第四章 ―― 暁に響く 其の四
◇◆◇
城門の内側。広がる前庭にて、月緒と兵士たちの間には膠着が続いていた。
この距離での攻撃方法を持たない月緒に対し、優位に立つ兵士たちは迂闊に近寄るようなことはしなかった。月緒の隠れた木を火縄銃にて狙い定め、どのような動きにも即応できる態勢にて待ち構える。
彼らにとっては時間を稼ぐことも有利に繋がる。ゆえに、この膠着は長くは続かない。敵は必ず突撃か後退を選択すると理解していた。
「…………」
火縄銃を構えるある兵士は息を呑んだ。見かけ、ただの少女に己の仲間たちがなす術なくやられてしまっただけでも悪い夢のようなのに、その少女に――あまり訓練もしていない――筒先を向けているこの状況はいったいなんなのかと誰かに問いたい気分であった。
それでもやることは変わらない。木陰より僅かでも身を晒したところに鉛弾をぶち込む。その後どうするかとか、彼女が何者かとか、その目的とかは今は捨て置くべきことで――
そんな思考をぐるぐると回していた彼は、狙い定める木に――木の周辺になにか違和感を覚えてはっとした。
――あれ? 雪が。
気づけた兵士はどれだけいただろうか。その木の周辺に積もった雪がなくなって、地面はいつの間にか地肌を晒していた。
理由を考える暇はなかった。彼が我に返ったその瞬間、木陰より敵が動いたからだ。
「――撃てっ!」
「――っ!」
同時に轟く指揮官――苧環梟の声。兵士は一斉に引き金を絞った。
響き渡る発砲音。そしてすぐに装填がなされた銃を受け取る。この斉射で終わるとは誰も思っていない。逃がす前に、または近づく前に敵を行動不能にせねばならない。動かなくなるまで何度でも撃ち続ける必要があった。
が、しかし。銃を構える手が一瞬止まる。咄嗟に撃ったせいでよく確認はできなかったが、どうもなにか妙なものを視界に捉えたような気がしたのだ。
そしてはっきりとそれを視認して、一瞬だけ止まった手がさらに数瞬止まる。
――敵の銀の狐の少女は、透明な羽衣を盾に銃弾を防いでいたのだった。
木陰から飛び出すとともに鳴り響く銃声。僅かに身を強張らせながら、月緒はそれに対処すべく〝力〟を揮う。それは風の障壁だけではない。雪を溶かして得た水を羽衣のように纏い、それを盾として射線上に翳していた。
『――つっ!』
しかしながら水と風、ふたつの〝力〟を重ねても銃弾は受け止めきれず、月緒の身体に傷をつけていく。それでもそれは致命の一撃とはならず、足を止めさせるには及ばない。
――月緒は一心にある場所を目指していた。しかしそこは焼け落ちた城門でも、兵士たちのいる方へでもない。
「撃てっ!」
なぜそこへ向かうのか疑問に思う兵士もいるなか、重ねて銃撃が放たれる。怒号のような人と銃の声が響き、その銃弾のひとつがついに月緒の右腕を捉えた。
『きゃあっ!?』
衝撃に平衡を失い、銀の狐の少女は地へと転がった。
強かに身体を打ちつけるも、それでもすぐに手を突いて身を起こす。戦意を失わぬその瞳は、すぐそこに迫った目的の場所――
――水路が行き着く、大きな池を見定めていた。
彼女が身を起こし駆け出すのと、発砲音は同時だった。ぎりぎりのところで全弾を躱した月緒は躊躇わずに疾走を続ける。
そして、月緒はついに池の縁まで辿り着く。
月緒は大きく跳躍し、池を跳び越える。跳び越える最中、空中で一回転。その際に水の羽衣を池の中へ投げ入れた。
突然の奇行に兵士たちは困惑する。そして、池の向こう側に着地をした月緒がその動きを止めてしまったことにも兵士たちは困惑を隠せなかった。
月緒は兵士たちを背に膝を突き、肩を激しく上下させながらヘたり込んでいる。どのような表情をしているのかは、彼らから窺うことはできない。
それでも号令は容赦なく発せられた。彼女の行動の意味を考える時間もなく――考えたところで意味はないが――、兵士たちは人差し指に力を込める。
――これで仕舞いだ。
ある兵士はそう念を込めて銃弾を放つ。こんな訳の分からない状況からは早く抜け出したかった。
しかしながら、その願いは叶うことなく――
銃弾は、がばりと持ち上がった
『――ふー……』
月緒はひとつ大きく息をついて己の右腕の傷を見る。血が止めどなく溢れ出すそこに破いた袖を紐状にして、左手と口を使い巻きつけていった。〝力〟を使って治療したいところではあるが、大量の水を浮かせている今そんな余裕はない。
月緒の為した超常を目の当たりにして、兵士たちは呆然と目を見開く。月緒は巨大な水の盾を翳しながら池の縁を歩き、小さな橋を越えて彼らと相対した。
――もう、ちょっとだけ。
月緒は眩暈を覚えてふらりとよろける。右腕の痛みに加え、時折刺すような頭痛が彼女を襲った。彼女が今為している超常は、明らかにその手に負える範囲を逸していた。
世界が歪んで見え、膝から頽れそうになる。それでもその感覚をどうにか押し止め――
「っ
声と同時、月緒は兵士たちに向かって駆け出した。
――ぱぱぱぱぁん。
炸裂音と、次いで着水音。彼我の距離が短くなったとはいえ分厚い水の盾を貫くことは火縄銃とて叶わない。その間にも月緒はそれに〝力〟を注ぎ続け、ただでさえ多量な水をどんどんと増やしていった。
急速に〝力〟が失われる。輝ける銀髪と銀色の尻尾はみるみるくすんでいく。それに構わず、月緒は歪む視界で前へ前へと進み続けた。
――姉さんに、怒られるかな?
朦朧とする意識で、月緒はそんなことを思う。
姉は己が無茶をすることを嫌うのだ。『まずくなったらすぐに退け』と強く言い聞かされていた。それを破っているのだから、恐らくは怒られてしまうだろう。
――それでも。
お説教が終わったらきっと、『まぁ、お陰で助かった』なんて言いながら、頭を撫でてくれるに違いない。
『それは、わたしが命を懸けるのに充分なことだよ』
呟き、微笑む。そしてまた銃弾が撃ち込まれた。
だが、それで最後。次の一歩で月緒の射程だ。意識を強く取り戻し、顔を引き締め、その一歩を強く踏みしめて月緒は再び高く跳躍する。
そして眼下の、引き攣った表情の兵士たちに向けて――
『〝
浮かべた膨大な水の塊を投げ放った。
形を成していた水は途端に崩れ、水流となって兵士たちを襲う。水飛沫が咲き誇り、それに呑み込まれた彼らは城壁に身体を打ちつけて方々に流されていった。当たりが弱かった者もいるだろうが、これでもう火縄は使えない。
それは、月緒の勝利であった。
『はっ――、はっ――、はっ――』
着地の直後、月緒はぐらりと身体を傾がせるもなんとか踏みとどまって辺りを見る。未だ眩暈が止まないが、動く者は見受けられない。
そこには静寂が広がっていた。跳ねる心音と同じく、風が木々を揺らす音がやたらと大きく聞こえる。それに己のやるべきことの完遂を見て、月緒は安堵とともに両膝を突いた。
疲労とともに充足感を――半面虚無感を覚えながら、深く瞑目して右腕の傷に〝力〟での治療を行った。痛みは残るが特別問題も見受けられないそれに息をつく。
立ち上がる気力すら使い果たしてしまった月緒は、今すぐに姉が迎えにきてくれないものかと都合のいい妄想をした。しかしながらそんなことが起こるわけはない。現実に返り、そして姉の気配を探ろうとして再び〝力〟を顕そうとして――
――不意に、影が落ちた。
「やってくれたな、化け物」
『――っ!?』
はっとして顔を上げる。そこには件の男、苧環が苛立ちを露わに立っていた。
――いつの間に!?
気配は感じなかった。なぜ、と困惑に囚われるも、しかしながら月緒の行動は素早かった。懐に手を入れ、扇を抜き――
「ふん」
しかしそれは〝力〟を揮う前に、苧環の繰り出した蹴りにて阻まれてしまった。扇は宙を舞って積もった雪の上に落ちた。
『くっ――』
月緒は次いで懐から匕首を抜いて苧環を狙うも、手首を容易く取られてしまう。
『うぁっ!』
そして手首を強く捻られ、匕首は彼女の手から零れ落ちた。
「諦めろ。貴様ら化け物がどう足掻こうと無駄なことだ」
言って、苧環は空いた右手で懐よりなにかを取り出した。月緒にはそれが赤黒い紙の束のように見え、同時にぞくりとした感覚が背を伝った。
「貴様ら化け物の感覚を狂わせる〝お守り〟とのことだ。その様子だと効果はあったようだな」
それを渡したのは裏白である。このときの月緒は知る由もないことであるが――紙を染める赤黒いものの正体は、己の母の血であった。
「これを預かる代わりに貴様らを生け捕りにせよと頼まれたが、ここまで虚仮にされてはそれも呑めぬよな」
〝お守り〟を懐に戻し、そして苧環は刀を抜いた。
手首を掴まれた月緒に為す術はない。いやいやと首を振りながら、必死にそれを引き剥がそうともがいた。しかしそれはびくともせず、雪を掬って水を操る余裕も、他の〝力〟にて拘束を解く余裕も見当たらなかった。
恐怖が己を支配し、今度こそ頭が真っ白になる。最早、彼女にできることは強く目を瞑ることだけで――
「死ね」
「――待て!」
そして苧環が鋒を月緒に突きつけた瞬間、若い男の声が響いた。
『……桐悟、さん』
月緒は血の気の失せた顔をそれに向ける。
そこには肩を激しく上下させ息を弾ませる、石蕗桐悟が立っていた。
「誰かと思えば石蕗の息子か。なにしに来た? ――とは愚問か。儂を討ちにきたか」
「……その手を放せ」
桐悟はふたりのもとに慎重に歩み寄る。即座に飛びかかれるよう、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかない。月緒を害する前になんとしてでも止めねばならなかった。
「ふん」
しかし桐悟の思惑とは裏腹に、苧環は月緒を掴む手をこともなく放して数歩退く。桐悟に蔑むような視線を向けながら、離れた場所で泰然として立った。
桐悟は警戒心を抱きながら、未だ膝を突く月緒に寄り添い己の羽織をかけてやる。
『桐悟さん』
その言葉を発して、月緒は尻尾と耳を引っ込めた。緊張の糸が切れたのだろう。桐悟の着物の袖を掴むその手は震えていた。
「月緒、ありがとう。お陰で妹を救うことができた」
桐悟は月緒の手に己の手を重ね、優しく握る。
桐悟の言葉を聞いた月緒は、余裕のなかったその顔に僅かに笑みを灯らせた。それに桐悟も笑みで応える。
「あとは、任せて」
そして桐悟は重ねた手を、自分の袖からゆっくりと剥がしてゆく。
『――――』
黒髪の月緒は言葉を紡がない。それでも桐悟は彼女の意思を汲み取って、強く頷いてみせた。
「今生の別れは済んだか?」
刀をゆらりと持ち上げ、その鋒を桐悟に定める。
「あなたにも人並みの優しさがあったとは。意外でしたよ」
それに歩み寄りながら、桐悟はすらりと刀を抜いた。
「『人質を盾に取られたせいで殺された』などと冥土で吹聴されても気に食わんからな。言い訳の余地なく、父親と同じところへ送ってやる」
「お心遣い、痛み入ります」
桐悟は月緒から充分に距離をとって苧環と対峙した。そして重く細く息を吐き、腰を落として刀を構える。
「余裕だな? 石蕗の息子」
強く握られた刀の鍔が、ちき、と音を立てた。
「いい師に、ふたりも巡り会えましたがゆえ」
刀を右の腰に添わせて、さらに前傾を深めゆく。
じりじりと、緊張の糸が張りつめ、沈黙と同時、訪れる静寂。
「お覚悟を」
「ぬかせ、若造」
瞬間――桐悟の足もとの雪が跳ねた。
――来ると分かっているものを躱すのは容易いことである。
ゆえに、剣の試合――死合では安易に先手を取ることは死を意味していた。長い時間睨み合い、集中力の切れた方、また、痺れを切らせた方が敗北を喫する。
しかしながら桐悟は戦いを長引かせるわけにはいかない。月緒のときと置かれた状況に大差がない以上、多くの兵士が昏倒から醒める前に方をつけねばならなかった。
けれど先手を取って仕掛ける戦いは、彼にとってここ最近の馴染みである。
そしていつもの脇構えから放たれるのは、馴染み通り斬り上げから袈裟斬りに繋がる二連撃。相手の力量によっては虚を突けるそれは、しかし練達の士である苧環には通じない。連撃は綺麗に空を切って、すかさず苧環の剣撃が繰り出された。
「――ふっ!」
だが、それは桐悟にとって想定された一撃。振り切られた刀を瞬時に盾に、体捌きとともに受けて逸らす。
――流れを止めてはならない。
止まれば再び膠着する。己が先手を取らねばならない状況が数重なれば、命がいくつあっても足りはしない。そして新たに放った桐悟の斬撃も、苧環の刀に受け止められた。
――そのとき。
「〝
桐悟は噛み合った刃を絶妙に逸らし、己の刀の鍔を相手の刀の峰にひっかけ真下に落とす。そこから擦れ違うとともに撥ね上げた刀を、苧環の肩口に見舞った。
「――――!?」
苧環の表情が驚愕に染まる。しかし桐悟の斬撃は、着物の下の鎖帷子にて阻まれたようだ。
――浅いか。
「貴様っ!!」
それでも苧環の感情を逆撫ですることは叶ったようだ。彼は怒声とともに刀を振り下ろした。
それに桐悟は頭上で刃を合わせ、体捌きとともに刀を落とす。流れるように刃を翻し、弧を描いて足払いを仕掛けた。
「〝
「っ!?」
自ら身を投げ、それをどうにか躱した苧環はまたも驚愕の瞳で桐悟を見た。
その好機を逃すはずなく、桐悟は大きく振り被った刀を力強い踏み込みとともに放った。
――苧環が驚くのも無理はない。それは彼が見たことのない技――榊眩耀流〝結月〟と〝朧月〟であった。
ここ毎日、陽雨から技を受けていた桐悟である。昼間は立てなくなるまで実戦での稽古を。そして夜はそれを思い浮かべての個人訓練を積んでいた。
そして特筆すべきは、事が起こってからのこの二日間。〝霊山の狐〟陽雨は、桐悟が遣えるであろう眩耀流の技をいくつか叩き込んだのだった。
初めのうちは、陽雨は遊びと暇潰しで稽古につき合っていた。もちろん技を教える気などさらさらない。しかし事が切迫し、そして桐悟の個人訓練の様子を陰で見ていた彼女は、これならば実戦に堪えるだろうというものを伝授したのだった。
稽古は自然と苛烈なものになったが、桐悟は文句ひとつ、弱音ひとつ漏らさなかった。
――がきぃん。
鈍い金属音。振り下ろされた桐悟の刀に、苧環は体勢を崩しながらも応じてみせた。
――甘いか。
心が逸ったせいだと今さらながらに気づくが、それを後悔する暇はない。しかし次いで放った一閃も苧環に受け止められ、鍔迫り合いのかたちとなって膠着した。
「妙な技を使う」
ぎりぎりと刃が噛み合う。そんな切迫した状況にもかかわらず、苧環は軽口を叩いてみせた。
「……卑怯だ、などと思わないでくださいよ?」
桐悟はそれにあえて応じた。目の前の男は父の仇だ。この刀があと僅かでも進めばその命に届く。それが力を与えもするが、桐悟は宥めるようにそれに理性の爪を立てた。焦燥に駆られれば命を失うのは己である。彼は口もとを吊り上げて言った。
「私はかの義賊の剣を千本受けてここにいます。……努々、ご油断召されますな」
「小賢しいっ」
お互いがお互いの機先を読み、次いで弾かれるように距離を取る。
桐悟は即座に刀を振るった。流れを止めたくない彼は離れてしまわぬよう、食らいつくように攻めかかる。
刃が何度も重なった。外から見ている月緒の目には、流れは桐悟にあると感じられた。
陽雨が認めた目にて剣筋を正確に見極め、隙あらば眩耀流の技を打ち込む。なかなか一撃を入れさせてはもらえないものの、確実に日々の研鑽の成果は出ていた。
それでも相手も然る者。
「くっ――」
桐悟の心に焦りが募る。陽雨ほど――当然ながら――多様な技を持たない桐悟では、相手を翻弄して真価を発揮する眩耀流を使いこなせないでいた。彼自身付け焼き刃と理解はしていたが、それが届かないことに苛立ちながら戦いは進んでゆく。
そして剣戟が重なってゆくにつれて、月緒から見て桐悟にあった流れはだんだんと希薄になった。〝流れを得ていながら互角〟だったものからそれが失われれば、結果は推して知るべし。
それでも桐悟は果敢に攻め続ける。焦燥を理性にて押し留め、相手を見続けることをやめない。苧環の横薙ぎの一閃を後方に大きく跳んで躱し、反動を使って強く踏み込もうとして――と、そのとき。
ふい、と苧環は間合いを外し、
「――っ!?」
そして桐悟は踏み込んだ姿勢のままその動きを止めてしまった。
――しくじった!
桐悟が動きを止めたことはあながち間違った選択ではなかった。間合いを外されたところに無謀に切り込んでも返し技の餌食となる。特にこの苧環という男に限って言えば、相応の心構えと自信があってのことだ。しかしそれでも流れを止めたくなかった桐悟は、戦慄いた寸前の己を恨みがましく思う。
こうなってしまえば仕掛けるのはまた自分で、しかし先と同じ仕掛け方はできない。それでもまごまごしているわけにもいかない桐悟は、腹を決めてまた突っ込もうとして――
「――天晴れ」
不意に、苧環から声がかけられた。
「!? なに、を?」
気勢を削がれた桐悟は、一瞬何事かと面食らう。
「そんな顔をするものではない。儂は貴様を褒めたのだ。気に食わぬ男の倅――ただの羽虫に過ぎぬと思っていた貴様が、まさかここまでやってくれたのだからな」
苧環は間合いを外した半身の体勢で、隙なく刀を構えながら鷹揚に言う。
お互いの肩は大きく上下し、しかし息を荒らげ隙を晒す真似はしない。重々しい夜気を肺腑に満たし、細く吐いて自身を律する。
「この有様を見よ。事情を知らぬ者になんと言って聞かせればよいのか、今から頭が痛むわ。……石蕗桐悟――」
そして重く漂う空気に、烈しさが膨張し、
「父に
苧環の足もとの雪が跳ねた。
「――っ!?」
まさか仕掛けられるとは思っていなかった。
どうやって攻め込もうかと窺っていた桐悟は、結果として
――政に関わるようになって、苧環が人前で刀を振るう機会は少なくなった。
ゆえに桐悟は苧環の戦う姿を知らない。しかし噂にだけは聞いていた。その名の通り、猛禽が如き烈しさと鋭さを持つのだと。
その因るところを桐悟は今まさに知る。そして遂に桐悟にあった流れは完全に失われた。
防戦に回ってなんとか凌ぐが、剣筋を見誤った瞬間ごとに裂傷は増えていった。桐悟はそれらを何とか致命傷にせずに堪えるも、次いで、さらに悪いことに桐悟の背に血が滲み出した。陽雨を庇って受けた矢の傷が開いたのだった。
――ずきん。
「つっ――!?」
受けたときと同じ、灼けるような痛み。苧環の大振りを躱した瞬間、それが再来し、
「ふっ!!」
一瞬動きを止めた桐悟に向かって、苧環は槍のように鋭い蹴りを放った。まともに受けていたら骨か内蔵に痛手を受けただろう重い蹴りを、桐悟は寸前に後ろに跳んで威力を殺す。
しかしそれは、桐悟の体勢をどうしようもなく崩してしまった。雪の上を転がりながら、手を突いて即座に膝立ちで起き上がる。これ以上は望めない立て直しであったが――
「
すでに刀を振り下ろすだけとなった苧環が、そこにいた。
――それはまさしく死神の鎌。
命を奪う凶器が迫り来る。走馬燈と呼べばいいのだろうか。桐悟にはその瞬間が引き延ばされたように感じられ、それが死を直感させた。
眩むように見えたのは過去の自分。しかしそれはここ最近の記憶で、金と銀の狐の少女たちと関わり合った日々のこと。
助けられ、脅され、食事をともにし、狩りを手伝い、怒らせてしまって、刃を交え――
そのとき、桐悟はふわりと刀を頭上に掲げた。
苧環は構わずに刃を放つ。その表情は揺るぎなく勝利を確信していた。その程度の防御でどうなるものでもないと分かっているからだ。
それは、桐悟もそう思う。
――あの、金の狐の少女に出会わなかったならば。
刃が重なり、反りに沿って滑る。
寸前、脚に力を込め、前に跳ぶ。
そして、死神の鎌を紙一重で掻い潜って――
「〝
放たれる、榊眩耀流〝舞月〟。
〝合わせ〟〝逸らし〟〝躱し〟〝斬る〟一連を一息に行う、文字通りの必殺技だ。
「がっ!?」
桐悟の刀が弧を描いて、次いで短い苦鳴。
彼の〝舞月〟は苧環の側頭部を確かに捉え、桐悟はべしゃり、と顔から着地した。陽雨は綺麗に着地してみせたが、彼にそれを望むべくもない。
ゆえにこの技は外したら終わりのひと太刀で、桐悟はその賭けに見事勝利した。
地に手を突く桐悟のもとへ、月緒が駆けてゆく。
無様に転がったまま荒い呼吸を繰り返していた桐悟は、顔を上げて彼女を見た。しかしそれは一瞥のみ。桐悟は険しい顔を彼女の向こうへと向け、月緒もそれに倣って視線を向ける。
そこには、未だ苧環が立っていた。
本来であれば頭を失い、血を噴き上げるはずの彼は、膝をがくがくとさせながら刀を杖にして立っている。当然頭はついたままだ。その理由を月緒は桐悟の握る刀に見て取った。
――峰打ち。
握られた刀は峰を向けており、〝舞月〟はただの金属の棒にて放たれたのだった。
「……お、のれ……石蕗、桐悟……。舐めた、真似を……」
脳震盪を起こし、焦点の定まらぬ目を向けて苧環が言う。呂律の回らないまま言葉を継いだ。
「きさ、まは……儂を討つ、ために、ここまで――」
「俺は、俺のために尽力してくれた彼女を助けるために来ました」
立ち上がった桐悟は苧環の言葉を遮って言う。苧環はふらふらとしながらも目を丸くした。
「彼女たちは俺の仇討ちにつき合ってくれたわけじゃありません。俺の妹を助けるため、国のために戦ってくれました」
それは堂々と、威風さえ薫るが如き様であり――
「ゆえにあなたには国家擾乱の罪に対する罰を、然るべき場所にて受けていただきます。俺の私怨は、
桐悟は右手の刀を手放し、苧環に向かって大股で歩き始めた。
「儂は……貴様の、父親を……」
「うるさい!」
一喝とともに大きく右腕が引かれ、そして放たれる全力の拳。
「地獄に、落ちろっ!!」
苧環は顔を歪ませて吹っ飛び、意識を手放して動かなくなった。
――親父。
空足を踏んで尻餅をついた桐悟は大きく息をついた。僅かに白み始めた空、瞬く星を見上げ桐悟は父を思う。『ごめん』と言いかけて、それを取り消す。代わりに、
――『やるべきこと』、やれたかな。
心が緩み、涙がはらりと頬を伝った。
月緒が傍に来て、桐悟は目元を拭った。疲れた顔で笑ってみせる。
別に、ふたりからは『苧環を殺すな』とは――仇討ちなんてやめろなんてことは言われていない。苧環を生かしたことは、間違いなく桐悟の意思であった。
しかしそう決めたのは〝舞月〟を放つ、まさに直前のこと。陽雨と月緒が脳裏を過ぎった際に、桐悟ははっとして峰を返したのだった。
『……なぜ、峰を?』
それに気づくはずもなく、銀の狐の少女は問いかける。
「よく、分からない。……けどさ、死んじゃったらおしまいだよな」
そんな当たり前のことをしみじみと呟いて、桐悟は立ち上がった。
月緒も笑顔を見せる。ふたりの顔には――さまざまな感情が見て取れたが――確かに安堵が宿っていた。
『桐悟さん。姉さん、まだ城内にいるみたいなんですけど……』
「まだ城内なのか。早く行かないと――の前に」
一段落を見ての月緒の言葉に、桐悟は跳ねるように城を見て、次いで地に伏せる苧環たちを見る。
「済まない。先に牢だ」
彼だけは逃がすわけにはいかない。言って、桐悟は苧環を担ぎ上げる。
牢を何度も往復する暇はないだろう。月緒が縛り上げた幾人かは放置するしかないか、と思った桐悟だったが、そこにいた月緒を見て苦笑いを浮かべる。彼女の肩にはその幾人かが纏めて抱えられていた。
「行こう」
陽雨のもとへ。
嫌な予感を抱えながらも、桐悟は城内へと踏み込んだ。
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