劇団おつべるの遺作

安良巻祐介

……

(廃屋で見つかった映像機器に残された作者不明のムービー。素人制作らしく、労働争議にかかわった社会人の男女のラヴ・ストーリーがありきたりな筋と演出、まずい演技で綴られ、懐古趣味らしいモノクロームの画面もさして効果を上げていない、そんな退屈な映像の、終わり間際の百八十秒。それまで横構図や俯瞰で緩急もなく撮られていた画面が、急に何者かの主観視点――いわゆるPOVに切り替わり、どこかの昏い路地を辿りながら、台詞が流れ出す。内容はひどく抽象的かつ支離滅裂な、それでいてやたらと文章的な独白で、画面が頻繁に揺れているのを見ても、視点人物による台詞らしい。声は、それまでの話で主役を務めていた男のものに似ているが、籠りすぎていてよくわからない。映像は、語りながらやがて路地を抜け、それまでの話の中で出て来た様々な場所――なぜか全て無人になっている――を、セットで繋がっていたような不自然さで次々と通り抜け、最後に一つの建物――これが映像の発見された家屋である――に辿り着くところでちょうど、独白と共に終わっている。なお、話の中で幾度か犬の遠吠えについて言及されているが、実際には犬の鳴き声ではなく、判別不明の人の声で、先の話で男の相手役を務めていた女に似ているとの指摘があった。以下はそれらの音声部分の書き起こしである。)

 ……月が出ている。水に落とした墨の広がりみたいな雲の最中に、丸く、憂鬱に浮かんでる。指先で触れれば柔らかく弾けそうな。ひび割れた爪先に冷たい染みを残しそうな。それは、暗示のように、青白い肌に悩ましげな病気の跡を晒している。明滅する電燈に、虫どもがたかり、道に落ちた痩せぽちの影を気味の悪い形にする、不吉な夜だ。道はどろどろだらだら、未練がましく延長して、からだひとつがその上をふらついて、首の向く先が定まらない。踏み出したのと逆の足が出る。背中がこわばる。そこらの木に細々とかかる蜘蛛の糸、それに似たなにかが、たましいをしめつけている。痒い。胸苦しい。逃げた犬がどこか近い場所で吠えて、その度に影が震えている。犬の姿は見えはしないが、左手に黒々と目をつぶった川の、あの、後ろ暗い対岸あたりかと、思う。なぜあんな声で叫ぶのだろう。足と足と、手と手とが、互いにぶつかったり空を掻いたりしながら考える。しかし足も手も、どこかを指しているように見せかけて、実はどこも指してない。それはまるで、疫病に罹った人形のダンスで、ただ意思のない意思の叫喚だ。そしてまた、闇雲にふり乱す髪の一本一本は、冷たく澱んだ空気の中にばらばら、ざばらと広がり、まるで、頭から零れ出てなすすべなく痛みに震える神経線維のようで、視覚も聴覚も、実のところは触覚にすぎぬのかと考えたりする。これらのことを理屈で否定しようにも、困ったことに脳髄は、もうずいぶんと前から言う事を聞かない。それはただ、どろりと濁ったものを抱えたまま、頭蓋の伽藍に座して、霊肉を忘れ、白けた大天井を見上げるばかりである。そんな事を思ううちにも途の上、影はひとりでに歩いていくから、硝子性の目玉はいよいよ自分勝手に、青白い月の痘痕だらけの面をなぞるだけになり、プラスチックの耳は耳で、タールのように苦く濃い川の音ばかりざらりざらりと舐めるだけになる。ああ、風の音がまるでしない。静けさは本当は凶器である。静けさは常に鋭利で、それゆえにいつも何かを突き破ってしまう。静かな夜に出歩く限り、人は皆尖端恐怖症になる。体温を失い、腐りかけた体をさわれば、もはや伸びすぎた爪の先で破れてしまいそうなくらい皮膚が張り詰めて、輪郭さえ窮屈だ。今この瞬間にも、腹の中の虚空は膨張し、やわらかなたましいはしめつけられていよいよかたちが戻らなくなり始めている。川の対岸で、犬がおそらくよろこんでいるのだろう、波形に歪んだトタンの向こうで舌を出している。はあはあはあと生臭い息を吐いている。その息遣いを、舌のぬめりを、皮膚の上に感ずる。影が震える。口をぼうと開き、ふらつきながら闇を抱く。拉げながら抱きしめる。ドッペルゲンゲルに連れ去られたという人々が、ひどく羨ましくなるのは、こんな時だ。差し伸ばした手は、わが身にさわるばかり、ゆがんだ虹彩、変形した硝子面の上で、月のアバタがレントゲン写真にされる。ばち、ばち、ばち…(数秒解読不能の奇妙な声)…異物のような舌を湿し、口の中で幾度も言葉を捏ねてみよう。皮膚に、目玉に、耳に、次第に触覚を占有して来るあの、中天に引っ掛かった、柔らかなメダイヨンに向けて。舌が蛇のようにのたくり、澱の如く凝った言葉が、毒のように腹を突いて叫びかけよう。爆ぜろ。爆ぜろ。爆ぜてしまえ。そして途に、影に、犬に、川に、汚水となって等しく降り注げ。美しく腐り切った花の匂いを、球状の玻璃の中に外にばら撒け。そうして私は心中をしよう、身投げをしよう、お前の体液にまみれた痩せぎすの影を、この夜の一部に還してやろう。犬が鳴いている。嬉しそうに、苦しそうに鳴いている。時間が膨張する。よろめけば脳が膨れ上がる。白痴の賢人が肥満する。喉の奥から死んだ何かが生れ出ようとする。万歳。万歳。何千、何万、何億、何兆秒もかけて。けれど、ほんとうは知っていた。硝子玉の表面に月が砕け散る。糸が切れた。あぶくのような声一つ残して…(ノイズ入り、ブツブツと音が切れた後、急に言葉がはっきりして、ニュース映像を読み上げているような単調になる)…さて、作業を進めていく中で不可解な事象も起こりました。つまり知らない方々からの原稿が幾つか混入していたということでありますが、そういう想定外の自体諸々も包括しながら転がって行く、変形していくのが我々の団体の特色だと解釈しておりますので、それら正体不明の原稿も含めて編集し目次を作成し此度の発表とさせていただきました。正体不明の執筆者の方々、直接お会いしてお礼を申し上げる事が出来ないのは非常に残念ではございますが、ひとまずこの場をお借りして、文字の上で謝辞を表させて頂きたいと思います。本当にありがとうございました。さて、この後はいよいよ舞台挨拶ということで、…(音声途絶)(再開)…ああ、そこにいたのか。よかった。散歩の途中であんなことになったから、もう帰ってこないのかと思った。おや。(数文字不明)…へ入っちゃいけないったら。

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劇団おつべるの遺作 安良巻祐介 @aramaki88

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