冷蔵庫でおやすみ

千羽稲穂

In The Refrigerator

 今、ようやく警察に自首の電話をした。固定電話から電話をするのは久しぶりだ。てっきりこの先一生使うことなく埃をかぶるか、粗大ごみに出すんじゃないかとも思っていたから。それが最後の最後で役に立ったのだから、粗大ごみに出さずによかった。そんな奇妙な安心感に包まれている。固定電話にしたのは、ここの場所が逆探知されやすくするためだ。その必要があったのかは分からないが。

 電話に出たのは、疲れた声をだした男だった。その人がこっちに来るのを後は祈るのみ。

「あと何分でくるって?」

 台所に立っている彼女は、そう言いつつ流し台の出しっぱなしの蛇口をしぼり、ガスコンロの火を消した。きゅっと、最後にガスの元栓をきつく締める。ふんわりと漂う彼女の甘い香り。鼻先にかすめる残像に目を細める。彼女はかけてあるタオルを手に取り、濡れた手にあてる。手のしずくがタオルに染み込み、まっさらな手が俺の肩に置かれる。その手は重くのしかかり、実感がむくむく育つ。

「三分ほどやって」

「ふぅん、結構早いんやなぁ」

「ここは警察署の近くやしな」

 彼女の間の伸びた喋り方に、甘い匂いのする声。これが彼女の持つ性質だ。それを聞き、クッションを抱きしめたような感覚を覚える。だからこそ彼女が最後までここにいてくれて良かったとも思えるし、一方で早く彼女から逃げたいような、ナイフを手に取り、その身を刺したいような、そんな焦燥感を抱く。こんな気持ちを抱くのは、罪の意識からか。

「何しよっか」

 ホイップクリームのような白さと柔らかい雰囲気を彼女は俺に差し出した。今すぐ誕生日を祝おうかとも言っているのだろうか。さすがにそれは彼女にとっても、俺にとっても皮肉だろう。

「何にもしたいことがないわぁ」

 アパートの六畳間一間で彼女と一緒にいた、なにげない日々を振り返る。何事にもつつましく、二人で協力して生活してきた。何も後悔などなかった。最後の一分一秒間まで、僕はそう言い続けることが出来る。

 彼女は冷凍庫の中から、特別な日のためにとっておいたハーゲンダッツを二つだす。赤紫のパッケージにはクッキー&クリーム味とクッキー&ミント味がイラスト付きで載っている。プレス機にかけられたような平べったい、使い捨てスプーンも机に置く。

「これ食べるくらいの時間はあるやろ?」

 彼女はミント味の方を手に取る。

 はは、と俺は小さく笑ってしまう。俺はかねてからミント味は歯磨き粉だと言って、バカにしていた。しかし今はそんなことはしない。最後の晩餐だ。もうけなすことなんてしない。

 俺はクッキー&クリームを手に取り、キャップを外した。中に一枚の白い膜があったのではずす。なぜか中身は溶け始めている。

「冷蔵庫つぶれてるやん」

 俺は絶望的な声音を響かせた。彼女は心配して、冷蔵庫を一心に見つめた。

「流石に入れすぎたんやろうな。てか、ちょっとだけにおわへん? 大丈夫?」

「大丈夫やないやろ」

「中のあれ、腐ってないかな」

「腐ってるんちゃう」

「それは嫌やわ。君やってそうやろ」

「うーん、そう思うけど。

 腐ってるけど、別にいいような。だって、腐ってる匂いを閉じ込めればいいんやし。私はこの匂いは慣れっこやしね。閉じ込めてんのが見つかればその時はカケルと離れなあかんしぃ、嫌やけど、でももう電話しちゃってんろ。見つかってほしいような見つかってほしくないような」

 彼女がハーゲンダッツをすくい、口に運ぶ。

 俺は周囲に蠅が舞っているか確認する。冷蔵庫という密閉空間に入れているためか蠅はまだ飛んでいない。代わりに、夏の風物詩の蚊がぷんぷんさっきから部屋にいる。あんまりに鬱陶しいから、うずまき線香を豚型の入れ物に入れて、火をつけた。じりじりと灰が緑を侵略する。灰がぽとりと落ちた。

 これで最後だと言うのにぬるま湯に浸りきった空気が流れている。緩み切った雰囲気に押されて、俺の口も軽くなる。

「なあ、俺さ、聞こうと思っててんけど」

「ん、なぁに」と彼女はどうでもよさそうに応えた。

「よくここまで付いてきてくれたなぁ。俺は怖かったやろ」

 目の前のクッキー&クリームは泥水のように崩れ出す。夏にアイスを外に出すと一瞬に溶解する。固体から液体に変化するとその容量は大きくなる。入れ物から溶け出したアイスが溢れだしていた。

「確かに、怖かったわぁ」

「俺が過去に人殺してたこと、告白しても君はついてきてくれた」

「カケルは、告白しても人を殺すことをやめへんかったしなぁ」

「そのたんびに冷蔵庫はいっぱいになった」

 外で通り魔の的に殺害していた俺は、彼女に出会い、標的を人目につかない場所に誘うことを覚えた。そこにクーラーボックスや鋸、ブルーシートを持っていき、殺人を行ってから後処理をし始めた。何も知らなかった俺に彼女は全部支援してくれたのだ。彼女は今の今まで付いてきてくれた。

 殺した後に、俺はよく彼女を抱いた。彼女は気持ちよさそうに頬を腫らして、カケルは良い匂いやなぁ、と恍惚とした表情を認めた。その顔に俺はより欲情し、再度同じことを繰り返した。彼女は俺を深く理解してくれていた。その傍らにはいつも冷蔵庫があった。その中には、記念として持ち帰った、殺した者達の肉を入れたタッパーが溢れかえっていた。冷蔵庫を開くたびに、腐った肉の匂いがした。その匂いを身にまとい俺達はキスを重ねあった。

「カケル、私、後悔してへんよ」

 彼女はアイスを食べ終わると、ごみ箱に捨てた。俺の分を残して、冷蔵庫に向き合う。何回も聞いた言葉を、今度は自身に言い聞かせるように彼女は続ける。

「私、後悔はしてへんよ」

もうすぐ三分だ。熱心な警察のことならすぐにでもここにやってくるだろう。

「なあ、もう一つ教えてくれん」

 俺も繰り返す。この声が彼女に聞こえているかは分からない。彼女は冷蔵庫の前で、あれを見つめている。入れてあった記念品はタッパーごと流し台に放り出されている。どこからかやってきた蠅が台所にたかる。じじっとがつけた線香がうなる。


「なんで俺を殺したん」


 冷蔵庫の中で、間接をねじまげられ、無理やりに押し込められた俺は、彼女の幻影としてこの六畳間に立っていた。幽かな存在の俺は、壊れてしまった彼女に問いかける存在になっていた。彼女はそんな俺に対してもアイスを差し出す。もうどろどろに溶けてしまっている。机には白と黒のリバーシブルの液体が満たされていた。ぽつぽつと島のようなクッキーが浮かんでいる。ぽたりとその液体が床に落ちる。白は赤を遮る。床には赤が散らばる。その赤は端が崩れ、冷蔵庫まで引きずられていた。その先で、彼女は冷蔵庫に話しかける。

「もう終わったんや」

 静かに問いかける俺に彼女は、うん、と頷く。

 包丁も一緒に冷蔵庫の中にしまわれている。どくどくと今まさに血が滴っている。冷蔵庫の中は既に赤にくるまれていた。

「だから教えてぇや。もう来るし。時間もない」

「私、後悔はしてへんねん」

「なんで」

「ごめん」

「教えてぇや」

「私、後悔はしてへん」

 消え入りそうな彼女の声に、俺は鋭い視線を差す。光を点し、彼女を責め立てる。すると彼女は唾を呑み、息も絶え絶えに言葉を零す。

「私にもわからへんねん」

 彼女は俺を愛していたと思う。俺もそう思う。でも、今ここに俺がいるし、目の前に冷蔵庫の前にうずくまっている彼女がいる。それが答えなのかもしれない。そこから答えは見つからないし、『わからない』ことが普通なのかもしれない。

「それはないわぁ」事切れた冷蔵庫の中で、俺の口は歪む。

 アパートのドアをノックする音が響く。空しく放たれた音は室内に反響し、溶け切ったアイスの水たまりに幾重もの波紋を広げていた。

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