人生時計

ぽんぽん

人生時計

 “朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足”


 このスフィンクスの謎掛けは、オイディプースによると人間の一生を一日になぞらえたものらしい。

 現代、日本人男性の平均寿命はおおよそ80年。これを人生時計、つまり24時間に置き換えると1年は18分。

 おれの余命にいたっては、たったの3分間になる。


 医者からの余命宣告を受けた帰り道、おれは公園の時計を見ながらそんな馬鹿なことを考えていた。

 本来なら残された人生の長さを説くための考え方だったはずだが、おれのような不運な末期がん患者にとっては、人生の儚さを感じさせる文句以外の何物でもなかった。


「余命2ヶ月と言っても、これはあくまで一般論といいますか、平均値みたいなものでありまして、そうですね……一度ご家族と一緒に、専門のカウンセリングを受けてみてはいかがでしょうか?」


 心配そうにおれの顔を覗き込む、若い医者の言葉が、妙に耳にこびりついてた。

 カウンセリングだと? 馬鹿言うな、残り3分間のうち一体どのくらいを、くだらない禅問答以下のインチキ相談会に費やしたら、人生を華々しく終われるというのか。


「くそ! 本当に、クソ以下だ!」


 おれは公園のブランコに座って、タバコをふかしながら、誰にでもなく毒づいていた。


 去年、口うるさい妻に散々言われて始めた禁煙。それも今日で終わりだ。もう健康に気を使う心配もないし、未来を憂う必要もない。


 餌をついばむ鳩を追っ払い、騒がしいガキどもを怒鳴りつけ、5時のサイレンが鳴り終わる頃には、頭がくらくらするくらい、吸殻で地面を埋め尽くしてやった。

 他人に自分に、そして人生に投げやりになって、もう後戻りなんて出来ないくらい退廃的に過ごしてやろうと言い聞かせればするほど、何故か妻の姿が瞼の裏に浮かんでは、得体の知れない罪悪感と共に、胸の奥に引っかかっていくのが腹立たしかった。


 おれは優しい思い出に取り憑かれて、弱い男になっちまわないように、ブランコを必死で漕いだ。光の速度まで近づけば、時間の流れも遅くなると誰かが言っていた。このままもっと速く、もっと速く光の速度でブランコを漕ぎ続ければ、妻が望んだ強い男のままで居られて、おまけに寿命も延びる。一石二鳥だ。


 ベンチ横の街灯が点いて、時計が午後7時を示しても、おれはまだブランコに座っていた。ただ、漕ぐのはもう止めにした。さすがに光になるのは死んでからで十分だと思ったからだ。


 もうちょっとしたら家に帰るか。ふてくされるのもさすがに飽きてきたし。

 どっか駅前のコンビニで、あいつの好きなサンドイッチとケーキを買ってやろう、明日は仕事を休んで、妻とどこかへ出かけてもいい。保険のことも調べておかないと。それと、服についたタバコの臭いの言い訳も……。


 まあ、今思えば悪いことばかりじゃあなかったな。少なくとも、子供が出来なくて良かった。あんなに欲しがってた妻に、こんなこと言っちゃ怒るだろうが、それでも彼女ひとりなら、まだ十分次の相手を見つけられる。

 妻が自分以外の男と暮らす姿を想像すると、嫉妬にも似た複雑な感情が胸の奥で芽生えそうになったが、生涯孤独のままおれの遺骨を抱えて、寂しそうに生きる姿を想像するよりは、多少マシだった。多少な。


 おれは最後のタバコに火をつけた。

 これを吸い終わったら帰ろう、一本吸い終わるのに約3分。それまでに、妻の前で笑えるように気持ちを整理するんだ。


 おれは大きく息を吸って、吐くと同時に空を仰いだ。夜空を取り囲むように高く並んだマンションの、ぼやけた白い塗装のせいで、煙の行き先はすぐに見失ってしまった。

 ただ、3階のベランダから、おれをじっと見つめる人影には気づけた。相手もそれに気づいたようだ。

 さて、どうしたもんか。


 結局一本吸い終わる前に、人影はおれの元までやってきてしまった。だけど、おれもどこかで、こうやって迎えに来てくれるのを、望んでいたのかもしれない。


「何しとるん?」


 妻は息を切らしながら言った。


「別に」


「ここでタバコ吸ったらいかんのよ」


「知るか、そんなこと」


「何怒っとるん? っていうかタバコやめたって言いよったやん」


「これ吸い終わったらやめる」


「まじでどうしたん? またパチンコ負けたと?」


 そう言って茶化しながら、地面に落ちた吸殻を拾い集める妻の姿を見て、おれはまた胸が苦しくなった。


「負けてない」


「じゃあ、今日どっか食べにでもいく?」


「いかない」


「そっか」


 少し間が空いて、いつもみたいに沈黙を楽しんだあと、妻は唐突に、鼻歌を歌いながらブランコを漕ぎ出した。

 学生時代からいつも彼女はこうだった。無邪気に笑い、そのくせ怒鳴ったらすぐ泣き、そして夜はおばけに怯える。

 優柔不断で、堪え性がなく、パートも長続きしない。

 だから昔からデートの行き先はいつもおれが決めて、このマンションの購入も、もちろんおれが勝手に決めた。それに対して、妻はひとつも文句は言わなかった。


 こんな女が、これからひとりでどうやって生きていくっていうのか、ブランコが軋んで浮かぶたび、小さく悲鳴を上げる姿を見て、おれはとたんに不安になった。一緒に田舎から東京に出て10年。いつまでも妻が標準語を喋れないってこともその一因だ。


「おまえさ、もしおれと別れたら、どうやって生きてく?」


 妻は「知らーん」と言いながら、いっそう大きくブランコを軋ませた。


「真面目に聞け!」


 思わず怒鳴ってしまった。

 妻は唇をすぼめながら、ゆっくりブランコを止める。


「どうするか、ちゃんと考えろよ。ここらへんで、どこか簡単な仕事見つけるとかさ」


 おれの言葉に、妻はこくりと小さく頷いた。


「誰か頼れそうな人を探したり、ご近所づきあいとか、今からでも始めてさ、ちゃんと、ちゃんとしないと、お前、ひとりじゃ、どうすんだよこれから、なあ」


 気が付けば声が震えていた。いや、泣いていた? 泣いていたのか、おれは。


「心配せんでも、大丈夫よ」


 妻はブランコをひょいと降り、おれの後ろから頭の匂いを嗅いだ。


「ひえー今日も臭かね」


 おれは中々泣きやめずにいた。おれが俯いて嗚咽を漏らす間。妻はずっとそうやっておれを出しに笑っていた。認めたくなかったが、おれはずっと分かっていたんだ。本当に弱いのは、きっとおれの方なんだ。

 おれが弱いから、妻にはもっと弱い女であってもらおうと、今までずっと強いてきたんだ。実を言うと、妻の前で泣くのはこれが始めてのことじゃあなかった。


 ひとしきり泣いたあと、おれは思いっきり手鼻をかんで、嫌がる妻のスカートで拭きながら言った。


「なあ、朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、これ何か、分かるか?」

 

 人生時計で例えるなら、おれに残された時間はたったの3分。

 だが、秒針はまだ動き始めたばかりだ。

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