第三十三話 一秋は矢の如く。
「ただいま戻りました、先生」
「
与えられた部屋で休んでいた一刀斎の元に、刑部がやってくる。
集まりとやらはだいぶ長く掛かったらしい。いつもの穏やかな表情にも、いくらかの疲れが見える。
「今日は稽古が出来ず、申し訳ありません」
「いや、いい。御身も務めのある身だ。こういう日もあるだろう」
そしてなんとなくだが。
こういう日がこれからは増えていきそうな気配を感じた。
頭を下げつつ目頭を抑える刑部の姿を見るに、溜まっているのは今日の疲れだけではない。「この先に来る」だろう物事に思いを巡らし、余計心労が掛かっているらしかった。
なんともはや、
「そういえば今日は会合があったそうだが、その場に羽柴……御身らの主はいたのか?」
「いえ、殿下はいらっしゃいませんでした。あの方が信頼を寄せる方が出席されておりましたので。あの方も忙しい身ですから、全ての会合に参加できるというわけではないのです」
「そんな相手がおれに時間を割くのか……」
嬉しさはない。「そうまでして会うおれか」という呆れと、「そうまでして会うおれか?」という疑いだけがある。
昨日に
「しかし
「他ならぬ殿下……と、全宗様が望んでいることですから。まあ、他の将が知ったらどう思うかは分かりませんが。先日の
たしかにあの石田治部は相当なものだった。本人としては、
加えて当人に武の嗜みも才もないと語りながら、仮にも剣豪と騒がれる男が目の前にいるのに臆面を出さぬ振る舞い。
「他の将ならば、あれほどは警戒しないと思いますよ。子飼いの将であろうと元服前後で首級に一番槍に一番首、多くの武功をあげた豪傑揃いですから。先生が狼藉を働こうと己が止めるまで、とまで考えるでしょうし」
「それは頼もしいことだろうな」
まだ未熟であった頃、一刀斎はある若武者と老将それぞれと戦ったことがあるが、どちらも優れた手練であった。
そのような傑物がいるのなら、刃を交えるのも一興か。
一刀斎にその気がまるでない以上、相手が手を出す理由もないだろうし、刃を交えることもないだろうが。
「恐らく、殿下も一つ息抜きをしたいのでしょう、これから
「
ふと、治部が言っていたことを思い出す。
羽柴藤吉郎秀吉は天下人になったとは言え、いまだに九州や関東には恭順せぬ敵がおり、どちらも相当な勢力であるという。
かくいう一刀斎も関東の覇者、北条には互いに刀槍の術を教え合った
故に、その相手がどこなのか、時勢や大局に興味がない一刀斎であっても少なからず気になった。
そんな一刀斎の変化を悟ったのか、刑部は頭を下げて。
「失礼しました。今回僕たちが向かう先は九州になります」
「ほう、そっちか」
機微に
しかし九州。この大坂よりも西に足を踏み入れたことがない一刀斎にとっては、見知らぬ土地である。
「実のところ、我々羽柴軍……いまは豊臣軍ですが、いまも九州の雄、島津勢と闘争中なのですよ」
「そうだったのか?」
「ええ、なので殿下直属の将の一部や恭順を誓った他国の軍勢も、未だ九州に残っているのです。いまは戦況は落ち着いていて、このように腰を据えていますが、それでも戦の準備を進めています」
「なるほどな」
恐らく今日の集まりは、その九州攻めについての軍議だったのだろう。
一刀斎に軍務について知識はまるでないが、九州は海を跨ぐ分、多くの労があるのだろう。
中には船を嫌う者もそれなりにいるはずだと、一刀斎は心の中で頷いた。
「なら、昨日のように御身に剣を教える機会もなかなか取れなさそうだな」
「申し訳ありません。ここまでご足労頂いたというのに。思ったよりも多くは学べないかもしれません。次の戦では、僕も九州へと赴くことになるでしょうし……」
「ふむ……」
だがしかし、そもそも戦に赴くのだというのなら――――。
「稽古の段階を多少進めるか」
「え?」
唐突な提案に、刑部は目を丸くした。
驚くのも当然である。稽古の段階を進めると言っても、剣を教えられてまだ数日と経ってもいないのだから。
「無論明日からすぐにというわけではないがな。急いて修めようとしてもミニならぬ事はあるが……御身は筋が良い。先陣を駆けることはないだろうが、それでも身を守る術は修めておいて損はないだろう」
「身を守るぐらいの剣は、覚えて戦に挑むのが良いと?」
「ああ、試す機会としてはちょうど良かろう」
試す機会ということは、つまり敵に囲まれたときのはなしをしているのであり、「そこで剣を振れられば良い」と言っているわけである。
修練稽古として剣を振るうならともかく、実戦で剣を振るというのは相応に緊張感がある。
護身になればと剣を習おうと思い招いたのだから、一刀斎の言も当然のことであるが、それでも肝がくすぐられるというものだ。
「――――分かりました。明日からますますの指導をお願い致します」
それでも刑部は羽柴の将である。いまほどの大軍ではなかった先の賤ヶ岳の戦いでは、刑部どころか石田治部も槍や刀を手にして戦場を駆け抜けたこともあり、敵を仕留めたことさえある。
例え政務が仕事の中心になろうとも、
戦場で生き残るためならば、より戦に役立つ剣を身に付けるのはむしろ喜ぶことである。
そう思い到れば、肝は揺れることなくしっかりと据わった。
「ああ、少しでも役立つものを伝えよう」
正直な話、一刀斎は戦に参加したことはないし戦場で剣を振るったことがない。
数多の手練と戦ってきたとはいえ、一対一の決闘もままあった。
無数の敵に囲まれて、乱戦になったこともそれなりにあるが、その経験が戦場で役立つかは分からない。
だが一刀斎は刑部に剣を教える身である。
役立つかどうか分からなかろうが、それでも己の知る限りを伝える必要がある。
それが、剣を知りたいと願う者に対する信と礼だろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます