりを見て微笑ましく目を細める。仲良くしてくれれば嬉しいと、姉心全開でそれを見ていた。

 そして白樺と入れ替わるようにしてやってきた大楠は、姉妹を認めるや否や拳を突いて頭を下げた。〝全身全霊〟という言葉がぴったり当てはまるような姿だった。

『礼がしたい、なんでも言ってくれ』と言う大楠に、『わたしにはわたしの理由があってやっただけだ』と陽雨はすげなく答える。しかし簡単には引かない大楠に、『だったら――』と彼女は先日の閃きを語った。

 ――石蕗桐悟を、将来の暮日崎の城主に。

 桐悟は慌てて陽雨を止めたが、大楠はそれを確かに聞いてしまう。一瞬呆けて、次いで呵々かか大笑たいしょう。大楠は陽雨の言葉に肯定も否定もせずに部屋を辞したが、去り際に彼の視線を受けた桐悟は溜め息をついて怨みがましく陽雨を見た。

 陽雨は心底楽しそうにしていた。

 

 そしてまた数日が経ち、天威の姉妹は山小屋へと帰っていった。

〝力〟の回復に銀麗山以上に適した場所はないというのが理由であった。引き留める桐悟を宥めて、ふたりは暮日崎を後にする。陽雨は危なげなく歩けるようになった足で山を登った。

 

 さらに数日が経つ。

 あの一件から半月ほどが過ぎたある日、陽雨は桐悟を訪ねた。数日前別れて以来の再会に、また、怪我も〝力〟もすっかり回復した様子に桐悟は喜んだが、陽雨の告げたことに衝撃を受けて顔色を失った。

 翻意を促すが、彼は彼女の意志の固さを知る。

 そして桐悟はどうにか〝ある約束〟だけ取り付けて、ふたりは別れた。

 

 その翌日。

〝霊山の狐〟は銀麗山を、暮日崎を発つ。

 

       ◇◆◇

 

 早朝の街道に人の気配はなく、石蕗桐悟はひとり佇んでいた。

 彼方から暮日崎へ、そして暮日崎から彼方へと延びる並木道。冬の朝の静謐な、しかし晩冬の僅かに緩んだ空気が混ざり合って漂う。

 霞がかった空は淡い青色を一面に広げていた。もの思いにしみじみと息をついたそのとき、彼は銀麗山へと延びる道の上にふたつの人影を見つけた。

「待たせたか?」

 少女は片手を上げて言い、一方の少女は会釈をする。

「俺が早く来たかったんだ。待たせるよりずっといい」

 青年は寂しげな笑みで答えた。

「……やはり、行ってしまうのか?」

「昨日言った通りだよ。もう決めたことだ」

 陽雨と月緒は、すっかりと旅装を整えた様子でそこに立っていた。

 ――昨日桐悟のもとを訪れた陽雨は、『旅に出る』と彼に告げた。

 なぜ、と訊ねた彼だったが、いくつかの心当たりがないわけではなかった。あの日――夜の温泉で木戸越しに交わした会話を思い出す。彼女が銀麗山に居続けた理由のひとつは、〝母の帰りを待っていた〟からだ。

 それゆえに、陽雨が語った『世の中を見て回ってみたい』という理由が腑に落ちた。一件の熱りが冷めるまで離れるべきとも彼女は語り、それでも桐悟はどうにか翻意を促したが、陽雨はついに頷くことはなかった。桐悟は見送りの約束だけを取りつけて事はここに至る。

「帰ってくるんだよな?」

「銀麗山は〝霊山の狐〟の縄張りだ。みすみす手放す気はないさ」

 胸を張って言う陽雨だったが、桐悟の胸には不安が蟠まる。ふらりと旅立ってそのまま帰ってこないことなどよくある話だ。帰ってくるとしてもいつのことになるのか見当がつかない。

 ――もっと剣を教えてほしかった。もっと一緒にいたかった。

 事故と事件によって出会えた少女たち。奇跡的な繋がりで今をこうしていることは理解していた。けれど、この縁をずっとずっと繋いでいきたいと本気で思っていた。

 対等に剣戟を交わせるようになり、ともに食事をし、笑いながら町を歩く。そんな夢想をしたこともある。現実になればいいと心の底から願っていた。

 ――こんなに早く終わってしまうのか。

 たくさんの助けをくれた彼女たちに、なにも報いていない自分が情けなくなる。桐悟はふい、と目を逸らし、青空を見上げて言った。

「晴れてよかったな。旅立ち日和だ」

 目を逸らした先の空は、今日の天気を保証してくれるように清々しく広がっていた。これが荒天だったら一日くらい出立を見送ってくれただろうか――と、思いを巡らせたそのとき。

 金の光が輝きを放ち、次いで、

 ――ぱぁん。

 と、もはや聞き慣れた衝撃と音が桐悟を襲った。

「桐悟。門出だ。笑ってくれ」

 そこにいたのは金の狐の少女。青色の張り扇を閃かせて言う。

「帰ってくるよ。わたしたちは、ここで生まれ育ったんだから」

 そして、妹とともに優しく笑ってみせた。

「そう、だな。……済まない、そうだった」

 失念していた。自分は見送りに来たのだった。張り扇の一撃にてなにかが吹っ切れたかのように、桐悟は気を取り直してふたりに向き直る。懐より拳大の包みを取り出した。

「餞別だ。受け取ってほしい」

「――――有り難く」

 桐悟の手に乗る金子は包みの外からも結構な金額だと分かった。陽雨は反射的に拒もうとするも、しかし大人しく受け取った。受け取らねば放さないと、桐悟の目は語っていたからだ。

「それから、もうひとつ」

「まだあるのか? さすがにこれ以上は――」

 今度は手に持った包みを解き出す桐悟に、陽雨はこれ以上なにが出てくるかと身構えた。

「心配するな。預かりものを返すだけだ」

 果たしてそこにあったのはふたつの短い棒状のものだった。それぞれ白地に赤で、黒地に青で流れるような文様が塗られており、美しくその身を彩っていた。

「それって……」

「ああ。〝八重霧〟を打ち直してもらったんだ。もとが小太刀だったから短刀にしかできなかったけど」

 ――裏白との戦いの最後に折れてしまった〝八重霧〟は、一件の後桐悟の手に渡っていた。陽雨はそのとき理由を問わなかったが、その理由が今、目の前に差し出されていた。

「昨日、いきなり発つと言うから焦ったぞ。刀匠には無理を言ってしまったが、間違いなく無上の出来映えだ。銘は――」

 そして、白地に赤の短刀を陽雨に渡し、

「〝朝霧あさぎり〟と」

 次いで、黒地に青の短刀を月緒に渡した。

「〝夜霧よぎり〟」

 手のひらからはみ出すほどの大きさ。美しい意匠のそれに姉妹は目を落とす。

 陽雨は半分ほどの重さになったそれをしばらく見つめて、鞘を払った。刀身は変わらぬ美しさでそこにあり、陽光に照らされ輝く姿に、陽雨と月緒は微笑みを交わした。

「桐悟。――ありがとう」

「喜んでもらえてなによりだ」

 刃を鞘に納め陽雨は言う。桐悟は、彼女たちの喜びを己のことと噛み締めて頷いた。そして旅立つ彼女らへ問いかける。

「これから、どこに行くんだ?」

「決めてない。……けど、海を見てみたいと思っていた」

「海か」

 山間の国である暮日崎から海は遠かった。銀麗山の頂上からでも望むことはできない。

「桐悟はあるか? 海、見たこと」

「ああ、昔一度だけな。家族みんなで、親父の遠征について行ったときに」

「大きいのか?」

「そりゃもう。目に映るすべてが水だ。きっと驚く」

〝湖よりも大きな水溜まり〟程度の理解しかしていない陽雨は、桐悟の言うことの規模も真偽も判然としない。これから向かう場所を漠然と想像しつつ、そして陽雨は――いや、桐悟や月緒もこのひとときが終わろうとしていることを察していた。

 それを示すように、陽雨の隣で銀の光が跳ねる。陽雨は一歩退がり、代わりに銀の狐の少女が進み出た。

「ありがとう、月緒。崖から落ちた俺を見つけてくれたこと、雪崩から守ってくれたこと、危険な役割を引き受けてくれたこと。――作ってくれた食事や淹れてくれたお茶も、本当に美味しかった」

 彼女に手を差し出しながら、桐悟は感謝をひとつひとつ言葉にする。

『嬉しいです。それと、とても楽しかった。兄ができたみたいで、賑やかで』

 その手を取って、月緒は〝力〟を流す。

「兄、か。身に余る光栄だ」

「ずいぶん頼りない兄だけどな」

「ほっといてくれ」

 兄は姉に頭が上がらず、姉は時折妹に諫められ、笑い合う――この短いながら大切な日々はそうやって過ぎていった。

 ――それももう、終わりを迎える。

 みんな大変な目に遭った。失ったものも大きい。なかったことにできるなら、もしかしたらそれを望んでしまうかもしれない。

 それでも、道は前にしかない。この道の先になにがあるのか陽雨は知らないが、なにかあることを願ってその先を見つめた。

 

「――それじゃ、な」

 彼方へ続く道に陽雨は足を踏み出す。桐悟に手を上げて踵を返し、一礼して月緒もそれに続く。金と銀の狐の少女たちは、豊かな尻尾を揺らしながら並木道を歩んでいった。

 それを見送る桐悟の胸に去来するのはなんであろうか。形容できないそれは、覚悟していたとはいえ彼の心臓を締めつける。

 ――これでいいのだろうか。諦めずに引き留めればよかったのだろうか。

 もう過ぎてしまったことに、できるはずのないことが頭を巡る。彼女たちが徐々に小さくなっていくことに焦燥が湧き立ち、

「陽雨!」

 口をついて彼女の名を呼んだ。

 立ち止まる陽雨と月緒。振り向いて言葉の続きを待つ。

 桐悟はその続きを用意していない。ゆえに胸の中の言葉を、脳を通さず投げ放った。

 

「城主になったら認めてくれるか? 天威おまえの神護として、俺を!」

 

 ――言ってしまった。

 言った後で生まれた考える余裕。桐悟は頭を抱えて転がりたくなるのを懸命に堪えた。

 正直なところ、城主になりたいとはあまり思っていない。そういう華やかな場所にはもっと相応しい人がいるはずだと思っている。

 けれどふたりが帰ってきてくれるなら、城主くらいになっていないと彼女たちとは釣り合わないとも思う。

 ならば、この言葉を現実のものとしよう。後づけの決意だったが、桐悟は腹を決めて陽雨の言葉を待った。

 

 ――なにを言った? あの馬鹿者は。

 天威に対し『神護と認めてくれ』などと、それは求婚の言葉に等しい。あーそう言えば前にもこんなことあったなぁ、と陽雨は微かに気が遠くなり、そしてつい返答が口をつく。

「――――」

 ――面倒なのは嫌いなんだよ。

 それは彼女の座右の銘みたいなものだ。桐悟も何度かそれを聞いている。

 しかし、そのいつもの言い訳・・・・・・・は、袖を引く月緒に押しとどめられた。

『姉さん』

 重ねて微笑みが向けられる。さすが以心伝心の天威の妹は、姉の返答を先回りしてそれをすんでで妨げた。彼女の言い分は訊かなくても分かる。『こんなときくらい素直になれ』とそういうことだ。

 陽雨は怯み、逡巡し、唸り、頬を引き攣らせ、溜め息をつき――

「…………気が向いたらな」

 それだけ残して、去っていった。

 

 そして桐悟も踵を返す。足取りに迷いはなく、己のやるべきことを為すために、己の国へと歩を進める。

 同じ道を別の方へゆくふたりとひとり。

 その道の上。並木の桜の枝の先。

 早咲きの桜がひとつ、蕾を綻ばせて三人を見送った。

 

 

『霊山の狐』 了 


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霊山の狐 平原海牛 @umiushi6666

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