第三十三話 一秋は矢の如く。

「ただいま戻りました、先生」

刑部ぎょうぶか」

 与えられた部屋で休んでいた一刀斎の元に、刑部がやってくる。

 ときはもうとりこく。夏も終わりかけていて、日が沈むのも早くなり、西の空はまさしく鶏のとさかのように赤くなっていた。

 集まりとやらはだいぶ長く掛かったらしい。いつもの穏やかな表情にも、いくらかの疲れが見える。

「今日は稽古が出来ず、申し訳ありません」

「いや、いい。御身も務めのある身だ。こういう日もあるだろう」

 そしてなんとなくだが。

 がこれからは増えていきそうな気配を感じた。

 頭を下げつつ目頭を抑える刑部の姿を見るに、溜まっているのは今日の疲れだけではない。「この先に来る」だろう物事に思いを巡らし、余計心労が掛かっているらしかった。

 なんともはや、柳生やぎゅう新左衛門しんざえもん雲林院うじい松軒しょうけんといった領地持ち、城持ちの武芸者も何人か見てきたが、やはり将というのは相当な苦労をする生き方らしかった。

「そういえば今日は会合があったそうだが、その場に羽柴……御身らの主はいたのか?」

「いえ、殿下はいらっしゃいませんでした。あの方が信頼を寄せる方が出席されておりましたので。あの方も忙しい身ですから、全ての会合に参加できるというわけではないのです」

「そんな相手がおれに時間を割くのか……」

 嬉しさはない。「そうまでして会うおれか」という呆れと、「そうまでして会うおれか?」という疑いだけがある。

 昨日に石田いしだ治部じぶが頭を抱えた理由が、少しばかり分かった気がした。

「しかしはなはせわしないようだが、そんなときにおれのような得体の知れないものが城に行ってもよいものなのか?」

「他ならぬ殿下……と、全宗様が望んでいることですから。まあ、他の将が知ったらどう思うかは分かりませんが。先日の佐吉さきちほど眼を光らせる者はないでしょう」

 たしかにあの石田治部は相当なものだった。本人としては、羽柴はしば藤吉郎とうきちろうへの取次役として当然の仕事をしたまでだろうが、まだ若いというのにあの肝の据わりようは相当である。

 加えて当人に武の嗜みも才もないと語りながら、仮にも剣豪と騒がれる男が目の前にいるのに臆面を出さぬ振る舞い。まつりごとのみに全ての意欲を傾けている様子だが、備えた度胸は凄まじい。

「他の将ならば、あれほどは警戒しないと思いますよ。子飼いの将であろうと元服前後で首級に一番槍に一番首、多くの武功をあげた豪傑揃いですから。先生が狼藉を働こうと己が止めるまで、とまで考えるでしょうし」

「それは頼もしいことだろうな」

 まだ未熟であった頃、一刀斎はある若武者と老将それぞれと戦ったことがあるが、どちらも優れた手練であった。

 そのような傑物がいるのなら、刃を交えるのも一興か。

 一刀斎にがまるでない以上、相手が手を出す理由もないだろうし、刃を交えることもないだろうが。

「恐らく、殿下も一つ息抜きをしたいのでしょう、これから大戦おおいくさが始まりますので……」

大戦おおいくさ?」

 ふと、治部が言っていたことを思い出す。

 羽柴藤吉郎秀吉は天下人になったとは言え、いまだに九州や関東には恭順せぬ敵がおり、どちらも相当な勢力であるという。

 かくいう一刀斎も関東の覇者、北条には互いに刀槍の術を教え合った古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもんという知り合いがおり、一時期東国の中心たる小田原に逗留とうりゅうしていたこともある。

 故に、その相手がどこなのか、時勢や大局に興味がない一刀斎であっても少なからず気になった。

 そんな一刀斎の変化を悟ったのか、刑部は頭を下げて。

「失礼しました。今回僕たちが向かう先は九州になります」

「ほう、そっちか」

 機微にさとい刑部の言葉に、一刀斎はひとまず安心する。

 しかし九州。この大坂よりも西に足を踏み入れたことがない一刀斎にとっては、見知らぬ土地である。

「実のところ、我々羽柴軍……いまは豊臣軍ですが、いまも九州の雄、島津勢と闘争中なのですよ」

「そうだったのか?」

「ええ、なので殿下直属の将の一部や恭順を誓った他国の軍勢も、未だ九州に残っているのです。いまは戦況は落ち着いていて、このように腰を据えていますが、それでも戦の準備を進めています」

「なるほどな」

 恐らく今日の集まりは、その九州攻めについての軍議だったのだろう。

 一刀斎に軍務について知識はまるでないが、九州は海を跨ぐ分、多くの労があるのだろう。

 中には船を嫌う者もそれなりにいるはずだと、一刀斎は心の中で頷いた。

「なら、昨日のように御身に剣を教える機会もなかなか取れなさそうだな」

「申し訳ありません。ここまでご足労頂いたというのに。思ったよりも多くは学べないかもしれません。次の戦では、僕も九州へと赴くことになるでしょうし……」

「ふむ……」

 刑部ぎょうぶは稽古に対し真剣に臨んでおり、また筋も良く剣の体得までさほど時間が掛からないだろうとは踏んでいたが、その時間自体が少ないという。

 だがしかし、そもそも戦に赴くのだというのなら――――。

「稽古の段階を多少進めるか」

「え?」

 唐突な提案に、刑部は目を丸くした。

 驚くのも当然である。稽古の段階を進めると言っても、剣を教えられてまだ数日と経ってもいないのだから。

「無論明日からすぐにというわけではないがな。急いて修めようとしてもミニならぬ事はあるが……御身は筋が良い。先陣を駆けることはないだろうが、それでも身を守る術は修めておいて損はないだろう」

「身を守るぐらいの剣は、覚えて戦に挑むのが良いと?」

「ああ、試す機会としてはちょうど良かろう」

 試す機会ということは、つまり敵に囲まれたときのはなしをしているのであり、「そこで剣を振れられば良い」と言っているわけである。

 修練稽古として剣を振るうならともかく、実戦で剣を振るというのは相応に緊張感がある。

 護身になればと剣を習おうと思い招いたのだから、一刀斎の言も当然のことであるが、それでも肝がくすぐられるというものだ。

「――――分かりました。明日からますますの指導をお願い致します」

 それでも刑部は羽柴の将である。いまほどの大軍ではなかった先の賤ヶ岳の戦いでは、刑部どころか石田治部も槍や刀を手にして戦場を駆け抜けたこともあり、敵を仕留めたことさえある。

 例え政務が仕事の中心になろうとも、今更いまさら剣戟けんげきに怯えることはないのだ。

 戦場で生き残るためならば、より戦に役立つ剣を身に付けるのはむしろ喜ぶことである。

 そう思い到れば、肝は揺れることなくしっかりと据わった。

「ああ、少しでも役立つものを伝えよう」

 正直な話、一刀斎は戦に参加したことはないし戦場で剣を振るったことがない。

 数多の手練と戦ってきたとはいえ、一対一の決闘もままあった。

 無数の敵に囲まれて、乱戦になったこともそれなりにあるが、その経験が戦場で役立つかは分からない。

 だが一刀斎は刑部に剣を教える身である。

 役立つかどうか分からなかろうが、それでも己の知る限りを伝える必要がある。

 それが、剣を知りたいと願う者に対する信と礼だろう。

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