第三十四話 奇縁という船
「稽古の精度を上げる?」
「ああ。今日からそうしていただけるらしいんだ。戦に出るなら、護身の術を身に付けた方が良いだろうと」
「五助殿が側にいれば問題はないと思うが。たしかに、
石田邸での朝食には、一つの決まりがある。決まりと言っても、話し合いで定められたわけではない。ごく自然に、いつの間にかそうなり、そうであることが自然になっているだけなのだが、石田治部と大谷刑部は、常に同じ席で食事を摂る。
他の者は自室か調理場に乗り込んで食するのが定番であるが、この二人は、常に朝食で顔を突き合わせるのだ。
公務の場ではない故に、普段は堅苦しい治部も刑部のことを懐かしい名前で呼ぶ。
「佐吉も習ってみないかい? やはりある程度の腕はいると思うんだけれども」
「否だ慶松。
「そうかな? だけど賤ヶ岳では」
「あのときの
相も変わらず、本当にもっともらしいことを言うのが治部である。
だがそう語る治部の眉は寄っており、「もう刀槍を持つのはたくさんだ」という思いがありありと伝わってくる。
たしかに、あの賤ヶ岳の戦いは
だが、刑部は己が生き延びられたのを運だとは思っていない。
「
「お前を襲った者がお前しか見ていなかったから出来たことだ。……とかく、
「まあ、あれ以来めっきり鍛えていないからね、佐吉は。……うん、だったら、次の戦で佐吉に刃が迫ったなら、今度は僕が佐吉を助けるとするよ」
食い終えた椀を箸と共に膳に置き、刑部は真っ直ぐ佐吉を見遣る。
相変わらず、春の水のように暖かな頬笑みであるが、その眼に宿った力は平素のものより力強い。
いったいいつまで、昔のことを義理堅く思っているのか。そういうところを治部は好ましいと思っているが――――。
「……ッ」
「どうした、慶松」
ほんの僅かな瞬間に、眉に皺が寄った。
他の者ならば気にも留めぬか、そもそも気付かず見逃すか、それほどまでの一瞬のこと。幼少の頃よりその顔を見慣れていた治部だからこそ拾うことが出来た変化である。
「ああいや、少し目が霞んでね」
「一睡したというのに疲れが取れていないのか。無理はするなよ、お前は羽柴にとって重要な将の一人だ。お前にいなくなられては殿下が困る」
刑部は取り繕いつつ、目頭を抑える。
――――取り繕う。言葉通りである。霞んだのは真だが、そのとき同時に、少なからず痛みも走った。
最近目が霞み痛むことが増えてきた。近頃は鍛練に時間を当てるために仕事を早めに終わらせようと無理もしていたこともある。きっとその疲れが残っているのだろう。
せめて稽古のときには、疲れが取れていればいいが。
稽古を進めると言って、苦労するのはなにも教えを授かる刑部だけではない。
武の下地がない者に剣を教えたことのない一刀斎にとって、どう進めればいいのかサッパリ分からなかった。
己がどうだったか振り返ったとしても、剣を知らぬ間に織部から教わったのは基本の基本だけ、そこから先は自斎に多くを文字通り叩き込まれたが、太い木の棒を打ち込むわけにはいくまい。そもそもこの近場に、手軽に太い木の棒が拾える森や山はない。あればやるのかと言われればもちろんやらないが。
「なるほど、それで俺に相談を持ち込んだか」
「近所に御身がいてくれて助かったぞ、新次郎殿」
悩んでも仕方あるまいと、一刀斎は
いまは普通、職務にあたる時刻である。屋敷の主も新次郎が剣を教える
「はは、天下一の剣術の使い手に頼られるとは光栄なことだな。とはいえ俺も俺でこの脚でな。ディエゴが最初の弟子になる。術理理合が異なるとはいえ、海の向こうであちらの剣を修めていたこともあるから武に対する理解も早い。参考には出来ないだろうな」
「そうだったか……」
約束もなく屋敷を訪れるという無理を通したは良いものの、得られた結果はさほどではなかった。良いことを思い付いたと思ったがしかし、うまい話はそうそう転がっていないと言うことだろうか。
「父も父で弟子をあまり取らなかったからな。いや、あのような場所にわざわざ剣を習いに来る酔狂な者はそういないが」
「確かに、相当な山奥だったな。赴いたのはずいぶんと前のことだが」
「なにも変わっていないよ、あそこは相変わらずのどかな場所だ。……この戦ばかりの世で、そのような村は珍しいが」
「おれの故郷もそうだ。海と山に囲まれている上に狭い。お陰で全く攻め込まれんから誰も彼も呑気なものだ」
気付けば相談などどこに消えたのか、互いの
柳生の郷を預かる新左衛門もまた一人の将であったが、あの山村が戦火に見舞われることはなかったらしい。
いま思えば屋敷には堀も高い塀もなく、要塞化された様子もなければ詰めていた兵卒達すらいなかった。
新次郎の言うとおり、相当平和な場所だったのだろう。でなければあの夜のように、各勢力の将や対外僧などが集い語らうことなど出来はしまい。…………
「いま羽柴の政権下において柳生の立場はひどく危うい。隠し田がばれて
さらりととんでもないことを言った気がするが。柳生新左衛門、頭の中が武術一辺倒の生粋の武芸者だと思っていたが、統治者としても強かな一面があるらしい。
「そちらも妙な巡り合わせがあったようだな」
「そちらも、とは?」
「近頃妙縁を感じる。柳生の郷で出会った女に懐いている異国の将が、剣を手習いしているのがその柳生に連なる者など最たるものだ。昨日、全く会っていなかった顔と再会したこともある」
「ふむ…………」
一刀斎の言葉になにか思うところがあるのか、新次郎は空を見ながら顎を撫でる。
「それは、この大坂が天下の街となり多くの人が集まるからだろうが……俺が思うに、この大坂は湖であって海ではない」
「どう言う意味だ?」
どこか遠回しな新次郎の言葉に、一刀斎は首を傾げる。
すると新次郎は、指を一本立てて上を指す。
「湖は、山から流れ落ちた多くの川が集まり出来るものだ。だがしかし、湖も末ではない。大河となり、海へと繋がる」
山から流れ落ちる川のように、指先を斜め下にゆっくりと降ろしながら、そのまま真っ直ぐ伸ばしていく。その先にあるのは、堺の港である。
「大河は最終的に海に行き着き、海はまた遠くに繋がる。ここに集う者達は、いずれ「海」に行き着く」
「その海が目前と迫った前触れと?」
「かもしれん、という話だがな」
ふと脳裡に過ぎったのは、刑部が語っていた九州遠征の話である。
この大坂に人が集うのは、きっと天下人の威光である。
だが、縁が集うのはどういうことか。縁は、人の意志が利かぬところがある。
一刀斎は、「思うところがある」というただの気まぐれでこの大坂までやってきたがしかし、それも一つの「海」に行き着くため
「なんともままならんな」
船が嫌いな一刀斎にとってそれは、腹を内側から引っかかれるような
せめてその海とやらが、凪であれば良いのだが――――。
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