親父

池田蕉陽

第1話 親父


 父の智弘ともひろと会うのは十年ぶりだった。彼の息子である智哉ともやが最後に父を見たのは中学生の時だ。智哉はそれ以来、テレビに映る父しか目にしていない。


 透明のアクリル板越しにいる父はあの頃より大分老けて見えた。目立つ無精髭、深く刻み込まれたほうれい線、こけている頬、疲労に満ちた目、白髪混じりの髪。それらは歳を重ねることによるものだけではないと智哉は知っている。


「親父」


 十年ぶりの智哉はそれを口にした。今まで他人に父のことを話す時は『あの人』と呼んでいたからだ。


「親父」


 智哉はさっきより語気を強めて呼んだ。すると、アクリル板の向こうに座る父がおもむろに顔を上げた。こうやって目を合わせるのも十年ぶりだった。


「智哉か」


 懐かしい響きだった。だが、それはひどく掠れていた。あの時はもっと若々しい声だったはずだ。老いはそこにまで表れてしまったようだ。


「久しぶりだな。元気……ではないよな」


「ああ……そうだな」


「せめて最後くらいは会おうと思ってさ」


「そうか」


 この面会が終わると、父は死ぬ。死刑が執行されるのだ。それで智哉は会いに来たのだ。それまでは決して会いに行こうとも考えなかったが、せめて最後くらいは話をしなければなと思ったのだ。それに智哉は紹介したい人もいた。


「親父。この人、俺の妻の桃子」


 智哉は隣に座る桃子に手を指した。父がそちらに目を移す。桃子は挨拶と自己紹介をして座ったまま頭を下げた。


「それで、この子が娘の優里ゆり。女の子だ」


 次に智哉は桃子が抱いている赤ん坊を手で示した。父はそこに目を落とす。すると、父の今まで変わらなかった表情が柔らかいものになった。僅かに口元も綻ばせていた。


「いつの間にか、こんなにも過ぎていたんだな」


 父が優里を見ながら言った。優里は気持ちよさそうに眠っている。


「そうだな」


 智哉は答えた。智哉にとっては長い十年だったが、父からしてみればそうではないのだろう。


 それから少し重苦しい沈黙が訪れた。いざこうやって面と向かって話すとなると、何を話せばいいのか分からなくなる。


「智哉には迷惑をかけたな」


 お互い口を開かないまま五分が過ぎた時、ようやく父の方からそれを言った。それは時間を費やして探しに探した言葉ではなく、勇気を込めて放った一言だと智哉には感じられた。


 そして同時に智哉は自分の中で何かが込み上げてくるのも感じた。それは父が刑務所に入ることになってからの智哉の人生を彷彿ほうふつとさせられたからだ。怒り、悲しみ、様々な感情が入り混じっている。


「ああ、本当にだよ」


 無意識に智哉の膝元で拳が強く握られていた。隣にいる桃子が彼の細かく震えた拳に優しく手を添えてくれる。それで少し智哉は落ち着くことが出来た。


「あれから本当に大変だったよ。母さんもいないから俺一人になって、学校にも居づらくなったし、金もなかったし」


 母親は智哉が小学生の頃に事故で亡くなった。それからは父の智弘だけで養ってくれていたが、それも三年経たずで終わった。


「すまない」


 父の重たい謝罪が智哉の心に深くどっしりと沈んだ。それで智哉は何も言えなくなった。感情を押し殺すために奥歯を噛み締めることしか出来なかった。




 それからは本当に何も喋らない時間が続いた。ただ、どんよりとした空気が部屋をまとっている状態だった。そのせいかは知らないが、途中で優里が泣き起きてしまった。赤ん坊の泣き声だけが部屋に響いている。それを桃子が必死にあやす。


 しかし、いつもならすぐに泣き止むはずの優里だが、今だけは中々そうなってくれなかった。この淀んだ空気に対して何かしらのことを訴えているのではと智哉は思った。


 それでも数分してから優里はまた眠りについた。また静寂が訪れる。終いには『面会時間残り三分です』という放送が流れた。


 智哉はそれを機に決心した。


「親父」


 語尾が僅かに震えてしまった。


 父が顔を上げ智哉と目が合う。智哉は唾を飲み込んだ後に口を開いた。


「どうしてあんなことしたんだよ」


 それを父に訊くのは今日で二度目だった。一回目は最初の面会の時だった。まだ智哉が中学生の頃だ。それ以来は父と顔を合わせたくなかったので面会には訪れなかったが。


「憎たらしかったからだ」


 それを聞いて智哉は怒りを抑えるを必死に堪えた。十年前と同じ答えだったからだ。


「そんなはずないだろ。親父があんな真似する訳がない。絶対何か理由があったはずだ」


「理由はさっき言った」


 智哉は舌打ちをした。もう三分もすれば面会終了となり、二度と父と顔を合わせられなくなる。それでか焦りがあった。


「違う。もっと他に明確な動機があるだろ。じゃないと一家惨殺なんて出来ない」


 一家惨殺、それが十年前にテレビで報道された事件だった。誰もがむごいことをするもんだと他人事のように呟いていた。智哉も例外ではなかった。


 だが、その犯人が父と知らされた時は深い闇の中に放りこまれた感覚に陥った。しばらく放心状態になったのを今でも智哉は覚えている。


 そして、何故父がそんなことをしたのかと疑問を抱き続けてきた。殺された一家はごく普通の一般家庭、子供二人がいる四人家族だ。智哉の知らない人達だった。ということは父の知り合いだろうかと考えた。


 だが、最初の面会で父は知らない人と述べた。動機もさっきと一緒のものだ。幸せな家庭を見て憎く感じた。それがどうしても智哉は腑に落ちなかったのだ。


 智哉は母が死んでからの父の有様が嫌いだった。最初のうちは仕事に専念してくれていたが、途中からはそれを投げ出し、一日中家に居続けるようになった。そんな父を中学生だった智哉は嫌いだった。


 そんな父だが、彼が一時いっときの感情だけで人を殺すなんて智哉にはとても考えられなかった。絶対に何かあるはずだと。そしてそれを聞けるのはもう今しかないのだ。


「頼むよ親父。もう最後なんだ。事実を教えてくれ」


 父が虚ろな眼差しを下に向けている。表情何一つ変わらない。結局何も教えてくれないのか、そう智哉が思った時、父が唇を動かした。


「俺は……」


 父はそう言って長い間を作った。まだ迷いが残っているのだろう。智哉が先を促そうとするが、父の瞳が一瞬揺らいだのを見て、その衝動を抑えた。


「俺は智哉の本当の父さんじゃない」


「……えっ?」


 愕然としているのは智哉だけではない。隣にいる桃子も同じだった。だが、それ以上に智哉はその事実を俄に信じることは出来なかった。


 頭の整理がつかないまま父は先を続ける。


「母さんも違う。智哉と血は繋がっていない」


「嘘だろ?」


 ようやく口から出た言葉がそれだった。


「本当だ。俺も母さんも智哉と血は繋がっていない」


「じゃ、じゃあ俺の本当の母さんと父さんは?」


 智哉は食い入るように訊いた。すると、父は目線を彷徨わせた。それを見て智哉はまさかと思った。


「俺が殺した」


 そんな、と智哉は小さく呟いた。もっと大きな声を出したつもりが、思いのほか小さくなってしまった。


 そして、智哉のまさかという思いは的中してしまった。智弘に殺された一家、あの一家に智哉の肉親がいたのだ。


「いや、違うな……。智哉の本当の母さんはまだ生きている。智哉はあの家の父親とその不倫相手との間で産まれた子なんだ」


「それを親父と母さんが引き取ってくれたのか?」


「ああ。母さんは不妊症だったからな。でも子供は欲しかった。母さんはその不倫相手と親しい関係だったから、それで代わりに智哉を育てると言い出した。不倫相手の人も一人で育てるのは大変と分かってたから承諾してくれた」


 智哉は何も知らなかった。そんな事実が隠されていたなんて思いもしなかった。ずっとあの母と父が肉親だと思っていた。そもそも両親との間で血が繋がっていないかもしれないなんて普通疑いもしない。


「あの亭主は最低だよ。不倫相手には一緒に育てようと言ってたんだ。だから中絶をさせなかった。でも、途中で都合が悪くなったからといってその女を捨てた」


 確かにそれを聞けば、誰だってその男のことをくずだと認識するだろう。だがそれは父がその一家を惨殺した理由とは直接繋がらない。


「じゃあ何故?」


 智哉は訊いた。無論、殺人の動機だ。亭主だけでなく、何故家族全員殺したのか。


「俺と母さんは智哉に血が繋がっていないなんて教えたくなかった。それを意識されたくないからだ。だから母さんと秘密にしようと決めていた。でも、それを話すとなったら必然的に母さんとの秘密を破らなければならない。俺はそれが嫌だった。それで今まで嘘をついていた」


 しかし、父は話してくれた。今まで母との約束を守り続けていたのに死ぬ直前になって彼は話した。それが何故だか智哉は何となく分かった。


「それで、どうしてなんだ?」


 いよいよ真相が明らかになる。これで智哉の胸の中に残り続けてきたもやが消え去る。彼はそう思った。父から放たれる言葉を待った。


「母さんはそいつに殺された」


「えっ?」


「母さんは事故で亡くなったんじゃない。あいつに殺されたんだ。母さんは親友のことを考えてあいつの家族に不倫関係があったことを晒そうとした。でも、それをしようとしていることをあいつは知ってしまった。その結果、母さんはあいつに殺された。それをあいつは金の力で母さんの死因を隠蔽したんだ。俺も抵抗できなかった。口外したら智哉を殺すと脅されたからだ。信じられないよな。実の息子を脅しに使うなんて。でも本当なんだ。あいつはそういう人間なんだ。もうそんなの殺すしかないじゃないか。それで俺はあいつが築きあげてきたものを全て壊した。智哉には迷惑をかけると分かっていたが、俺はそうするしか無かったんだ。すまない。本当にすまない」


 父は泣いていた。智哉は彼の涙を初めて目にした。


 面会終了のお知らせが流れた。看守が部屋に入ってきて父に出るよう促す。彼は席を立ち後ろを振り返る。そのまま奥の扉に向かって歩いていく。


 智哉はその背中に声をかけようとした。


 だが、言葉が見つからなかった。

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親父 池田蕉陽 @haruya5370

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