最後の三分間

七野りく

ヒーロー

「関西の方で大きな地震があったようだよ」


 早朝、いち早く異変に気付いた父からこう告げられたのは僕が何歳の時だったろう。

 当時の僕は、そこまで野球に左程興味がなかったように思う。

 ルールは分かるし、順位も把握しているし、有名選手の過半は知っている。

 これで「野球に左程興味がない」である。今では、信じられないだろうが野球は日本人にとって最大の娯楽スポーツだったのだ。

 

 ―—明確に僕を野球好きに変貌させたのは95年からだったと思う。


 いや、きっと多くの人はそうだったんじゃないだろうか。

 震災で傷ついた神戸に現れた新しいヒーロー(実際には前年、もう誰も追いつけない存在だったけれど)。

 少なくともあの独特な打撃フォームを真似したことがない、と断言し得る鋼の精神を持った元野球少年に、僕はついぞ出会ったことがない。


 投手が何処へ投げても打ちそうで、軽々と次の塁を奪い、ボールが飛べば取れない球も掴み取り、走者をホームへ帰さない惚れ惚れするような強肩(余談ではありますが、当時の外野陣が行うキャッチボールは豪華そのものでした)。


 日本にいた九年間、字義通り日本球界を代表する最強打者であり、某野球ゲームでは「サクセスで作ったキャラより遥かに強い」が為に、常に1番か3番に置いていたのを覚えている。

 先に海を渡った「竜巻」が米国を熱狂させ、やがて、ヒーローも渡っていった。

 

 ―—以来、彼を観ることが生活の一部になった。


 学校から帰り夕刊が届くとスポーツ欄を確認。

 

 今日はヒット二本か。

 お、今日は猛打賞。

 ヒット零……珍しい。

 

 日本よりも米国の野球が上なのはもう知っていた。認めたがらない人は多かったけれども、結局のところ、人材の厚みが違い過ぎる。

 彼の成功――いや、大成功に続いて、海を渡った多くの野球選手達が厚い壁に跳ね返されていく中、一人、彼だけは変わらぬ姿を見せ続けてくれていた。

 

 ……十年が過ぎ、当時の元野球少年達が高校生になり、大学生になり、社会人になっていく。


 何処かで、僕達は願っていたように思う。

 人は誰でも老い、衰えていく。

 けれど、けれど、あの人だけは違うんじゃないかって。永遠に打ち続けてくれるんじゃないかって。

 

 でも、そんなのは幻想……時間は誰にだって平等に過ぎていく。


 慣れ親しんだ街から、大都会への移籍が決まった日の会見場に現れた彼の髪は白かった。

 

 彼も――人なのだ。

 

 その時、初めて……「彼が舞台からいなくなる」という事態があり得る、と実感したように思う。

 そこから先の彼は記録だけを見てしまえば、以前の彼ではなかったのは事実だと思う(実際にはその前年にはもう)。

 

 衰えた打撃。弱くなった肩。狭くなっていく守備範囲。

 

 観続けてきた多くの元野球少年達も分かっていた筈だ。というか、そんなのは当たり前なのだ。年齢を考えれば、他の選手だったらユニフォームを脱いでいる。 

 それでも、彼は――僕達にその姿を見せてくれた。

 

 感謝以外のどんな感情を抱けばいいと?


 彼のヒットが、彼の送球が、彼の守備が、彼の言葉が、僕達を今までどれだけ勇気づけて来たことか!

 物心がついて、僕が野球に興味を持って以降、彼の存在はずっと日常の一部であり、いて当たり前だった。


 ……けれど、そろそろお別れを言わなくちゃいけない。


 現役最終打席。最後の三分間。

 打てないだろうな。いや、きっと彼なら。そんな想いがせめぎ合う。

 自然と両手は組まれ祈りの形。

 思えば彼には何度も祈っている気がする。 

 日本人の御多分に漏れず、僕は特定の神様を信じてはいない。

 

 でも――彼だけは子供の頃からずっと純粋に信じていたなぁ。

 

 なるほど、これが敬虔な信者というやつか、と自分自身を今更苦笑してしまう。

 ……最終打席も彼は打てなかった。

 けど、僕は満ち足りていた。この最後の三分間を僕は生涯忘れないだろう。


 さて、そろそろ頁も……というより僕の気力が尽きて来た。

 語りたいことは幾らでもあれど、ここで語るには日も、お酒も足りなすぎる。


 ヒーローは最後の最後までヒーローのまま去って行った。


 少なくとも……僕らはもう球場で、彼を観ることが出来ない。出来ないのだ。

 その事実を去年に引き続き、噛み締める日々がまた始まる。この喪失感に慣れる時は果たしてくるのか、今は正直分からない。

 時代は変わり、今や野球は衰退し始めている(人気云々ではなく、なり手の問題として)。どうなっていくかは分からない。もしかしたしら、野球そのものが……。

 それでも、これだけは言わないといけないのだ。



 今まで、本当に、本当にありがとうございました。貴方は僕にとって人生を照らしてくれる光そのものであり、ヒーローでした。


 

 ……さて、日常に戻らねば。

 一晩経ったのに、泣きそうになるな自分。インフルエンザ明けとはいえ、お前には倒さねばならぬ原稿が待っているのだから。

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最後の三分間 七野りく @yukinagi

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