近い夢

ぶるすぷ

近い夢

 夢には距離が存在する。

 軽い眠りは近くまで、深い眠りは遠くまで、夢の中に入っていける。

 そして遠くまで行けば、遠い人に会える。

 もう会えない、死んでしまった人とかに、会える。

 それが夢だ。

 死んでしまっても、夢でその人が出てくる時がある。

 死んでも近くにいたいと思えば、夢でその人が近くまでよってくる。

 そうすれば、会えるのだ。

 普通、あんまり遠くに行った人とは会えない。

 死んで何年もたった人と、もう一度夢の中で再会するのは難しい。

 だが、愛の強さが影響して、一度だけ夢の中で会って話して、相手の死を受け入れる、という話はよく耳にする。

 遠い夢を見れば、もしかしたら死んだ人に会えるのかもしれない。

 それが夢の距離だ。


 僕は、夢の中で会いたい人がいる。

 昔のことで、記憶もおぼろげで、もう会えないだろうということははっきりとしている。

 それでも会いたい。

 その人は、昔僕が好きだった人だ。

 かけがえのない、両思いの、僕の大好きな彼女、だった人だ。

 今はもう、この世界にいない。

 だけど、夢の中ならもう一度だけ会うことができるんじゃないかって、そう思ってる。

 でも、会えないのは、分かってる。


 逆に、夢の中で会いたくない人もいる。

 これも昔のことで、かなり曖昧な記憶だ。多分もう、会うことは無いだろうと思ってる。

 だけど、万が一にでも僕は会いたくない。

 その人は、僕が殺した人だから。

 僕の手で、その人を殺した。

 それだけは分かっている。


 殺した方法も、もう忘れた。

 どうやって、どういう経緯で殺したのかも忘れた。

 ただ殺したという事実だけを覚えている。


 僕はその人に会いたくない。

 怖い。会って何を言えばいいのか分からない。

 今度は僕が殺されるんじゃないかと、ビクビクしている。

 夢の中で呪われるんじゃないかと怯えてるんだ。


 好きな人に会いたい。

 でもそれ以上に、その人に会いたくない。

 多分、二人とも会うことは無いだろうけど、それでも、僅かでも可能性が残ってるのなら、僕は選択する。


 会うなら、遠い夢だ。

 遠く、遠くまで進めば、再会する可能性が膨れ上がる。

 会える可能性が高まる。

 会ってしまう可能性も高まる。


 臆病者だと言われても仕方ないだろう。

 でも、僕はその人に会うのが怖い。これ以上無く、怖い。

 だから、いつも近い夢だけを見るようにしている。

 ブレーキをかけて、知っている人ばかりに囲まれて、近い眠りをいつも見ている。


 遠くまで行くなんて、僕には到底できそうにない。

 そうして今日も、また眠りにつくんだ。



 夢。

 ここは夢の中だ。

 最近、自分が夢の中にいるのだと気づくことが多い。

 いや、来る度意識してしまう。

 ここは夢だ。

 近い夢だ。

 良かった、近くて。

 そうやって安心している。


 今、視界に入っているのは大きなマンション。

 後ろを向くと、切り立った崖。その向こうには海。

 切り立った岩肌が見える。この崖から海に飛び込んだら、助からないだろう。


 夢の中だ。知っている人に会えるかもしれない。

 とりあえず僕は、マンションの方に進んだ。


 沢山部屋がある。

 大きな、少し古いマンション。

 適当に階段を登って、適当な部屋の前に来た。

 部屋番号がもやっとしていてよく見えない。

 ふいに、スロットみたいに回転し始めて、部屋番号が五○九で止まった。

 夢のくせに、凝った演出だと思った。


 五○九。

 どこかで見たような。

 いや、何か大切なことを忘れている気がする。

 この数字を見ると、思い出してはいけないような、思い出さなくてはいけないようなことが、ある気がしてくる。

 でも、思い出せない。

 もやもやして、なんか嫌だな。


 僕は、扉を開けた。

 玄関があったので、靴を脱いで部屋の中に入る。狭い部屋だった。

 ちゃぶ台。その上にはタバコの燃えカスが山積みになった灰皿と、中身のないビールの缶が数個置いてある。

 床には新聞と雑誌とテレビのリモコンが転がっていて、部屋の隅に置いてあるテレビはブラウン管。

 床に髪の毛が落ちていて、ほこりも溜まっていて、掃除されていないのがすぐわかる。

 窓が空いていて、ベランダの方は、モヤがかかっていて見えない。


 僕は、頭が痛くなった。

 また、記憶の中の引き出しの一つが、出せそうで出てこないような、モヤモヤとした感じ。

 今日の夢はおかしい。

 こんなに鮮明な夢は、どう考えても近い夢だ。

 そのはずなのに、なぜか、全然違うと本能が訴えてくる。


 不意に、誰かの足音が聞こえた。

 どたどたと、走ってきた。

 もう一人、その足音を追うようにどすどすと足音が聞こえる。

 不意に手を引っ張られるような感覚。

 なんだ、これは。


 激しい頭痛がした。

 痛い。見たくない。見るだけで、おかしくなる。

 見てはいけない。思い出すことも許されない。自分が許さない。許したくない。

 どんどん、頭が痛くなる。

 

 僕はこの部屋にいるのが耐えられなくなって外に出た。

 もう、これ以上居座っていたらおかしくなりそうだった。


 扉を開けて、外に出る。


 すると、そこはマンションの廊下じゃなくて、この夢に来て最初に見た崖の前だった。

 足音が、僕の横まで来て止まった。

 茶髪の女の子だった。

 顔が見えなかった。見たくなかった。モヤがかかっているわけじゃないのに、僕は見えなかった。僕が、目を逸していた。

 殺した人だ。

 この人は、僕が殺した人だ。

 この夢は、僕が人を殺した夢だ。

 そして崖に──



 目覚まし時計が鳴った。

 だが、脳裏に残る夢の残留が強すぎて、僕は目覚まし時計を止められなかった。

 数分、そのままぼうっとしていた。

 もう夢が見たくなかった。



 夜になる。

 僕は近い夢を見たい。

 遠い夢は、昨日みたいな夢は嫌だった。

 だけど、見なければならない気もした。


 複雑な気分で僕は眠った。

 近い眠りを、したかった。



 夢。

 崖。

 眼の前に、海が広がる。

 綺麗な海だ。

 地平線に沈む夕日が、綺麗だ。

 こんな日に、僕は好きな人と一緒に遊びに来た気がする。


 横を見る。

 僕は手をつないでいた。

 つないだ手の先を見ると、茶髪の女の子がいた──


 頭が痛い、痛い痛い痛い!


 なんだ、彼女はどうしてここにいる。

 これは昨日の夢の続きだ。

 間違いない、昨日ここで、見たくない人を、僕が殺した人を見て、そして起きたんだ。


 ならなぜ、彼女がここにいる!

 僕の大好きな、かけがえのない彼女が!


「あなたに、伝えに来た」


 彼女は喋った、

 僕も喋ろうとしたけれど、喋っても、何も音が出なかった。

 僕は彼女の言葉を聞くしかなかった。



「私は、あなたが大好き。でも、私は死にたいの。親が怖くてもう生きられないなんて、ばかみたいな理由だけど、でも、家の中で、あの五○九の部屋の中で、窓の近くで殴られて、カッターで切り傷を入れられて、ベランダに血をつけるなんて。そんな毎日なら、私はこれ以上生きたくない。あなたがいても、それでも、もう生きたくないの」


 夢。

 しかし、これは夢じゃない。

 全部忘れようとして、全部自分の中に隠そうとして。

 目を逸らして、逃げ続けてきた僕への罰。


「私は死ぬ。ここに飛び込んで死ぬ。絶対死ぬ。だから、今日はお別れを言いに来た」


 そして、この後起こることを、僕は知っている。


 僕は泣いた。

 涙を、流した。


 彼女も涙を流していた。


 そして、僕は彼女を抱きしめる。

 ぎゅっと、これ以上無く、抱きしめる。

 驚く彼女に構わず、キスした。

 愛でた。

 僕の感情を全部使って、その一瞬に愛を込めた。

 彼女の嬉しそうな悲しそうな、赤くなってかわいい顔が、僕には愛おしくてたまらなかった。


 僕は彼女にお別れを言いたくなかった。




「大好きだよ」






 僕も一緒に、彼女と手を繋いで海に飛び込んだ。








 そして僕は全部思い出した。


 ここは夢の中。

 近い眠りの中。


 僕は死んだ。

 海に飛び込んで死んだ。


 彼女は生きた。

 海に飛び込んで、それでも運良く生き延びた。


 彼女は警察に保護され、親の虐待が明るみになり、彼女は幸せに生きるすべを学んだ。


 ただ、彼女は後悔していた。

 僕にもう会えないことを。


 僕も後悔していた。

 彼女にもう会えないことを。


 僕が殺したのは、僕だった。

 僕が愛したのは、彼女だった。


 自分が何だったかに気づいて、やっと目を覚ました。

 たったそれだけの話だったのだ。



 事件から数年経った今。


 彼女に会うことができたのは。

 近い眠りに行くことができたのは。

 一体どうしてなのだろうか。

 僕は考えたけれど、答えは結局出なかった。



 幽霊の僕は、彼女のことを知ることができる。

 もうすぐ消えちゃうけれど。


 彼女は今も幸せそうだ。

 僕が生きていない世界でも、幸せに生きている。

 僕はそれが嬉しい。


 僕のせいで、僕が死んで、彼女が生きたせいで、悲しいことがすべて消えたわけじゃない。


 それでも彼女の幸せは、ずっと生き続けるんだから。



 僕は近い眠りから離れた。


 もう、誰も会えないような遠い夢へと。

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