第四章 ―― 暁に響く 其の五


       ◇◆◇

 

 棚や机が乱暴に押し退けられ、散乱する地下室。

 澄んだ剣戟の音が絶え間なく響く。陽雨は裏白の刀を掻い潜り、白光を散らして刀が翻った。

 放たれた〝舞月〟の刃は風を切って裏白に迫る。しかしすんででそれは阻まれ、甲高い音とともに陽雨の剣が圧し折れた。

「――ちっ!」

 着地の隙を殺すべく、陽雨は即座に暗器の投剣を抜いて〝細雪〟と交ぜて放つ。裏白はそれを容易く躱し、けれどそれ以上追撃を仕掛けず余裕の笑みを浮かべていた。

「〝舞月〟まで遣えるとは。その若さでよくぞ、と言うべきでしょうか。榊さまもお喜びになるでしょうね」

「黙れっ!」

 陽雨は机を蹴りつけて空間を広げつつ、手に新たな〝綺羅星〟を創って裏白に斬りかかる。焦燥に苛立ちながらも、矢のように速く鋭い斬撃にて決着を急いだ。

 折られた〝綺羅星〟はこれで四本目。多大な〝力〟でもって創り出される〝綺羅星〟はそう何度も創れるものではない。現に陽雨を取り巻く輝きは一段くすんだものになっていた。

 長引けば不利。しかし〝舞月〟すら捌いてのける裏白に陽雨は攻めあぐねていた。

 ――眩耀流のなかには〝舞月〟に並ぶ技、または搦め手などはいくつかある。それでも陽雨はそれを選択できず、ごり押しの戦いを挑み続けた。

 理由は裏白の黒刀〝天威殺し〟の持つ〝感覚阻害〟の力。それによって陽雨には、間合いは半歩ほどずれて、石畳はぬかるみのように、空気は粘りけを帯びて感じられる。ひと言で言えばとてもやり辛かった・・・・・・・・・

 下手を打てばたちまち黒刀の餌食である。数え切れないほどの剣戟が交わされつつもお互い無傷のこの状況で、ひと度崩れてしまえば瞬く間に決着がつく。ゆえに陽雨は、〝ごり押し〟という今とれるいちばん堅実な方法を選び、全力、全速力の剣を振るい続けた。

 対する裏白は、余裕の面持ちで陽雨の剣を捌き続ける。自ら動くことはあまりせず、向かいくる斬撃を的確に受け、返す。眩耀流の片鱗が窺えるその剣技は、少しずつ陽雨を追いつめた。

 陽雨を捕らえることを目的とするがゆえの戦法として、彼の立ち回りは理想的と言えた。

 

 そして絡んだ刃が跳ね上がり、陽雨の手から光が散った。

 得物を失った陽雨に、今度は暗器を抜く暇はない。そこに振り下ろされる黒刀に、陽雨は逡巡を一瞬、一歩踏み出し両手を掲げた。

 ――榊眩耀流〝逆風さかかぜ〟。無刀取りの技だ。振り被られた相手の刀の柄を掴み、振り下ろされる力を巻き込んで、そのまま刃を相手の腹に向かわせる。しかし、

「無駄です」

 言葉がひとつ飛び、裏白は陽雨の右手を掴んで捻り上げた。

「くあっ――」

 陽雨は呻き、顔を顰めながらも空いた左手の拳を振るう。

 だが裏白はそれすらも受け止めてしまう。直後瞬時に陽雨の両手首を右手ひとつで束ね、強い力で振り回し、石壁に押しつけ拘束した。

「諦めてください。大人しくして下されるのでしたら悪いようには致しません」

「ふざけろ!」

 それで止まれる陽雨ではない。頭上で腕を固定されながらも、動く脚にて膝蹴りを繰り出す。しかし近すぎて勢いの乗らないそれに裏白はなんの痛痒もない様子で思案顔を浮かべた。

「困りましたね。……とりあえず、武装解除を願いましょうか」

「なっ――!?」

 言って、裏白は陽雨の帯に黒刀を差し入れ、ぶつりとそれを断ち切った。腰の〝八重霧〟ががらん、と音を立て、また、朱色の袴が帯とともに落ちた。

「くっ」

 腰紐ごと帯を切られ、端折り上げた着物も垂れ下がる。肩から垂れるだけとなった着物の隙間から胸に巻かれたさらしと下穿き、白い太腿が露わになった。

 陽雨は僅かに頬を赤らめる。忌々しげに裏白を睨み上げるも、裏白はそれに怯みはしない。

「あと、そこと……そこもですね」

 そして躊躇うことなく陽雨の胸のさらしに刃を走らせ――

「な――づぁあっ!?」

 次いで腿に巻かれた、暗器を納めた革製の帯に向かって、その脚もろとも刃で貫いた。

「――――――――!!?」

 裂かれたさらしより仕込んでいた暗器が零れ落ち、押さえられていた豊かな胸が揺れる。

 しかし陽雨はそれに意識を傾ける余裕はない。灼けた鉄を押しつけられたような痛みに、悲鳴を上げることしかできなかった。

 白い太腿を鮮血が彩る。けれど陽雨が感じるのは痛みだけではない。〝力〟がそこから吸い取られるように感じられ、事実、彼女の纏う〝力〟の輝きは見る間に消えていった。

「あ、――――ぐぅっ!?」

 そして刃が抜かれたとき、そこにいるのはただの、ひとりの少女であった。金の髪と瞳は漆黒に、獣の耳と尾は消え失せ、抵抗する術を持たずあられもない格好で壁に拘束されていた。

「ふむ、やりすぎましたかね。大人しくなってくれたようで幸いですが」

 ぐったりと項垂れる陽雨を睨め回し、裏白は事も無げに呟く。彼の目は、しかし好色なものではなかった。それは獲物を見る獣のようでもあり、また、隠し切れない歪んだ光を孕んでいた。

「あんた、……なんで――」

 消え入りそうな声だった。それでも陽雨はなんとかそう切り出し、しかし敵意に満ちた瞳で裏白を睨み上げて言う。

「天威の〝力〟が――超常の〝力〟がそんなに欲しいか?」

『人に天威の〝力〟を宿す』という目的に振り回され、母を奪われ妹を悲しませ、そして自分はこの有様で――

 陽雨の心中を知ってか知らずか、裏白は謳うように語り出した。

「〝力〟の恩恵を常にその身に受けるあなたには分かりますまい。我々が、どれほど超常を欲しているか。私は知ってしまいました。異常な回復力、無から有を生み出す力、天変地異すら操るそれを。――どうして、それを求めずにいられるでしょうか?」

 裏白はおいそれと人に話せない知識を抱えている。ゆえに、それを語る機会は今まで碌になかっただろう。裏白の言葉は徐々に熱を帯びて紡がれる。

「天威の〝力〟が血肉に宿ることは知っています。祖先の文献にも記述はありましたし、逸話とは言え血肉で超常の存在となった神護はいますからね。……しかし、単純に人の身体に血肉を入れればいいというわけではないことも改めて知りました」

「……人に、血肉を入れたのか?」

「ええ」

「その人は、どうなった?」

「狂って死にました」

 やはり、と陽雨は顔を悲痛に歪める。口振りからそれを実際にやったことを、そして使われたのは己の母の血肉だと陽雨は悟ってしまった。

 ――天威の〝力〟は血肉に宿る。それではまだ半分だ。正しくは血肉と意志に宿る・・・・・・・・

 ゆえに、それは信じる神護には加護をもたらし、仇なす敵には裁きを下す。敵国の天威を簒奪し、このことが原因で命を落とした者は少なくないことを、今知る者はいないだろう。

「超常を得るには、やはり並みの苦労では届かないようです。この刀とて偶然の産物に過ぎません。これを打った刀匠はもうひと振り同じように刀を打とうとして、しかしどうしても上手くいかず、終いには怪死したそうです。まあこの刀をはじめ、〝を物に移す・・・・・ことにいくつか成功を見出しはしましたが――」

 裏白はふと目を逸らす。そこにはぼろぼろになった照葉の姿があり、

「これからというところで照葉さまが限界にきてしまいました」

 至極残念といったふうに裏白は言った。

「…………」

 毛並みに艶を失い、痩せ細り、片脚の欠けた母を横目で見て、陽雨は再び項垂うなだれ押し黙る。そんな彼女に構う様子もなく、ますます大仰に裏白は続けた。

「あのときは悲嘆に暮れました。死なせてしまうのは余りに忍びない。しかし足踏みをしていたら結果を出せず、城での居場所を失ってしまう。どうすべきか、と頭を悩ませた――そのときのことです。〝霊山の狐〟なる義賊が町を騒がせたのは。遠目ながら一目見て分かりましたよ。あのときの幼子、榊さまと照葉さまのお子だと。これは是が非でもご挨拶をせねばと思いまして苧環さまに協力を申し出たのが先日のことです。銀麗山にてお会いできたときはそれはもう嬉しく思いました。――そしてこのたびは、ご足労を感謝いたします」

 楽しげながら拘束は緩む気配を見せない。そしてもはや、陽雨はそれに抗いはしなかった。陽雨の様子に、裏白は高揚を一度落ち着けて言う。

「さて。それでは私は、そろそろ月緒さまをお招きしようかと思いますが――」

 その名に陽雨はぴくりと反応する。そんな彼女に、そして裏白はひと言。

「陽雨さまからもお頼みいただけませんか? 月緒さまに、ご協力を」

 ――ぶつり。

「おや?」

 直後、裏白は陽雨の手を押さえつける己の手に、ぬるりとした感触を覚える。見ると、その手は血に塗れており――それは陽雨の握り込んだ拳から、爪が手のひらを破って流れ出したものだった。

「自傷とは感心しませんね。あなたにはこれから大事な役目があるのですから」

 陽雨の想いなど意に介さず、裏白は彼女に諭すように言う。――そのとき、

 ――どかん!

 と炸裂音が響き渡り、次いで階上の扉が音を立てて転がり落ちてきた。

「陽雨!」

『姉さん!』

 そして現れたのは桐悟と月緒だ。石段を駆け降りる桐悟は陽雨の惨状を――拘束され、手足から血を流す彼女を――見て、激昂して刀を手に飛び出し、

「動くな」

 しかし黒刀を陽雨の喉もとに突きつけた裏白に制された。

「陽雨を放せ!」

 言っても無駄だと知りながら、桐悟は言わずにはいられない。それに裏白は「ふむ」と声を漏らし、眉根を寄せて思案顔を作る。

「苧環さまは破れましたか。思ったよりも使えぬお人だ。まあ、それはそれとして――」

 そして目を細め、鋭い視線を桐悟に這わせた。

「石蕗桐悟さま。あなたは目的を果たされたのでしょう? ならばさっさと去るべきだ。――月緒さまをお連れ頂いたことには礼を述べますがね」

「ふたりを置いて立ち去れと? 馬鹿を言わないでもらおうか」

「やれ、あなたにできることなどなにもないというのに」

 裏白は細く息をつき、それでも陽雨に刃を突きつけたまま拘束を緩めない。

 ぎり、と歯を噛み鳴らして陽雨を見る桐悟だが、彼女は微動だにせず俯いたままだ。視線すら合わないことに焦燥と苛立ちが募る。

『お母、さん……?』

「月緒?」

 そのとき、背後からの声に桐悟は振り向いて月緒を見る。ここに来てはじめて目にした彼女は、目に見えて狼狽え蒼白になって佇んでいた。

「月緒、大丈夫か?」

 姉の惨状に衝撃を受けたのだと思ったが、それだけが原因ではないと知る。彼女は部屋の奥に座する水槽の中の狐を、母と呼んだのだ。

「……まさか」

 そこで桐悟はあらましを察する。

 ――隠し扉の奥の怪しげな研究室。陽雨と月緒への執着。そして囚われた異世の狐。

 当然全てを理解したわけではない。しかし裏白玄也という男が、彼女たちを苦しめる元凶であったことに疑う余地はなかった。桐悟は改めて怒りに燃える瞳を裏白に向けた。

 やるべきことはひとつである。月緒と協力して、どうにか陽雨を助け出す。

「月緒さま」

 しかし、それを試みる前に裏白の声が月緒を我に返した。

 びくり、と肩を震わせ、月緒は裏白に目を向ける。それに微笑んで、――その間に立つ桐悟を無視して――裏白は語りかけた。

「どうです? 陽雨さまを救いたいですか」

『――っ、なにを!?』

 当然の問いかけ。けれどその裏に潜む禍々しい気配に月緒は息を呑んで身構える。それに裏白はくつくつと笑いを漏らして言葉を継いだ。

「ならば陽雨さまの代わりに我が研究に協力を頂きたい。照葉さまに匹敵する〝力〟を持つあなたにお付き合い頂ければ、私に文句はありません」

 その視線に、月緒は嫌悪を露わに後ずさった。

 そのような取引に応じられるはずはない。しかし喉もとに刃を突きつけられた姉を救う術は、銀の狐の少女をもってしても持ち合わせていなかった。

 桐悟と月緒との間で無言のやりとりが交わされる。桐悟は小さく首を振り、それに月緒は厳しげに目を細めて押し黙る。

 ――そしてふたりの逡巡に沈黙が横たわり、

「月緒っ!?」

 月緒は桐悟の前へ歩み出て、裏白と対峙した。手の扇を手放し、また一歩裏白のもとへ歩を進める。

「ふふ、それでいいのです。ふたりとも、というのが好ましくはありますが、欲をかいても仕方がありませんからね」

 言った裏白は上機嫌だった。天威の姉妹――いや、その一家がここにひれ伏したという事実に、酔わない者がいるだろうか。

「では、陽雨さまを――」

 野心に、欲望に燃えて言葉を続ける裏白の耳に、そのとき声が届く。

「――しに……」

「うん?」

 掠れ、消えかけの声だった。裏白は首を傾げて声のもとを見た、瞬間。

「調子に、乗るなっ!」

 為す術なく俯いていた少女の顔が跳ね上がり、眼光を炯々とさせて叫びが飛び――

 ――血を流す右手が、それを束ねる手諸共爆ぜた。

「――――っ!?」

 裏白は堪らずに陽雨の腕を手放し、己の手に広がる火傷を見て唖然とする。

「これは……?」

 ――天威の血肉は〝力〟そのもの。

 数々の研究からも、祖先の残した文献からも理解はしていた。天威は血を媒介として傷を癒し、また、逆にそのものを毒にもできることを。そして〝毒〟と言っても少量触れたくらいでは用を成さないことを。

 思い至るはずもない。流した血に僅かに残る〝力〟を這わせ、それそのものを炸裂させたなどとは。自らの身を顧みないその行いは、もはや正気の沙汰ではなかった。

 

 僅かな間我を失っていた裏白の目を覚まさせたのは、腿を貫く鋭い痛み。見れば、そこには投剣が突き刺さっていた。

「なにっ!?」

 狼狽える暇なない。投剣は次々と飛来する。それを放つのは焼け爛れた右手が痛々しい、着衣の乱れた黒髪の少女だ。

「ちいっ!」

 脚の投剣を抜きながら裏白は大きく跳び退り、黒刀を振るって投剣を弾く。間合いが開けば対処は容易い。

「陽雨!」

 そして足もとに散らばる全ての投剣を投げ終えた陽雨に、桐悟が駆け寄り――

「来るな!!」

 絶叫にてそれを留めた陽雨は、切り裂かれた袴の紐にて手早く着物を纏め上げた。

「こいつは――」

 そして最後に〝八重霧〟を――皮膚が剥げ、凄惨な様相を呈した――右手で掴み取り、

「――わたしの獲物だ!」

 ぱぁん、と抜き放ち、鞘を放り捨てるとともに駆け出した。

 火傷に塗れた手に小太刀を握り、傷ついた足で転がるように走る。鬼気すら放ち決死の形相で迫る陽雨に、しかし裏白は口もとを歪めて笑みを浮かべた。

浅薄せんぱく!」

 爆発と投剣を受けて怯みはした。それでも裏白はそれくらいで崩れはしない。また、陽雨の突進を正面から受け止めるような真っ直ぐな男ではなかった。

 ゆえに狙うは陽雨の一刀を躱したのち、隙だらけの彼女の片足を断ち切ること。四肢がひとつ欠けてしまうのは好ましくなかったが、これから月緒を捕らえることを考えればそれほど痛くはない。

 そう思いながら口もとに笑みを、しかし眼光を鋭くして迫り来る陽雨を見定める。

「――ぁぁあああああああああ!!」

 そして裂帛の気合いとともに突き出される刃を、それでも先の閃光のような鋭さは見る影もなくしてしまったその一刀を難なく逸らした。

 ――しゃぉん。

 美しく響いた刃の交わる音。それとともに裏白は喜色を浮かべる。無防備な右足を刈るべく黒刀を閃かせて――

 そのとき、陽雨の足が光を放った。

「――――!?」

 次いで起こる爆発。放たれた黒刀は空を切り、宙を舞った陽雨の下を通り過ぎる。

 ――その光は、その爆発は先ほど拘束を振り払ったときと同じもの。右腿より流れた血を足裏で爆発させ、陽雨はその力を借りて高く高く跳び上がった。

 血飛沫と肉の焼けるにおいを散らしながら、黒刀を躱した陽雨は跳ねた際に半回転して天井に足を着く。見据えるのは眼下の裏白。驚愕に見開かれる目と視線が交わり――

 

 ――榊眩耀流、我流奥義。

「〝あめ墜月おちづき〟」

 

 呟いて、天井を蹴る。

 雄叫びとともに、裏白目がけて落ちかかった。

「お、のれぇっ――!!!」

 咆哮がふたつ重なり、〝八重霧〟と〝天威殺し〟が風を巻く。

 小太刀を逆手に陽雨が落ちかかり、裏白が黒刀を撥ね上げる。

 そして抱き合うような格好で、ふたりの動きは止まった。

 

「――かはっ」

 沈黙を破った苦悶の声は陽雨から発される。彼女の脇腹には黒刀が食い込んでいた。

 必中のはずの斬撃を躱され、逆に隙を晒した裏白だったが、どうにか刀を切り返して陽雨に傷を与えていた。黒刀は彼女の脇腹を抉り、肋をひとつ断っていた。

 ――決して浅くない傷だった。それでも、軍配は陽雨に上がる。

 落下の力を蓄えた〝八重霧〟は裏白の左肩に突き刺さり、鎖骨と肩胛骨をぶち割って背中からその鋒を覗かせていた。

 間違いなく重傷のそれは、もう左手を使うことはできないだろう。

「化け物……」

「――っ」

 裏白の呟きに、陽雨は言葉を紡ごうと睨み上げる。しかし彼女は振り絞られた力にて突き飛ばされ、〝八重霧〟を裏白の肩に残したまま、木の葉のように頼りなく吹っ飛んだ。

 桐悟は駆け込みざまにそれを抱き留めた。彼は腕の中の陽雨に息があることに安堵し、しかしその有様に顔を歪める。戦況をひっくり返したとはいえ、これでは喜べなどしなかった。

『姉さん!』

 月緒が駆け寄り、懐から匕首を抜いて己の手のひらに刃を引いた。そして流れる血を陽雨の脇腹の傷に当て、治癒の〝力〟を揮う。

 傷はすぐに塞がり、鎮痛が効いて陽雨の呼吸は幾分か落ち着いたものになる。次いで手足に広がる火傷に治療を施そうとしたところで、しかし、陽雨はその手を掴んで押し留めた。

「月緒、先に……母さんを。腹の黒いの、抜いて、治癒――」

 月緒ははっとして陽雨と照葉を交互に見る。

「おまえなら、きっと。……頼む」

 照葉を捕らえるのは複雑に過ぎる機構の装置。それでも月緒ならそれを破壊することなく御することができる。〝繋ぐ力〟は、知らないものを知る〝力〟とも言えた。

 月緒は泣きそうになりながらも陽雨の手を握り、こくりと頷いて母のもとへと走っていく。

 その背を見送って、そしてどうにか息を整えた陽雨は立ち上がるべく身体を起こした。

「陽雨、無理するな。今は休んで――」

「――桐悟。これ、貸してくれ」

 桐悟は彼女を気遣うが、その声を遮って陽雨は彼の腰へと手を滑らせる。

「待て!」

 桐悟は慌てて、己の腰の刀へと伸ばされた陽雨の手を掴んだ。

 それは痛々しく皮膚が剥がれ、焼け焦げた右腕。陽雨の顔が痛みに顰められた。それに桐悟は怯みかけるも、彼にその手を放すことはできなかった。

「止めるな、桐悟。放してくれ」

「……駄目だ」

 いかな陽雨の頼みといえど、それだけはできない。この手を放せば陽雨は裏白の息の根を止めに行ってしまう。

「駄目って。桐悟、なにを理由に? あいつは父さんを死なせ……母さんを、あんな目に――」

「それでも、駄目だ」

 切に訴える陽雨を遮って、それでも桐悟は否やを示した。陽雨は桐悟を振り払おうとし、桐悟は手にさらに力を込める。

 ――桐悟は正しく理解をしていた。捕らわれた大狐が陽雨の母なら、彼女たちが五年間ふたりきりで過ごしていた原因は裏白玄也で間違いない。その上父親の死に関与しているとなると、仇討ちの大義名分はこの上ないものである。

 それが分かっていてなお、桐悟は陽雨の手を放さずにいた。

「桐悟。――放せ」

 歯を剥き、睨み上げる。金の狐の姿ではなく〝力〟も尽き果てたはずの少女だったが、その迫力は健在だった。しかしながらその迫力に見合っただけの体力は彼女にはなく、黙って首を振る桐悟を振り払うことはできない。

「……桐悟」

「駄目だ」

「桐悟っ!!」

「駄目だっ!!」

 子供のように頭を振る彼女に――その必死さに、桐悟は心臓が握り潰される思いで否定を重ねた。

 ――敵を討って気が休まるなら、心が晴れるならそれでもいいと思う。目の前の少女が彼女と同じ境遇に置かれた赤の他人だったとしたら、桐悟は恐らくその手を放してしまっただろう。

 しかし桐悟は陽雨を知ってしまった。己の知る彼女は、たとえ仇討ちであろうと、それで得られるもの以上の深い傷を心に負ってしまうと。

 父親を手にかけた者たちを討って、すでに三人。彼女はその傷を一生引きずってゆくのだろう。それを自分の目の前で四人にすることなど看過できようはずもない。

 ――分かっている。これはただの我が儘だ。止める権利なんて本当はない。

 しかし、その手を放すことはできない。

 ――言葉にはならない。できやしない。なにをすべきなのかも分かりはしない。

「桐悟……」

 顔を俯かせ、暴れる気力すら尽きかけた陽雨が言い募ろうとしたとき、

 ――それでも。

 桐悟は、彼女を強く抱き締めた。

「――――!?」

 突然のことに、陽雨ははっとして桐悟を見上げた。

 そして上げたその頬に雫が落ちる。桐悟の、涙であった。

「済まない。でも、もう終わったんだ。おまえは全部やり遂げた」

 陽雨は身を硬くして、耳もとの囁きを呆然と聞く。

「あいつは、俺たちが必ず裁くから。正しく罰を与えるから――」

 そして桐悟は、一層の力を腕に込める。

「だから、これ以上傷つく必要はない。――お願いだ、傷つかないでくれ」

 陽雨の頬に、またひとつ雫が落ちた。

 ――桐悟がなぜ泣くのか、陽雨には分からない。

 しかし、彼は自分のために泣いてくれているのだと気づかないではいられなかった。

「――とう、ご」

 陽雨の顔は桐悟の胸もとに埋まり、もう彼女に為す術はなかった。凶器を求めた手は垂れ下がり、次いでそろりと持ち上がって桐悟の着物をきゅ、と掴んだ。

 ――ごごん。

 そのとき重い音が響き、水槽に変化が表れた。桐悟は視界の端で排水が行われる水槽を捉え、また、月緒が大きな狐を抱きかかえる姿を目にする。

 陽雨にもその音は聞こえたはずだったが、彼女は何かを堪えるように固まっていた。堪えていたのは憎しみか、涙か――それは桐悟に窺い知ることはできなかった。

 ――それを知る前に、桐悟は陽雨を突き飛ばした。

「!?」

 突然のことに加え、傷ついた足では体勢を整えられず、陽雨はそのまま石畳へと突っ伏した。

「とう――」

 振り仰いだ陽雨は言葉を失い、目の当たりにする。

 裏白玄也が〝八重霧〟を振り上げ、桐悟に――寸前、自分のいたところに襲いかかる光景を。

「死ぃ――」

 狂気に目を彩った裏白に対し、桐悟の手は腰の刀へ向かう。しかしすでに振り下ろすだけとなった凶刃にそれは間に合わない。

「やめろぉっ!」

 それでもそれを止めようと、陽雨は渾身の力で身を起こして手を伸ばす。

 伸ばしたところで、届くはずもない。

 陽雨の顔が絶望に染まった、そのとき――

「がっ――!?」

 裏白は飛来した衝撃に吹っ飛ばされた。そのまま派手に石壁にぶつかり、裏白は今度こそ昏倒する。

 ――ぱきぃん。

 次いで、金属音。それは彼の手を離れた〝八重霧〟が同様に石壁にぶつかり、真っ二つに折れた音だった。

 父が母に贈った、天威の守り刀。その最後はしかし陽雨の目に入らない。彼女の目は部屋の奥へ。月緒に支えられ、月緒の羽織っていた桐悟の羽織を肩に掛けた母に向けられていた。

 照葉の手はこちらに向けられ、指先から僅かに光が散っている。裏白を殴りつけた衝撃は照葉の放ったものであった。

「――あ、……」

 その姿に、この現実に――

 陽雨は一瞬我を失い、しかしすぐに手を突いて、

「――母さん!」

 母を呼び、爛れた足で駆け出した。

 何度も転びながら歩を進める。その距離は一歩ずつ縮まってゆく。

 ――そして母のもとに辿り着き、月緒とともに抱き締めた。

 痩せ細り、かつての紅い髪の煌めきは色褪せていたが間違いない。それは記憶の中の母のものだった。

 胸に顔を埋めた陽雨の頭に優しく温かな感触が訪れる。顔を上げれば慈愛に満ちた微笑みがあり、それは陽雨の胸を一杯にした。

「か、あ――」

 もはや声にならなかった。頭を撫でる手の、抱かれた胸の温もりに、いつまでもこうしていたいとさえ思う。

「――母さん」

 呟き、目に熱いものがこみ上げ――

 しかし唐突に終わりは訪れた。

「……月緒?」

 ふとした違和感に、陽雨は妹を呼ぶ。

 後ろから照葉を抱き締めるようにして支えていた月緒は泣いていた。感極まってというふうではない。悲愴に、涙を零していた。

『ねえ、さん……』

 照葉を抱き締める月緒の手は、照葉の腹に――黒刀の鋒が刺さっていたところに添えられている。その手は血に濡れていて、天威の〝力〟でもって照葉の治療を図っていた。しかし、

『〝力〟が、通らないの……』

 涙で顔を濡らしながら、なお治癒の〝力〟を注ぎ続けながら。蒼白となって月緒は言った。

「…………」

 絶句して、母を見上げる。そこには変わらぬ微笑みを浮かべる照葉がいるが、その存在が希薄になってゆくことに陽雨は気づいてしまう。

「母さん!?」

 ――裏白曰く限界・・の照葉は、もうどうしようもなく限界・・った。それは、〝陽雨と月緒が万全であったなら救えた〟という話ではなく。もはやなにもかもが手遅れで。先の桐悟を救った一矢が最後の〝力〟であった。

 己自身のことである。照葉は当然それを知っているのだろう。〝力〟を注ぎ続ける月緒の手を優しく押し退け、ふたりの娘を胸に抱き締めた。

 母の胸に身を委ねたふたりは、しかしその温もりが消えてゆくのを感じる。焦燥に駆られる陽雨と悲しみに染まる月緒は、照葉の身体が光を帯びるのを見た。

 ――天威に亡骸はない。超常より生まれて自然に還る。天威とはそういうものだった。

 光は見る間に全身を包み、娘たちは必死に母を呼ぶ。

 それでも照葉は微笑みを絶やさず、ふたりの頭を撫で、頬に口づけをして、口を開く。

「―――、――――」

 それは声にはならなかった。

 そして訊ね返すこともできなかった。

 照葉は、最後に笑みを残して――

 光となって、風に乗って消えた。

 

 風は石造りの地下室の、空気穴のような窓から窓へと駆け抜け、光は外へと飛び立った。

「母さんっ!」

 掛けていた羽織がぱさりと落ち、抱かれていた腕が、身体が唐突に消える。陽雨は光に手を伸ばすが、そのひとひらを握り込んだ手にはなにも残りはしなかった。

 そして光を見送る部屋の中の三人は、眩しげに目を細める。その先には、銀麗山よりその身を覗かせた朝日が夜の終わりを告げていた。

「…………」

 伸ばした手を徐に下ろし、陽雨は小さな窓から見えるその先を呆然と眺める。

 形容し難い喪失間。〝生きている〟と信じていた――信じようとしていた母が、本当に喪われてしまった事実が、容赦なく陽雨を襲った。

『…………』

 どれだけそうしていただろう。ふいに、着物の重みが増した。

「月緒……」

 見れば、袖を掴んだ月緒がこちらを見ていた。悲しみを堪えているのだろう。その顔は顰められ、歪んでいた。

「月緒、母さんが……」

 呟いた陽雨に、月緒はふるふる、と首を振る。そして堪えきれなくなった悲しみが涙となって溢れ出し、月緒は陽雨に抱きつき泣き崩れた。

「つき……。母さん、が……いなく、……消え――」

 月緒の涙が胸を濡らした。それに触れた陽雨は、声がうまく出せなくなって――

「かあさ……ぁ、ぁぁぁぁああああああああ――――」

 そして月緒を抱き締め、その身体に顔を埋めて陽雨は泣いた。

 憎しみに身を焦がしても泣くことはなかった強き天威は、ただ悲しみに咽び泣いた。

 それは朝日の差し込む石造りの部屋に響き、

 天威の娘でも、大国の剣士の技を継いだ義賊としてでもない、ただの少女の泣き声だった。

 

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