第四章 ―― 暁に響く 其の六
◇◆◇
それから暫く経って、陽雨たち三人は暮日崎の城の階段を上っていた。
桐悟は簡単な手当を施した裏白を牢まで運び、その間に陽雨は月緒による治療を受けた。
しかし月緒の〝力〟も限界が近い。敵襲がないとも言えないこの状況では彼女の〝力〟を使い果たすわけにもいかず、陽雨の回復はなんとか動ける程度に止まった。
手足に包帯の巻かれた陽雨は、左右から桐悟と月緒の支えを受けて、一段一段ゆっくりとそれを上った。
「なあ」
静寂に包まれる城内。三人分の体重に木の軋む音のみが聞こえるなか、それを破って桐悟は訊ねた。
「……裏白玄也のこと、よかったのか?」
――陽雨は、桐悟が裏白を牢へと連れて行くときなにも言わなかった。
陽雨の視線が桐悟へ向く。その目は泣き腫れて赤みを帯びていたが、しかし相変わらずの鋭さを持って向けられた。
「止めたのはあんただろうに」
『訊くな、馬鹿』とその目は言っていた。それでも陽雨は細く息をつきながら、視線を階段の先へと遣って言葉を継ぐ。
「『よかったのか?』なんて訊かれれば勿論よくないんだろうけど、さ。…………泣いたら、少しすっきりした」
――どうでもよくなったわけでも、まして許したわけでもない。ただ、きっと腑に落ちたのだ。感情とかいろいろなものが、母の最後の微笑みで。
反対側の月緒も陽雨と同じというように、いつもの――しかし、やはり悲しみを帯びた――微笑みでもって頷いてみせた。
月緒に同じような問いを向けられたとき、『よく分からない』と桐悟は答えた。それは陽雨たちも同じなのだろう。泣いたくらいで吹っ切れる程度の悲しみではないのだから。
それでも彼女たちが過去にも憎しみにも囚われずここにいることに、彼はただ嬉しく思った。
そして大半の目的を果たした三人だったが、まだ一段落とはいかなかった。騒動の幕を引くためには、最後にやらねばならないことがある。
――三人は、暮日崎城主の私室へと向かっていた。
暮日崎の国の城主。国の最大権力者であり、総責任者。桐悟は父――石蕗菊路とともに何度か目通りをしたことがあり、言葉も交わしたことがある。彼の印象では大人物と言い表すに相応しい、立派な人だと思っていた。
それが数年前から、人が変わったように悪政を布きはじめた。その頃から桐悟は――彼の同僚たちも含め――城主の姿を見ていない。何かが、陽雨が言うことには碌でもないことが起こったとしか思えなかった。
「城主は、おられるかな?」
城内には人の気配が全くしない。みんな逃げたか、未だ庭でのびているかしているのだろう。
「逃げてたらそれはそれでいいさ。けど、いると思うぞ」
妙に説得力のあるその言葉を聞きながら、そしてやっと階段を上り終える。
城主の私室のみあるこの階は、限られた人間しか入ることを許されていない。ここ数年は特に厳しく立ち入りが制限されていて、当然桐悟も足を踏み入れたことはない。辺りを見回せば廊下といくつかの襖が見て取れた。聞いた話では一番奥が寝室のはずだ。
ふたりに回した手を解いて陽雨は歩みを進め、それに月緒が続く。ふたりを追った桐悟は、そのとき陽雨と月緒の顔色が変わるのを見た。
「! 敵か!?」
「いや、違う。違うが、これは……」
苛立たしげに舌を打って、陽雨は口もとを袖で覆う。月緒もそれに倣い同じ格好を取った。
「桐悟、口と鼻を押さえて、呼吸を控えろ」
「なに?」
火事か? と思うも火の手が上がった様子も、きな臭さも感じない。――いや、微かに何か甘いにおいが漂っている気がする。思いながら、陽雨の言う通り手拭いを口もとに当てた。
「予想通りと言えばそれまでだが、想定したなかでも最悪のやつだ」
「陽雨? 一体なにが――」
「そこ、開ければ分かる。行くぞ」
慎重に歩を進めながら陽雨は先をゆく。ほんの僅かな道のりをいやな緊迫感とともにゆく三人は、目的の襖の前で立ち止まった。
「開けるぞ」
陽雨は襖を開け放つ。
「――これは」
そして桐悟は言葉を失う。彼の目にはどんよりとした煙に満たされた暗い室内が映り、次いで手拭い越しにも分かるほどの――先ほど嗅いだ――甘いにおいが鼻をついた。
においの元は部屋の四方に置かれた香炉から立ち上る煙で間違いない。香が貴人の嗜みとはいえあまりにもやりすぎなそれに狼狽えつつ、部屋の中央に敷かれた布団に人が寝ているのを桐悟は認めた。
それは暮日崎城主、その人。陽雨の言う通り、だが明らかに異常な状態で彼はそこにいた。
「城主――」
それに近づこうとした桐悟は、しかし陽雨に行く手を阻まれる。彼女は忌々しげな表情で桐悟を見た。
「この香、脳を侵す類いのまずいやつだ」
「分かるのか?」
「〝妖狐〟の
部屋に満ちる煙は、城主が苧環らの蛮行を許した理由そのものだった。はじめは意識もあっただろうが、一年も経ったころからは完全に傀儡であったことだろう。
「やったのは苧環か、それに裏白玄也も噛んでそうだな。自分の主にここまでするとは」
言いながら、陽雨はすぐ傍の窓を開ける。早朝の清らかな風が澱んだ部屋へと吹き込んだ。
「まずは換気だ。月緒は窓を全部開けてくれ。桐悟は香炉をどうにかしろ」
「どうにかって、消せばいいのか?」
「や。窓から放り投げちまえ」
「えぇ……」
動き回ることのできない陽雨に代わり月緒は部屋のすべての窓を開け、桐悟はそこから四つの香炉を投げ捨てた。そして月緒の手に扇が躍り、風が一陣吹き抜けて部屋の澱みは払われる。
「城主!」
桐悟は寝ている城主を揺り動かす。息はあれど、しかし目を覚ます様子は見られなかった。
「陽雨。どう見る?」
「……やっぱり完全に侵されてるな。命に別状はないから静養すればいつかは目覚めるだろうが、城主として働くのは、もう――」
桐悟は怒りと悲しみの入り交じる表情で城主を見つめる。どうしてこんなことに、と思わざるを得ない。
「……とりあえず出るぞ。運び出すにしても人手が必要だ」
暫く見守っていた陽雨は立ち上がり、彼の背を叩く。桐悟は頷き、続いて立ち上がった。
「大楠隊長たちのところに行ってくる。まだ待ってくださっているはずだから、早いところ出向かないと」
「経緯を説明すれば冤罪も晴れるだろ。意見するやつらは大半潰したし、問答無用でとっ捕まることもないはずだ」
三人は部屋から退く。そして廊下の窓から朝日に照らされる町並みを眺めた桐悟は、どこか遠い目をして立ち止まった。
――妹を助け、苧環を討ち、城主を問い質し、冤罪を晴らす。それは彼にとっての勝利条件と言えるものだ。
そしてそれはどうにか成った。しかし彼が、彼女らが失ったものはとても大きい。
「未来を守ることは、できたのだろうか」
そう思わねばやっていられない。だが、振り返った陽雨は呆れたように眉を顰めていた。
「阿呆。未来を守るのはこれからだ。守るのも失うのも〝
「〝
その刹那的な言葉は、けれど陽雨らしさを感じた。その理屈で言うならば自分は〝
「ふたりのお陰だ。ありがとう」
「わたしは別に大したことはしてない。あの男に絡まれてからは完全に私事だったしな。大殊勲は月緒だろ」
『わ、わたしはただ無我夢中で。それに、桐悟さんが来てくれなければ今ごろ……』
「頼むから礼くらい素直に受け取ってくれ」
相変わらず、と言うべきか。素直じゃない姉と謙虚な妹に、桐悟は苦笑を浮かべる。そして陽光に照らされながら、三人は笑い合った。
「――なあ、桐悟。あんた城主になりなよ」
「は?」
ひと頻り笑い合って、その緩んだ空気に陽雨は突拍子もないことを言い放つ。
「『父の仇を討ち倒し、その悪行を白日の下に引きずり出した石蕗桐悟。その魔手から城主を解き放ち、病める城主に代わって国を率いるために立ち上がる』――とか、こんな感じでどうだ?」
「いや、ちょっといろいろと待ってくれ。急にそんなこと言われても……」
「勿論今すぐとか、ひとりでとか言うつもりはない。ただ、将来的にそうなってもいいんじゃないかと思ったんだよ」
――暮日崎の城主は主に世襲によって引き継がれるが、相応しい者がいない場合はその限りではない。城主であった者の血筋は、結構ころころ変わっている。
正妻が早世し、側室もいない――跡継ぎを作ることにあまり興味を示さなかった――現城主には嫡子がいない。ゆえに次の城主は誰かという憶測はいろんなところを飛び回っていた。
「だからって俺が城主とか現実味がなさすぎる。冗談だろ?」
「ま、決めるのは今じゃなくてもいいさ。時間はある。――多分」
「いや、多分て」
「なにが起きるかは分からないだろ?」
「これ以上一体なにが起きると言うんだ」
結局彼女は冗談とは言わなかった。冗談半分だったとしても、半分は本気だ。そんな陽雨の言うことは、妙な説得力を持つから心臓に悪い。
そして三人は再び笑い合い、長い一夜の一幕が、冬の半ばからはじまった義賊の物語が、そして五年前から続いた少女たちの悲劇が――閉じてゆくのを感じた。
◇◆◇
桐悟は馬を駆って城を出る。大楠たちが待機する銀麗山の麓に向かうために。彼はふたりを、妹を匿った旅籠屋へ先に送ろうとしたが、陽雨は『ゆっくり行くよ』と桐悟を促した。
そして未だ城に留まる陽雨は、月緒とふたりで銀麗山の上に広がる朝焼けを見ていた。
「終わった、かな」
『お疲れさまでした』
「月緒も、お疲れさま。よく頑張ったな」
溜め息とともに陽雨は呟き、月緒はそれを労った。
「誇りに思うよ。おまえの姉であることを」
月緒の頭を、陽雨は優しく撫でる。くすぐったそうにそれを受ける月緒は、幸せそうに微笑んだ。
「しかし無茶しすぎだ。それ、銃創だろ?」
『姉さんに言われたくないわ。心臓が止まるかと思ったんだから』
「あー、ごめん」
陽雨は月緒に無茶をしてほしくなかったが、月緒も同じ気持ちだったことだろう。陽雨は己を省みて戒めとする。
『姉さん』
頭を撫で終えた陽雨に、月緒は真っ直ぐな目を向けて言う。
『――お母さんの最後の言葉、聞こえた?』
「ああ、ちゃんと聞こえたよ。月緒は?」
『うん。わたしにも、聞こえた』
そしてどちらからともなく視線を空へと向けた。その空に広がるのは、母の纏う〝力〟と同じ色の朝焼けだ。
――大きく、なったね。
それは五年振りに会った、幼いころから離ればなれだった母からの、
成長を喜び、前途を祝福する言葉であった。
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