明晰夢中で無我夢中

沢田和早

明晰夢中で無我夢中

 俺は目を開けた。

 平日昼間の公園。腰掛けているベンチ。無造作に置かれたコンビニの袋。何もかも見慣れた光景だ。


「ふあ~、よく寝た」


 欠伸をしながら頬をつねる。痛みを感じない。公園を見回す。人影は全くない。雑踏のざわめきも車の騒音も聞こえない。あり得ない光景だ。


「やれやれ、まだ夢の中にいるようだな」


 最近頻繁に見るんだ。自分が夢の中にいることを自覚している夢、明晰夢。夢の中の俺は目を覚ましたが現実の俺はまだ眠っているのだ。

 きっと疲れているんだろうな。この一カ月は毎日残業と休日出勤の連続。息抜きと言えば、こうして昼休みに公園でコンビニのおにぎりを食べるくらいだ。


「どうせ飯を食った後、ベンチで居眠りを始めたんだろう。今日は天気がいいからな」

「にゃー」


 猫だ。夢の中なのに姿を現わしたか。俺はポケットからチューブ入りの餌を取り出し、茂みの陰にいる猫に近付く。


「ほらほら、おいでおいで」


 猫の名はミケ。俺が名付けた。一年ほど前から姿を見掛けるようになった。

 猫好きの俺としては放っておけない。毎日餌を持参して仲良くなろうとしているのだが、ミケの奴、一向に懐いてくれない。


「にゃっ!」


 ミケは一鳴きすると茂みの中に消えてしまった。くそっ、夢の中でくらい俺の願いを叶えてくれてもいいだろうに。


「気が利かない夢だな、まったく」


 餌をポケットに入れた俺は何の気なしに腕時計を見た。ぎょっとした。すでに午後の始業時刻を過ぎている。


「まずいぞ。早く起きて会社に戻らないと」


 と叫んだ途端に気が付いた。これは夢の中の時計だ。表示されている時刻に信憑性はない。信じるほうがどうかしている。


「いやいや、だとしてもそろそろ起きないとマズイだろう。体感的に数十分は眠り続けていたような気がするんだからな」


 俺は自分で自分の頬を叩いた。衝撃を与えれば目が覚めるような気がしたのだ。だが、夢の中では痛みを感じない。頬を叩くだけでは何の衝撃も与えられない。


「おーい、現実の俺、早く目を覚ましてくれー!」


 大声で叫ぶ。夢の中の俺の声が現実の俺の耳に届くはずがないとわかっていても叫ばずにはいられない。そしてもちろん目は覚めない。公園のベンチで満腹になった現実の俺は、昼下がりの陽光の中で惰眠をむさぼり続けているようだ。


「仕方ないな。自然に目が覚めるのを待つか」


 夢の中で足掻いてみても無駄、それはこれまでの経験でわかっている。

 俺は腕組みをして目を閉じた。せっかく現実の俺が貴重な睡眠を取っているのだ。夢の中の俺が起きていては現実の俺に申し訳ない。現実の俺が目を覚ますまで夢の中の俺も眠っておこう、そう思った時、


 ――おい、起きろ、起きろ!


 声がした。一気に血の気が引いた。課長の声だった。


「か、課長!」


 立ち上がって周囲を見回す。課長の姿はない。しかし声は間違いなく聞こえた。まるで天から響いてきたかのような課長の声が。


「もしや、今のは現実の声なのか」


 現実の俺の耳に入った声が夢の中の俺に反映された、そうとしか考えられない。


「マズイぞ。やはり俺は寝過ごしたんだ。いつまで経っても会社に戻ってこない俺に腹を立てて、課長が探しに来たんだ。昼は公園にいることを知っているからな。そしてベンチで居眠りしている俺を発見して声をかけたんだ。それが今聞こえてきた声だとしたら……おいおい現実の俺、呑気に眠っている場合じゃないぞ。こうなったらどんな手を使ってでもいいから一刻も早く起きないと」


 肉体的ショックでは駄目だ。夢の中の俺の体と現実の俺の体は別物だからな。しかし精神的ショックなら何とかなるのではないか。どちらの俺も精神は共通しているはず。


「精神的ショックか。あれで試してみるのはどうだろう」


 俺が目を付けたのはジャングルジムだ。登ってみる。てっぺんは結構な高さだ。ちょっと怖い。飛び降りれば捻挫くらいするかもしれない。だがその時に感じる精神的ショックで目を覚ましてくれるかもしれない。


「えーい!」


 飛び降りる。ぐにゃりと足首が曲がる。夢の中なので痛くはない。そして残念ながら目は覚めない。


「駄目か。この程度のショックでは全然効き目がないようだ」


 ――しっかりしろ。大丈夫か。


 また課長の声だ。一向に目を覚ます気配がないので心配しているのだろう。こうなれば更に強硬な手段に訴えるしかあるまい。


「よし、次はあれを試そう」


 俺は公園の中央にある展望タワーに向かった。都心の公園には珍しく、高さ十メートルほどの展望台があるのだ。

 先ほど痛めた右足をひきずりながら階段を登り最上階のデッキに立つ。公園を見下ろす。絶景だ。ここから飛び降りれば大怪我は免れまい。下手をすれば命を落とすだろう。


「しかしそれは現実の世界の話。ここは夢の中なんだから怪我はしても死ぬことはないはず」


 とつぶやいてもさすがに怖い。しかし課長の叱責はもっと恐い。ええい、覚悟を決めろ。そして爆睡中の俺よ、いい加減に目を覚ませ。


「えいやあー!」


 雄叫びを上げて俺は飛び降りる。心地良い飛翔感を数秒間味わった後、ぐしゃりという不気味な音が耳に入った。どうやら肋骨が何本かやられたようだ。


「うぐっ、やはり駄目か」


 この夢から抜け出る気配は微塵もない。俺は立ち上がって胸を押さえた。夢の中なので痛みはない、はずなのだが、微妙な鈍痛を感じる。さきほどの右足も僅かに痛み始めている。


「妙だな。夢の中で痛みを感じるなんて初めてだぞ」


 本当の捻挫や骨折に比べればカワイイ痛みに過ぎないのだろうが、未経験の事態に遭遇したのだ。気になってしまうのも無理はないだろう。


「そうか、きっと全然目を覚まさない俺に業を煮やした課長が、右足を蹴ったり胸を小突いたりしているんだな。その現実の痛みが夢の中に反映されているのだろう。これはますますマズイぞ。あの課長のことだ。このまま居眠りを続けていたら、公衆トイレのバケツに水を汲んできて、俺の頭にぶっかけるくらいのことを仕出かさないとも限らない。冗談じゃないぞ。早く目を覚まさないと」


 俺は公園を出た。こうなったら課長の力を借りるしかない。夢の中の会社に戻り、夢の中の課長に会って、思いっ切り叱ってもらうのだ。


「本気で怒った課長は死にたくなるくらい恐いからな」


 あの叱責をまともに食らえば、死を凌駕するほどの精神的ショックが俺を襲うだろう。そしてその衝撃で俺は目を覚ますに違いない。実に馬鹿げた考えだが、もはや俺一人の力ではどうしようもないのだ。藁にもすがるつもりで夢の中の課長に頼んでみよう。


「ほう、夢の中でも車は多いな」


 車の交通量は現実世界とほとんど変わらない。しかし通行人は一人もいない。車のドライバーもいない。無人の車が無音で走っている。奇妙な光景の大通りの歩道を、右足を引きずり胸を押さえながら会社に向かって歩く。


 ――離れてください。応急処置をします。


「今のは……」


 聞こえてきたのは課長の声ではなかった。初めて聞く声、誰の声だ。いや、それ以上に気になるのは聞こえてきた言葉だ。応急処置、どういう意味だ。


「はっ!」


 先を急ぐ俺の前に猫がいた。ミケだ。珍しいな。これまで公園の外で会ったことは一度もない。何かあったのだろうか。ミケは何か言いたげにこちらをじっと見詰めている。


「危ないっ!」


 俺は叫んだ。ミケの奴、血迷ったのか。こんなに車の多い通りを横切り始めやがった。


「馬鹿野郎め」


 ほとんど無意識のうちに俺も車道に飛び出た。どうせ夢の中なんだ。車にひかれたところで痛くも痒くもない。いや、ちょっと待てよ。この光景、前にもどこかで見なかったか。


「ぐはっ!」


 口から声が漏れた。体に感じる衝撃。車のブレーキ音。飛ばされる俺とミケ。道路に横たわった俺の頬を、もふもふとした毛並みが撫でる。

 ああ、そうだ。この感触も味わったことがある。これは夢の中の感触なのか。それとも現実の感触なのか……頬にもふもふを感じながら俺は目を開けた。


「気が付いたか、よかった」


 最初に聞こえたのは課長の声。最初に見えたのは青空。そして頬を撫でるもふもふな感触。鼓膜を震わす音、網膜に映る景色。紛れもなくここは現実の世界。ようやく戻ってこられたのだ。


「頭は打っていないようですね。失礼、右足と胸以外に痛む所はありませんか」


 救急隊員らしき男が俺に尋ねる。ああ、赤い点滅灯も見える。俺は治療を受けているのか……


 そうだ、やっと思い出した。昼飯を食い終わった俺は、姿を現わしたミケに餌をやろうとしていたんだ。その時、暴走した車が公園の中に突っ込んできた。怯えてしまって逃げることを忘れたミケを救おうと俺は身を投げ出した。覚えているのはそこまでだ。夢の中ではすっかり忘れていた。事故のショックで記憶が飛んでしまったようだな。


「あ、いえ、今のところ痛むのは足と胸だけのようです」


 そう答えると足と胸の痛みがひどくなってきた。人間の体とは不思議なものだ。夢の中で足と胸を怪我したのは、現実の俺の怪我が夢の中に反映されたのだろう。


「まったく猫と仕事とどっちが大事なんだ」


 呆れたように課長が言う。しかしその目は笑っている。俺が目を覚ましてほっとしているのだろう。


「そう言う課長こそ、部下と仕事とどっちが大事なんですか。業務を放り出してこんな所へ来たりして」

「こいつ」


 課長の鉄拳が頭を小突く。ミケは俺をじっと見ている。夢から抜け出せたのはこいつのおかげだな。礼を言うよ、ありがとう。


「にゃー」


 返事をするようにミケが鳴いた。もしや、おまえ、わざわざ夢の中へ来てくれたのか。俺に助けてもらった恩を返すために。


「しかし一時はどうなることかと思ったぞ。全然目を覚まさないんだからな。どうだ、今の気分は」

「最高の目覚めですよ。一年かけても撫でさせてさえくれなかったミケと、こうして仲良しになれたんですからね」

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