最後の3分間

澄子

最後の3分間




 私の命はあと三分で終わるらしい。

 そう悟ったのは、デジタル時計の数字がちょうど三分を切ったところで、ビルの屋上に仕掛けられた爆弾を見つけてしまったからだ。私は痛みで呻いた。さっき銃で撃たれた傷が酷く痛み、逃げ場として選んだ屋上が、まさか一番死に近い場所だったとは思わなかった。

 どうやら私を襲ったやつらは、研究者を皆殺しにするだけでは飽き足らず、このビル全体を破壊しようとしているらしい。私たちが十年以上かけた研究のすべてを、このビルの残骸とともに葬ろうというのだろう。確かに私たちの研究はこの東京を崩壊させた。彼らの怒りは正当なものであり、ビルの破壊とともに湧き上がる歓声は、全世界へと轟くことだろう。

 私はふらりと足元を揺らし、地面に膝をついた。ここは七十階建てのビルの屋上であり、エレベーターはとっくに止まっている。ましてや手負いの私が、あと三分でこのビルから逃れられるわけがない。

 だが不思議と私の心は落ち着いていた。絶対に逃げられない、という状況はこうも心理的に解放されるものだとは知らなかった。思えば、私は今まであまりにいろいろなことに抗いすぎていた。

 諦めるということが何より苦手だった。幼い頃から、何かに急き立てられるかのように頑張っては誰かの機嫌を取っていた。初めは母、次は学校のクラスメイト、教師、大学の教授、そして別れた夫。

 夫は決して暴力は振らなかったが、冷たい視線と言葉による鋭利な攻撃をするひとだった。家を出て行くとき、最後に私を見下すような視線を投げつけながら、「お前には人間の心がない」と言い捨てた。確かにそうかもしれないと思いだしたのは、かつての恩師であった大学の教授が研究を重ねた末にとある結果にたどり着き、そして私を呼び出してその研究結果を告げた際に、私はそれを否定できなかったからだ。

『人類はもう終わりだ。かつて恐竜が絶滅したように、このままでは人間も滅びることになるだろう。進化だ。人間に必要なのは進化することなのだ。進化すれば、この腐った人間たちにも生きる価値が生まれるのかもしれない』

 私の尊敬する教授は妻も子もいながら、生きている時間のすべて研究室へと閉じこもり、ただひたすら研究に没頭するようなひとであった。偏屈な教授で、大学の生徒の大半に嫌われており、私が大学を卒業してから数年後に奥さんと子供も出て行ったと噂で聞いた。唯一慕っていた私を呼び出して教授が見せてきた研究は、確かに狂っており、私のような研究者には目も眩むような素晴らしい研究成果だった。

 教授の目指した人類の『進化』。私は当時勤めていた会社を辞め、教授の立ち上げていた会社の研究チームに入り、日々その研究を進め、五年後には秘密裏に人体実験を行うようになっていた。

 しかし結果から言えば、教授の『進化』の研究は失敗に終わった。素晴らしい新人類へと進化するはずだった人間は薬を投与され、初めこそ目覚ましい知性の発達を見せたものの、すぐに脳がショートして急激に思考能力が落ち、さらに身体に投与された薬は強いウイルスへと変化し、身体を溶かし、全身を腐らせた。

 それでも教授は諦めなかった。何度も試行錯誤して新しい人間を作ろうとしては、薬を投与した人間を腐らせた。三年続けた末に、教授は呻くように私に言った。

『違う。違う。違う。やはりもうすでに手遅れだったのだ。人間を救うことなどできはしなかったのだ。人類は絶滅しなければならない』

 そして、教授はウイルスを東京中にバラまいた。質の悪いことに、そのウイルスは簡単に空気感染し、一度感染してしまうと周りの人間にも次々にうつった。毎日何十人にも人間の身体が腐り、記憶をなくし、ただ呻きながら道を徘徊するだけの廃人になりさがった。

 ものの一週間で、東京は大パニックになった。ウイルスをばら撒き終えた教授は研究室で首を括って死んだ。残された教授のパソコンには、たった一行、『私は間違っていない』という文字が打たれていた。確かに教授は間違っていなかった。だがそれは、教授がずっと閉じこもっていた研究室の、この酷く狭い世界の中だけでの話だった。

 教授の死後も、私はこの会社に残って研究を続けた。このビルで研究をしている人間には全員ウイルスに対抗するワクチンが打たれていた。私は崩壊する世界の中で、それでも何とか教授の目指した『進化』を成し遂げたかったのだ。

 しかしその前に誰かがウイルスの出所がこの会社であることを突き止めたらしく、怒り狂った群衆による襲撃を受け、今日をもってこの会社はついに終わりを告げた。


  



 そのとき、屋上のドアが激しい音を立てて開いた。


「リーダー……!」


 見てみると、扉の前には私の直属の部下が息を荒くして立っていた。


「もうここは駄目です。リーダーも早く逃げてください!」


 しかし私は首を振って言った。


「無駄よ、そこに爆弾があるわ。あと一分で爆発する。あの大きさなら、このビル全体が崩壊するでしょうね」


 私が指差した先の巨大な爆弾を見て、ひっと部下は声を引き攣らせた。

 曲りなりにも私の部下であるから、私と同じように状況を悟って諦めるかと思ったら、途端に部下は「わあああ」と何やら叫び出し、踵を返して扉の中へと飛びこんでいった。

 同時に、扉の向こうから何やら激しい音がした。もしかしたらすぐ近くの階段で転んだのかもしれない。

 そのあまりに生に縋ろうという人間らしい有様に、私は思わず目を丸くした。しばらく呆然と扉を見つめていた私であったが、ぷっと噴き出し、そのまま私は腹を抱えて大声で笑った。こんなに笑ったのは、子供のとき以初めてのことだった。死ぬ前の三分間で、私はようやく人間になれたのだ。 



 笑い疲れた私は地面へと寝転がり、皮肉なほどに綺麗に見える星空を見つめていた。

 しかし爆弾のタイマーがゼロを示すと同時に、静かに目を閉じた。


 ――さようなら、腐った世界で、それでも光っていた私の人生よ。たとえ再びこの世界の人間すべてに嫌われようとも、また私は私で生きたい。






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