眠り姫

石上あさ

第1話

「こんばんは」

 廃ビルの最上階から満月を見上げていると、後ろから優しそうな声が聞こえた。

「こんばんは。来てくれてありがとうございます」

 振り返り、私も同じように挨拶を返す。

 そして早速本題を切り出す。

「今日お呼びだてしたのは、どうしても聞いてほしい話があったからなんです」

 大丈夫、きっと彼ならば受け入れてくれる。

 そう何度も自分に言い聞かせるけれど、やっぱり緊張して口は乾くし、動悸も収まらない。相手がどんなに心を許せる人であろうと、自分にとって一番大事な秘密を打ち明けるときというのは、誰だってこんな風にわたわたしてしまうものなのだ。

 どうにか心を落ち着かせ、からからの喉から、私はどうにかその言葉をひねり出した。

「実は私……身体から抜け出した、ただの幽霊なんです」

 

  ◇  ◇  ◇


 私が死のうと思ったのに、たぶん大した理由などなかったのだと思う。

 ただ、目に見えないくらい小さな傷を、日常の些細な場面で無数に作っているうちに、心の血をすっかり失くしてしまったんじゃないか、そんな風に考えている。

 私はいわゆる「良い子」というやつを演じながら生きてきた。

 というより、それ以外の生き方をなにも知らなかった。

 他人に嫌われないように、目立たないように、居場所を失わないように。期待に応え媚びを売り、自分の考えを押し殺し必死に自分を削って周囲の形に合わせているうちに、私はどうやら一番大事なものまで削り落としてしまったらしい。自分が何者なのか分からなくなってしまった。私が私であるための「存在の核」みたいなものを失くしたのだ。

 一言で表すなら、なんだか他人の人生を生きているような気がした。

 私は私であるはずなのに、どういうわけか、私じゃない。

 何もかもを他人から「させられている」と感じるようになった私にとっては、一分一秒の呼吸ですら苦痛の種でしかなかった。そうしてあるときふと思ったのだ。

 こんな単調な地獄がいつまで続くのだろう?

 人生が八十年あるとするのならば、これをあと三六五に六十をかけた回数繰り返さねばならないことになる。そう考えただけであらゆる活力が失われた。目の前に横たわる膨大な虚無は、私にとって絶望以外のなにものでもなかった。

 毎日そんなことを考えていたせいだろう、ある日、急に私は死ぬことに決めた。

 本当に突然だった。なにか嫌なことがあったとか、通学電車が人身事故でとまったとか、そういうドラマチックな展開はなにもなく――むしろ、あまりに何もなさすぎたのだった。


 そうして決めた通りに私は自殺を決行した。

 いざ実行するとなると、やっぱり想定していたよりも遙かに怖くって、踏ん切りがつくまでに相当な時間がかかった。ためらっていたのがほんの数分なのか、それとも数時間だったのか、そんなことは確かめようもないけれど、とにかく私は実行した。

 けれども、そのあと私の身に降りかかったのは皮肉としか思えない、まったくもってあてこすりみたいな奇妙な運命だった。

 なんと私は生きていたのだ。

 ――しかも、幽霊となった状態で。

 こう書くだけではきっと混乱を招いてしまうだろうから、もう少し詳しく説明すると、私の「器」である肉体は植物状態となって深い眠りの中にある。ところが私の「中身」である魂だけが、どういうわけなのか独りでに現世を彷徨い歩いている。

 考えてもみてほしい。コップに水が入っているとして、コップが粉々に砕けたにも関わらず水がそのままの形を保っていたり、あろうことか独りでに動き回ったとしたらそんなのホラー以外のなにものでもない。

 しかし、実際に私の身に起こったのはそういう種類の現象なのだ。

 

 始め、私は死ぬことが叶わなかった事実にひどく落ち込みはしたけれど、次第に元気を取り戻していった。よくよく考えてみれば、まったく誰の目にもとまらないということは、完全無欠の自由だということだ。誰に何をしろと言われることもないから、なにをしても、しなくてもいい。

 今までのように他人の顔色を窺うことなく、私は私のしたいように、私のためだけに生きていていいのだ。

 そのことに気づいてからは途端に元気が湧いてきた。

 今までできなかったことを、なんでもやろうと思い至った。漫画喫茶に入り浸って読みたかったけど読めなかった漫画や小説を思うさま読みあさったり、好きなだけ二度寝をして過ごしたり、信号無視だって、今までやったことがないくらいスカートを短くしてみたりもした。

 けれど、やがてだんだんとつまらなくなっていった。

 マグマが次第に熱を失い、やがて溶岩となって冷えて固まるみたいに、私は自分のもつ「完全無欠の自由」が「世界にひとりぼっちの孤独」とまったくおんなじ意味だと思い知るようになった。

 それから、人混みの中にいるのが辛くなった。

 これだけ多くの人間が世の中に溢れているのに、誰にも自分の姿が見えないことが、この世全ての人から無視されたみたいなたまらないほど辛い気持ちを私に起こさせてしまったのだ。

 だから、本当に、まったくもって可笑しな話ではあるけれど。

 透明な幽霊となった私は、人目を恐れて廃墟へと逃げ込んだ。


 そこで出会ったのが、彼である。

 初めて声をかけられた時は正直言ってものすごく驚いた。家に帰ったら知らない人が自分のベッドで寝ていたとしたら、あれくらいビックリするのかもしれない。

 なにせ、私にとっては誰にも私の姿が見えないことが当たり前だったのだ。

 それでも、自分のことを見つけてもらえたことが嬉しくて、存在を確かめるみたいに私は彼に会いに廃墟へと足を運んだ。

 最初は彼も私と同じ幽霊なのだとばかり思っていたが、どうやら彼は普通の人間であるらしいことが話しているうちにわかってきた。

 もちろんいくらかショックを受けた。せっかく見つけた友だちが自分の仲間ではなかったのだから。

 それでも彼に会うことは私にとってはささやかな楽しみで、大きな喜びであった。

 普段は大人びた親切な振る舞いをするくせに、ときどきどうしようもなく子どもらしいあどけなさを見せる彼は本当に優しくて、私は彼と話すことを通して、今まで生きるために我慢してきた無数の生傷が癒えていくのを感じた。

 彼が幽霊でもないのに私の姿を見ることができたのは、きっと彼が目の前にある景色を目だけでなくて、ちゃんと自分の心で感じとろうとする人だったからなのだと思う。

 そんな新しい日々に、私はちょっと言葉にするのがもったいないくらいの幸せな気持ちを味わっていた。

 それだけでよしておけばよかったのに、けれど私はそれ以上のものを望んでしまった。

 私は、ずっと一人で抱え続けてきた秘密を、彼にだけは知って欲しいと思ったのだった。


  ◇  ◇  ◇


「実は私……身体から抜け出した、ただの幽霊なんです」

 すると彼は、思いもよらないことを口にした。

「ああ、なんだ、そんなことだったのか」

「そ――そんなことって」

「ずっと前から気づいてたよ、薄々はそうなんじゃないかって」

「本気で言ってるの?」

「ああ」

「それを他のひとにいったらどんな反応されると思う?」

「まともに相手してはもらえないだろう。自分でも突拍子がなくて馬鹿げたことを口にしてることくらいわかってる」

「すごく馬鹿げてる」

「ほんとに、そのとおりだ」

 幽霊であるはずの私の方が彼の正気を疑うような形になってしまっていた。

 でも、それも仕方ないだろう。こんな話、普通は信じてもらえない。

「ただ、こういう風にも思うんだ」

 まったく事態についてていけず、激しく動揺する私と対照的に彼の表情は穏やかだった。

「多くの人の目にそれらしく映るものがあったとして、どうしてそれが真実と確定させることができるだろう。自分の目にしか映らないものがあったとして、どうしてそれを幻ときめつけなきゃいけないんだろう、って」

 私は、もしかすると信じてもらえないかもしれないとも思っていた。そしてもしそうなっても無理はない、それが当たり前のことだと予防線もはっていた。

 けれど、彼はそんなちゃちなバリケードなんて易々と飛び越えてしまったのだ。

「それに――」

 ときどき見せる、あの純粋そうなあどけない微笑みで。

「俺たちはもう、こうして出会ってるじゃないか」 

 そんなセリフを彼は口にした。

 その言葉が、弱虫で臆病な私の心を真っ正面から鮮やかに射貫いた。

「なら……私の言うことを信じてくれるなら……」

 彼の笑顔があまりにも優しそうだったから、私はついはしたないお願いをしてしまった。

「幽霊なんかじゃない、本当の私に会いに来てくれますか?」

 震える声で尋ねると彼はなんでもないことのように答えるのだった。

「当たり前だよ。俺がこうして廃墟に通うのは、誰に会うためだと思ってるの?」


  *  *  *


 数日後。とある病院の個室にて。

 暗闇の中で声が聞こえた。

 眠りの森に閉ざされた私を、どこからか呼ぶ声がする。

「――ちゃん、……――ちゃん」

 どこか懐かしくて、優しそうな声だった。

 その声が波となって空気を伝い、私の鼓膜を震わせたとき、電気マッサージをされたみたいに私の心も目を覚ました。

「その、声……」

 瞼を開くと、靄がかった視界におぼろげな人影が映る。

 それからなにか温かいものが私の頬に触れて、優しく撫でてくれるのを感じる。

「まったく、とんだお寝坊さんだ」

 呆れたように、からかうように、声が私に向かって語りかける。

 視界と意識がだんだんクリアになっていって、あやふやなシルエットが明確なひとつの像を結んだ。その男の子の、澄んだ瞳がまっすぐに私の瞳を、心を見つめていた。

 その唇から言葉が溢れる。

「おかえり」

 そういって柔らかく微笑む彼の頬へ、私もすっかり細くなった手を伸ばした。

「ただいま」


 こうして、実に数ヶ月ぶりに私の魂はこの世界で息を吹き返した。

 身体じゅうが重くてだるくて、とってもしんどくて大変だった。

 それなのにどういうわけか、肺いっぱいに吸い込んだ空気は、今までで一番新鮮で瑞々しかった。


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