第二十六話 師と弟子と

「やはりこちらでしたか、先生」

「む、刑部殿。ご苦労」

 あの後、新次郎や馬司と別れ屋敷を出ると、「今日、俺は城番だ」と、左近は城の方へ向かっていった。

 なので、一人石田治部の屋敷へ戻り、庭で一人素振りをしていたが、どうやらだいぶ時間が経っていたらしい。

 新次郎や馬司から受けた熱が余程だったのか、時も忘れて続けていたようだ。

「もうそんな時間だったか」

「ええ。治部はそういうところがありまして、予定通りに仕事を終わらせることに執心するんですよ。なので一緒に仕事をすると疲れます。遅れも出せないので」

 愚痴のように聞こえるが、語る口の端は上がっており、目元も普段通り、柔らかだ。なにより声音に、恨めしがる色がない。

 治部と刑部は長い付き合いということもある。そういう四角四面で融通の利かない生真面目さには、もう慣れきっているのだろう。

「そうか。なら稽古前に一度休むか?」

「いえ、城の方でしばし休んでから来ましたので、問題ありません。動きやすいよう着替えて参ります」

「分かった。稽古するのはここでもいいのか?」

「ええ、私は大丈夫です。誰かに覗かれるようなこともないと思いますので」

「承知した」

 見られることについて、一刀斎は特段気にしないが。

 どこぞでは剣を盗み見られ、秘伝が流出したという話も聞くが、一刀斎は誰かに仕える身でもなし。好き勝手に剣を振るっているだけで流儀に対して自尊はともかく矜持きょうじというものもない。

 なんせ小遣い稼ぎに野伏のぶせりや盗賊徒党を叩きのめすこともあり、廻国の最中人目に付くところで剣を振るうことも多々。

 盗み見た誰彼が、日の本のどこかで使っていてもおかしくはない。

 もしかしたら、我流や自流を名乗り、自らの名を付けている者もいるかもしれぬ。

「……ふむ」

 不思議と、愉快な気分になる。見様見真似でやる者が、山の中で野垂れ死んでいるかもしれず、もしかすれば、盗み見た技を窮めて、また違う境地に到っている者もいるかもしれない。

 いずれは、そうして自身のものへと変えた武芸者と相見えることもあるかもしれない。

 ……天下を巡れば、相見えることもあるだろうか。

「……うーむ」

 少し前の一刀斎であれば、相対することを期待したであろうがしかし。

 この大坂に来て天下の広さが身に染みた。日の本というのは、歩いてどこまででも行ける国ではあるがしかし、きっと、一刀斎が歩んだ道よりも、歩んでない道の方が遥かに多い。なにせ、この大坂より西に赴いたことはなく、東は常陸ひたちを越したことがない。

 ……陸奥みちのくはとてつもなく広く、西国は山陰そとも山陽かげともの二つのみならず、四国しこく九州きゅうしゅうという大きな土地がある。

 それら全てを余すことなく歩くことは容易くなく、人は絶えず動いている。そんな中で再会するなど、人を寄せ集め、自然と縁が撚り合わさる大坂や京のように大きな都市ぐらいであろう。

 もし一刀斎の剣を盗み見たものがいたとして、そのような薄い縁で、そういう相手と邂逅するかも、そもそもすれ違ったとしても、その相手かも分からないだろう。

「天下一か」

 そう、いままで一刀斎は誇っていたが。しかし。

「…………くく」

 声に出して笑ったのは、いったいいつ以来か。

 天下一の剣術遣いだと誇っていたが、だがこの天下の広さ、馬司や、いつか相対した唐人のように、海の向こうにも優れた兵法や武芸者がいるのであればだ。

 この天下一という号を得た剣の腕、遥か遠く、果ての先まで、高く押し上げねばなるまい。

 ああ、全く。武の道はいくら窮めようと終わりが見えない。なんともはや――――。

「こういうことか、新左衛門」

 あの柳生の郷で、知った風な口を利き、言葉を借りて語った言葉。一刀斎が戦った中で最も強い剣士であった、新左衛門が語った言葉。

「果てしない道を進むのは、楽しい」「難しい方が、楽しい」

 その楽しさの意味が、ようやく分かった。

 本当に剣というものは、武というものは、

「面白いな」

 腹の底で、炎が揺れる。近頃は平然として、ただ真っ直ぐ立っていただけのこころの炎が、エサを食らって喜ぶかのように、舞い上がる。

 これから最初の稽古だというのにこれでは。

「加減を、しなければな」

 この熱のまま稽古を始めてしまっては、勢い余って、疲れた身の大谷刑部を追い込みかねない。

 まずは、この初日。大谷刑部がどのような者なのか、見定めるのが第一である。

 一刀斎はまだ、大谷刑部についてなにも分からないのだから。


「――――――フッ!」

 その後しばらくして、着流しに馬乗り袴という動きやすい格好をした大谷刑部が庭にやってきた。

 稽古着としてはこの上なく、先ほどまでのどこか疲れが見えた頬笑みも、スッキリして見える。

 まずは試しに、軽く素振りをしてもらっているが。

「……ほう」

 線の細い見た目と違い、戦働きもしたことがあるのだろう。武器の使い方を知っている振り方である。

 また官吏かんりとしての立ち居振る舞いを身に付けているからか、姿勢は正しく背丈以上に大きく見える。力みはあるものの、呼吸もしっかりと出来ていおり、優れた素質を持っている。

 なにより、一振り一振り、真摯に振っている。剣を学ぶことに対する意識の高さが見て取れた。

「フッ! …………如何でしょうか、先生?」

「まだ力みがある。だが、単に回数をこなそうとして惰性で振るっていない。一回一回をしっかりと振っている。それが続けば問題ない。理想は――」

 その先を言いかけて、口を開いたまま一刀斎は黙ってしまった。刑部ははて、と首を傾げて。

「理想は?」

「…………」

 一刀斎は目を瞑り、空けたままの口を閉じて鼻から息を漏らす。

 本当はを言うつもりはなかったのだが、ついうっかりと口を滑らせた。

「失敬した。は、あくまで武芸者おれたちが目指すものだ。将の嗜みとして覚える御身に語ることではなかった」

「そうでしたか」

 一度は納得したように、笑みを浮かべて頷いた刑部。しかしながら刑部はそのまま、真っ直ぐと一刀斎を見詰めている。それはまるで、純粋な子どものような眸であり。

「……失礼ながら、先生。参考までにその先をお教え戴けますか?」

「なに?」

「私は……いえ、僕は、武芸者という方と深くお付き合いしたことがありません。ですから、武芸者という方がなにを目指して武を研いているのか分かりません」

 刑部が自らを、私ではなく僕と呼ぶ。昨夜の宴で刑部は、身近なものに対して己をそう指していた。

 今までの、礼節を先におき「公」として接していた刑部とは違う。

 石田治部に対するように、「私」として一刀斎と向き合っている。

「しかし、僕はこうして先生に師事することを決めました。ならば、武芸者せんせいが目指すものを知っておくべきだと思うのです」

「――――」

 …………失念していた。

 一刀斎はこの稽古で大谷刑部の人となりを知ろうとしていたが、ならば、弟子も師を知ろうとするのも当然であろう。

 一刀斎が弟子だった頃は、剣を振るのに夢中で自斎について深く知ろうとしたこともなく、古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもんと技を教え合ったときも、武芸者同士である故に、互いの武芸を見ればそれで分かると訊ねることもなかったので、そこまで思い至らなかった。

 自分ばかり相手をはかってはいかぬのだと、一刀斎は心の中で頷いた。

 天下一の剣を高みへと押し上げること以外にも、身に付けねばならぬことはまだあるらしい。

「…………理想は、特別ああしよう、こうしようと頭で考え、意識を起こさずとも、剣を自然と振るようになることだ。思わずとも、心で剣を動かすことを心法と呼び、心法こそが剣の肝要だ。戦いの中では、考える暇などない。意識の中で叫ぶ刹那の間が、命を落とす致命の一瞬ともなりかねない。心に剣を染みつかせ、思考も意識も介せずに、最適解を振るうこと。それが武の理想だ」

 そして同時に、それが武の基本である。

 偶然通った越前の街。そこで出会った一人の翁。 自斎が心法を語るとき、合わせて挙げた老練の達人。師に曰く、心法を修め、仕合において無双の技を誇った武芸者である。

 またもや、妙な因果の中にいるような、爽快とした春の風か。あるいは清々しい秋の清流か。それらが渦巻き、一刀斎の身に纏わり付いているかのようである。

「心法、ですか。もしそれを修めることが出来たならば、きっと戦でも役立ちましょう。確かにあの場では、考える間なんてどこにもない」

「とはいえ、こればかりは感覚だ。体で覚えられるものではない。まずはいつ如何なるとき、どのような剣を振るか。そこから初めていいだろう」

 というより、一刀斎は心法について教えられることがない。なにせ、自分で勝手に身に付けていたものなのだから。

 …………今になって思うことだが。相身互いの師弟関係になったことや、年下に稽古を付けたことこそあるがしかし、自分はいささか、師に向いていないのやも知れぬと、一刀斎は己の、真の髄を睨み付けた。

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