【KAC7】懐かしき洋館

miso

第1話 懐かしき洋館


 目を覚ました彼の視界には見覚えのある景色。

 古めかしく、しかして高級感が漂う。

 美しい木目が並ぶ床と同質の壁が囲う長い廊下。

 随所に趣味のいい意匠が施され、等間隔で窓が並ぶ。

 彼は、懐かしき洋館に佇んでいた。


「……」


 懐かしい洋館の姿に感慨を覚える間もなく、彼の頭は混迷を極めていた。

 曰く、何故。どうして。

 自分は暖かい布団の中でつかの間の休息を謳歌していた筈だ、と。


 窓外でピガと一瞬、光が弾ける。

 続けて鼓膜を揺らす炸裂音。

 雷鳴が轟く。


「……」


 混迷を極めながら、彼は気付いた。

 見覚えのある洋館について、記憶がない。

 どこで見たのか、いつ来たのか、思い出せないのだ。

 記憶の欠落が混迷に拍車を掛けそうになり、彼は思考を無理矢理断ち切った。

 そんなことはどうでもいい。思い出したければ後ですればいい。

 今はとにかく、家に帰ろう。

 近頃は仕事が忙しく、徹夜続きだった。

 初歩的なミスを繰り返す部下に余計な仕事を増やされ、ただでさえ忙殺されそうだというのに、新たな仕事はいくらでもやってくる。

 好景気というのも考え物だ。

 しかし今日は久し振りに休みなのだ。明日からはまた忙しくなる。

 一日限りとは言え、休まなければ本格的にまずい。

 そうだ。これも夢なのだろう。

 心身ともに疲弊したことによるちょっとした悪夢。


「……」


 夢であるならば、どうということもない。

 彼は廊下を歩きだす。

 革靴の踵が床を打ち、音を鳴らす。

 窓を雨粒が強かに打っている。

 外から入る僅かな光を頼りに、長い廊下を行く。


 心の余裕が幾らか生まれると、再び問いが浮上した。

 曰く、いつ。どこで。

 自分は何を忘れているのだろうか、と。


 一定の足音が響く。

 廊下は長い。だが、そこまで時間がかかることもなく、扉へと辿り着いた。

 誰かの書斎だろうか。

 重厚な扉にはとりわけ力の入った意匠が施されている。

 変わらず、品が良い。

 自分の理想にも近しい作品だ。

 いずれはこんなものが作れればいい、などと思いながらノブを回す。


「……」


 扉が薄く開いた瞬間、強烈な臭いが鼻を突く。

 脳髄が揺らされる感覚。

 何かを思い出しそうになり、扉を突き開く。

 同時、窓外で一際大きな雷鳴が轟き、部屋を白光が染め上げた。



 窓が激しく揺れる音に目を覚ます。

 廊下。

 懐かしき洋館だ。

 至る所に施された意匠は品が良く、美しい。

 素材を活かし、その価値を高める。

 本来あるべき姿。

 常ならば感嘆するそれに、一瞥も向かない。


「……」


 わからない。

 何がどうなっているのか。自分の身に起こるこれはなんだ。

 彼は焦る。

 この夢は何なのだ。


 廊下を再び進む。

 風が強い。

 窓外に見える木々は枝を大きく揺らし、葉がバタバタと音を出す。

 歩みは速い。

 カツカツカツと踵が床を打つ。


 目先の扉は薄く開いている。

 どこかで悲劇的な音楽が流れている。

 曲名は何だったか。

 レコード特有の音。

 彼の鼻を、刺激臭が突く。


「──」


 扉を押し開く。

 重々しく、ゆっくりと、開かれていく。

 赤。



 目を覚ます。

 粘着質の感覚に両手を見る。

 染まった手。

 思わず手を払い、近くの壁に擦り付ける。

 ごしごし。

 へばりついた血は取れず、意匠によって手が傷つく。


 意匠。

 美しく、品のある。

 彼の作品。


「……」


 そうだ、これは。

 いつの日にか己が手掛けた意匠である。

 この洋館それ自体が、自分の一大作品なのだ。

 どうして忘れていたのか。

 一生超えることのできないだろう傑作を。


 撫でるように壁に手を這わせながら、廊下を進む。

 最高の出来だ。

 やはり私は天才だ。

 誰も、私を超えることなどできない。


 確か。

 向かう先、長い廊下の中ほどには己の全力を持って作り上げた作品があった筈だ。

 記憶を頼りに、期待を胸に、廊下を行く。

 足取りは軽やか。

 聞こえる曲が明るい。

 調子のいい音に釣られ、浮足立つ。


「何だ、これは」


 到着し、作品が目に入る。

 でたらめに刻まれ、乱雑な色に染まった像。

 手塩にかけて作り上げた作品の無残な姿。

 視線を滑らせれば、端の方に名前が記されてあった。

 よく知る名だ。


 白光。雷鳴が轟く。

 流れる曲が激しさを増す。

 風が強い。雨が強い。

 窓に罅が走る。


 歩みが速くなる。

 踵が床を踏み抜くほど強く振り下ろされる。

 怒りに血が上る。

 思わず唸り声が漏れる。


 半開きの扉を蹴り開ける。

 怒り心頭な自分へと妻が近づく。

 笑顔で迎えた彼女が、夫の様子に表情を変える。


「どこだ!」

「誰が……でしょうか」

「どこだ! どこにいる!」


 嘆くような歌が聞こえる。

 雷鳴が轟く。

 近づく妻を突き飛ばし、部屋を探し回る。

 壁の影。

 机の下。

 隙間。

 居ない。


「ここには私以外誰も……」

「どこだッ! あいつはどこにいる!!」


 妻の不自然な動きが目に入る。

 クローゼットを隠す動き。


「そこか!!」


 机の上に置かれた彫刻刀を掴み、阻む妻を斬り付ける。

 クローゼット。

 内側から息遣いを感じる。

 思い切り扉を開く。


 蹲り、体を震わす子の姿。

 我が子。

 憎き、子。


 絶望の曲が流れる。


 涙を浮かべた目で見上げる子に向かい、彫刻刀を。

 振り下ろす。



「……」


 目を覚まし、起き上がる。

 最悪の目覚めだ。

 見慣れた部屋と寝台。

 懐かしき洋館ではない。

 あの洋館はもうないのだ。

 灯油を撒き、火をつけた。


 盛大に燃え上がった洋館は周囲の木々を巻き込み、炭化した。

 後には夫婦と子の骨が見つかった。

 無理心中ということになったそうだ。


 支度だ。

 長年愛用する彫刻刀を鞄に放り込む。


 骨。

 代わりにしたのは誰だったろうか。

 使用人の一人だったか。


 ネクタイを締め、家を出る。

 今日からまた忙しい。

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【KAC7】懐かしき洋館 miso @tetomatoshi01

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