あはれべんてん

小早敷 彰良

あはれべんてん

目の前には、産気づいた女性がいた。

もちろん、私は産婦人科医でも看護師でもない。

ただちょっと、アルバイトで護衛、シークレットサービス、をしている大学生だ。

ランチは美味しいおにぎりだった。

大丈夫、私の日常はこの瞬間と地続きだ。

「うああっ!」

護衛対象の女性が、陣痛の痛みに叫ぶ。

「しっかり、奥様、息んで」

傍に控える老齢の女性が、厳しく声をかけている。

2人の顔は、私たちと同じ様に、煤で汚れていた。

いや、何で、こんな状況なんだ。

頭を抱える暇もなく、背後の空気がボワっと、一瞬だけ暖かくなる。

可能な限り早く、女性に覆い被さって、爆風をやり過ごす。

「そろそろ行ったかな」

確認するために、滑らせた体勢が、悪かった。

四つん這いになった体勢が崩れて、自分の右肘が、膨らんだお腹の中心部へ迫る。

「あ」

この窮地に陥るまで、2秒ほどだった。

ぐっ、と、背中の服をしっかりと掴まれる。

くるりと視界が反転した。

「いたい」

背中を打ち付けて初めて、自分が妊婦の隣に放り投げられたと知った。

「彼女の腹部に体重をかけるな」

友人が皮肉たっぷりに言う。

「あぁ、意図があるなら別だが」

「あんな一瞬で、意志が混じる隙があると思う?」

「それが出来る人間が、英雄とか、天才とか言われるんだよな」

この友人はいつも皮肉ばかりだ。

「そう、一市民だからね」倒れたまま、私は言う。

「うん、そのぽんこつ具合こそ、お前だ」

そう言う彼の顔は妊婦に向けられたまま、身体全体で、部屋にある唯一の扉を抑え直した。

数秒かけて、私は起き上がった。

「遅いぞぽんこつ。もっと寝てろよ」

この、冷たい態度が癖になる、とはあまり他の友人には共感されないことだった。



数時間前、私は、アルバイト先で指示された通りの時刻ぴったりに、友人と共に女性の前で挨拶していた。

「本日のシークレットサービスを担当致します、丹野でございます」

こちらは三絃と申します、と、私は隣に立つ友人を紹介する。

今日のアルバイトは時給が高額な案件だから、とついてきたのだ。

深い艶を見せる調度品の数々は、まるで社長室のように整えられている。

部屋の中心がお腹の大きな年若い美人であることが、違和感を感じさせる。

美人は反応を返さなかった。

私たちの会釈に声を寄越したのは、隣に侍る老婆だった。

「ようこそいらっしゃいました」

私は、気にしないでください、と人好きのする笑顔をしてみせる。

「セラピーもお申込み頂けたとか」

当然かのように、お嬢様と呼ばれた妊婦から、反応はない。

老婆が私たちを部屋の隅引っ張っていき、ひそひそと話した。

「お嬢様はご懐妊されてから、心の調子がよろしくなく。身辺警備の者は別におりますので、時間をおかけください」

なるほどね、と私は快諾する。

私は、椅子の肘掛に置かれた綺麗な手を取り、話す。

彼女が反応を返したのは、數十分経った頃だった。

「罪悪感が下ろせれば、何ですか?」

ぎょろん、と彼女は私を見ていた。

「堕ろすなんてしない。この子は私が産んで育てる。父親があの人だって、関係ない」

言い繕う必要はなかった。

「そうはいかないんだ」

低い男の声がした。

黒いコートで恰幅の良さが強調された様な大男だった。

「胎児は、完全に生まれなければ、権利を主張出来ない」

「民法ですね」

反射的に答えた私を、庇うように前に出た友人が顔をしかめる。

この状況で、と呆れているのだろうが、性分だ。

不条理に言葉をかけずにはいられない。

私は乱入者に言う。

「それが如何しました? 貴方は誰です。彼女のお腹の子の父親、と言うわけじゃなさそうですね」

「ああそうさ。その子の父親は、ーー、と言うのだから」

聞き覚えのない名前に、友人に通訳を頼む。

この友人は、やたらとこういう裏事情に詳しかった。

ため息ひとつで教えてくれるのだから、ありがたく、安い男だ。

「つまり、そこのお腹にいる子の父親は、この街の暗黒を一手に担ったマフィアのボス。そしてその胎児は莫大な財産を相続する予定、だ」

悲痛な声を老婆が上げる。

「何故話してくれなかったのですか」

妊婦が顔を覆う。

「ごめんなさい、堕ろせと言われるのが怖かったの」

大男が、それを聞いて、コートの内側に手を入れる。

私は咄嗟に死を覚悟した。ただの大学生が、こんな物騒な状況に対処する術なんてないのだから。

予想に反して、彼が取り出したのは一通の茶封筒だった。

「そして、俺は後継者候補の部下というわけだが、この話には問題じゃない」

彼は、恭しい手つきで1枚の紙を開いた。

「この家は俺が買ったのさ。そして、我が物顔で居座る人間たちに、非常に恐怖している」

売買契約書を手に、彼は宣う。

「わかりやすく言うと、貴女がたは今、不法侵入している。このままでは、恐怖のあまり、力尽くで排除してしまいそうだ」

一番早く反応したのは老婆だった。

「そんな、この寒さ、出て行けと? お嬢様はいつ産気づいてもおかしくない。お腹の子に障ります」

にっと大男は笑った。

私は理解した。

それが狙いか。

なるほど、事情はわからないが、彼らは法を犯さずに、目的を達成したいらしい。

ならば可能性はある。

私は口を開いた。

「居住者に、権利がないからと言って、急に追い出すなんて出来ないはずですよ」

意気込んだ私とは対照的に、依頼人たちは静かだった。

老婆は言う。

「ここは、普段私たちが住んでいる家じゃないのです」

「へ」間抜けな声が口から漏れる。

「そうさ、ここはボスが持っていた別宅の一つだ。この女たちの居住実績はない」

大男に私は食い下がる。

「胎児を殺そうとするなんて、法律違反だ」

「刑法上は、な。いや、憶測だ。それに大事なのは民法だ」

彼は両腕を広げた。

「俺は、この家が権利関係も綺麗な状況で、完全に欲しい」

それに、と付け加える。

「ボスはまだ見ぬ子供に対して、遺産を残す旨、書類に残した。なれど、どうしても、この屋敷を渡す訳にはいかない。」

「だから、相続人がいない状況を作るしかないわけだ」

友人の声に、大男は、肩幅に足を広げて答えた。

「知っているか? 産まれていない人間は物と扱われるんだとさ」

この国の法学部ならば、大体誰でもよく知っている。

大男は胸を張って言った。

「器物破損罪と過剰防衛くらいなら、罪を被っても問題はない。たかが書類送検と罰金だ」

完全に出生していないと、民法上の権利は持てない。

この屋敷の相続も、勝手に売られたことに異議を申し立てることも、それを代わりに行うことも、生まれていないと出来ないのだ。

私と友人は、声を揃えて言ってしまう。

「不愉快だ」

「不愉快なのが社会てもんさ」

構える男に、投げつける物を探す私、自然体に立つ友人。


何か、逆転の手はないか。

このまま無機物として扱われて終わって良いのか。

なぁ、負けるなよ、名前もつけてもらえていない君。


対峙する三人の間を悲鳴が通り抜ける。

女は声の限り、叫んでいた。

老婆も金切り声を上げる。

「お嬢様、その水は!」

全員が、彼女に目を向けた。

破水が、始まっていた。


私は勝ち誇った笑みを浮かべ、名前もない最年少の戦友を讃えるべく、声を上げた。


「刑法的には、部分的にも生まれていれば、人として扱われるよな」


「そうだね」

すかさず友人は答えた。

完全に生まれたと認識されてからでないと、人間として適用されない民法とは異なり、刑法は母体の中から腕の一部でも出ていれば、それは人なのだ。

「殺せば、刑務所にぶち込めないにせよ、裁判所で声高に悪事を叫ぶことは出来るわけだ」

「うん。まさかそんな恐ろしいことを考える人なんているかな? 当たり前だけれど、目の前で人を死なせる訳にはいかないね」

呆然とする大男に、私たちは向き直る。

「私たちは安全な、分娩室を作らなきゃならない。そこを退いてくれ」



何とか押し出した大男が、部屋の外で暴れている。

出産が終わるまで、という緊張が、場を支配していた。

大男が火薬でも使っているのか、ドアは定期的に震え、壁は弾けて、庇う人々を傷つける。

それでもまだ開かないのは、流石マフィアの別宅といったところだった。

「ああ、生まれれば問題ない」

完全出生という考え方がある。

民法が、人間が委任権を含め、権利を使えるようになると定めたのは、胎児が完全に母体から離れた瞬間だ。

「暴力行為も止められるし、屋敷の売買交渉も。彼らにとっては出費だが、ここまでの行動を見るに、殺人罪は彼らには困るのだろう。きっと受け入れられるはずだ」

私がぶつぶつと話して、頭の中を整理している横で、友人は、女性に端的に言った。

「その子は産まれなければならない。それもすぐさま。」

友人は言い切ってから、女性に問いかけた。

「あと何分で産まれるんだ?」

女性は、蒼ざめきっていた。

浅い息に大きなお腹が上下する。

その中にいる、彼か彼女に会えるのはいつになるのか。

そんなの、誰にもわからない。

そうだ。

私は、震える脚を出来るだけ隠しながら、女性に言ってしまった。

「私は待ちますよ。ゆっくり産んでください。誕生ってのは、神聖で喜ばしいものじゃないといけない、と私は思うので」

言ってしまってから、少ない知識が脳裏によぎる。

出産にかかる時間は、10時間くらいが平均だっけ?

はじめてのお産は、もっと時間がかかるのだっけか。

「勝手に決めて、ごめん」

だから巻き込んだ友人に謝るには、少し時間がかかった。

友人はひび割れた眼鏡を、かけ直したところだった。

「30秒」

「何?」

「お前が黙っていた時間だ。そんなに困るなら言わなきゃいいのに。いつも墓穴を掘っては困っているな」

「申し開きもございません」

「そういうとこ、他の友達には評判悪いぜ」

苦情を言う様な口ぶりだが、まるで慈しむ様な顔をするのをやめてほしい。

「あの大男が来てから、何分経ったか、わかるか?」

「さあ、何分?」

「3分だよ、3分」

こんなに長い3分は、センター試験の最後の3分くらいだ。

私と友人は笑い合った。


誰も見向きもせず、妊婦は深呼吸していた。


次の瞬間、叫び声が部屋中に響く。

叫びに、泣き声が混じっているのに気がついたのは、友人の方が早かった。

「そんなの、ありかよ」

元気な男の子だった。

泣き声が部屋中に響く。

部屋の外の爆音は止んでいた。

きっと大男はもういないはずだ。

生まれてしまった赤子に対する次の手を、組織と相談するのだろう。

勝利を悟った母親が、大きな口を開けて笑った。

「この子の為なら、何でもするわ。ええ、何でもね」


完全に出生した彼は、これからどんな人生を歩むのか。

それは始まったばかりの人生の入口では、わからないことだった。

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