第二十七話 二度目の対峙
城での勤めを終えた
道すがら左近とすれ違ったが、どうやら伊東一刀斎は大坂を散策していたらしく、
一日二日で他の将の屋敷に上がり込むとは、いったいどんな手を使ったのか。それともよほどな奇縁の持ち主なのか。
たしか、蒲生邸にも武芸者が一人、蒲生家の家臣に剣を教えるべく厄介になっているはずである。
武芸者というのは、人の家に寄宿するのがよほど上手いらしい。
「お帰りなさいませ、治部殿。刑部様はお帰りになっていますよ」
「知っている。奴が先に城を出た」
そして、伊東一刀斎を待たせている以上寄り道しないことは分かりきっている。先に帰っていて当然であろう。帰っていなければおかしな自体である。
仕事におても、刑部はいつになく順調であった。
普段からそつなく仕事をこなし、
しかしながら今日は、いつもよりも仕事が早い。業務を見極め切り上げやすいところで中断し、または手の空いた者に回す。
刑部は自らが動いてもよい結果を出すが、それ以上に、読み上手で多くの人間に正しい指示を飛ばすのが得意な
恐らくはその温厚篤実な人柄故に、人も動きたがるのだろうが、その采配振りは、羽柴藤吉郎は「百万の軍勢を任せたい」と称えるほどだった。
そう、大谷刑部という男は戦陣のただ中に立つよりも、陣中や拠点内で知恵と采配を振るのが向いている。
そんな刑部が剣を覚えようと言いだしたことに、治部は不思議と驚きはなかった。
元より多くのことに興味を持ち、主君のために活かせるようであれば修めてきたのが刑部だ。剣を修めることが主君の、羽柴家のためになるのだろうと判じたから剣を学ぼうというのだろう。
同時に、護身として学ぼうというのも、これから先必要となるものだ。友人として見上げた心構えである。
…………武の才も無く、興味も抱けない治部には到底出来ないことである。
「……――! ……――!!」
「……む?」
自室に向かい、広縁を脇目も振らず――治部の庭に観るものなどないのだから、当然ではあるが――歩いていると、なにやら声がする。
いったい何だと逡巡するが、その声は間違うはずもない、幼少より付き合いのある聞き馴染んだ者の声。
ならばそうかと、治部は何事も、思案したことさえもなかったかのように、鉄の表情のまま広縁を行く。
客間の角を、やたら折目正しく、直角に曲がれば、治部の目にもそれは見えた。
「フッ、ハッ!」
殺風景な庭で、木刀を縦に横に振るう刑部と、縁側に座り、その背中を見定めるかのように眺める伊東一刀斎の姿がある。
「早速始めているのですね」
「石田殿。お勤めご苦労。場所を貸してくれて助かる」
「構いません。庭は使う予定もなかったので」
使う予定もなかったので、手入れさえもしていなかったが。「暇だから」と言う理由で半介がしきりに草を抜いており、整ってはいる。
お陰か刑部の役には立っているようだ。
「御身は天下一と名乗っているようですが、その目から見て刑部はどうですか」
「筋が良いが、なにより心構えが出来ている。剣は気の持ちよう次第で修められるかどうかが変わる。剣は心で振るうものだからな」
「剣を振るのは腕では」
怖じ気づく事もなく、剣の
本人としては至極真っ当なことを言っているつもりであり、疑う余地などないからこそさらりと言えてしまう。
度胸があるわけではなく、紛う事なき真実を背骨に立っているが故の言葉である。
「剣を振る腕を動かすのが心だ」
「やはり武については分かりかねる」
治部には治部の信じる道理があり、武芸者には武芸者が培った道理がある。
その差異と隔たりについて議論するのに、労力を割くつもりはない。
一刀斎もそう考える人間であるようで、「そうか」と一言返すだけで、再び刑部へと視線を移した。
意識せずして、それに倣うように治部の目も庭を向く。
すると、己を見る目が増えたことに気付いたのか、刑部の手が止まった。
「佐吉、帰ってきたのか」
「然りだ。いまさっき戻った」
振り返った刑部の顔は、いつも通りの穏当な笑みを浮かべている。しかしどこか清々しく、相当気持ち良く剣を振るっていたのが見て取れた。
まだ稽古を初めて一日と経っていないにも関わらず、よほど性に合っているらしい。
誰かに任せる能があるのに、自分自身で何かを成そうとする。それが刑部の
敢えて名付けるものではないかと、袂に手を入れると「それ」が手に触れる。
刑部の稽古の最中ではあるが、「それ」はなににおいても優先されるものである。
「
「む?」
治部が袂から取りだしたのは、一つの文である。
ただ、袂に入れていただけだとは思わぬほどクタクタに皺が寄っていた。
しかも、中に入っていたのは一枚だけで、返答用の礼紙がない。
「急に書かれたものなので、省略されております」
「そういうことか」
礼儀に対して無頓着なのか、それともそれを礼儀と知らぬのか。あるいは無礼を気にしないほど、心の器が広いのか。
治部の探るような視線に意識を割くこともせず、「急ぎならば」と、一刀斎は文を広げ読む。
「――これはまた、大層な者から手紙が届いたな」
本題より先に目にした送り主の名。
そこにははっきりと、羽柴藤吉郎の名が書かれていた。
「それで、殿下からの文にはなんと書かれていたのですか?」
「聞こえていたのか」
しばし後、一刀斎が文を読み終えたちょうどその時、刑部の素振りも一区切り付いたらしい。
汗をかいて顔も赤くなり、息を切らしているものの、目から輝きは消えていない。
この程度ならば、難なくこなせると言うことだろう。
「ええ、治部が去り際に言った言葉が」
石田治部は一刀斎に手紙を渡して早々、「殿下からの文です。しかとお読みください」とだけ言って、そのまま自室へと戻ってしまった。
相変わらずの四角四面ぶりである。
「
「それと?」
「…………羽柴殿とは、顔を合わせたことがあってな」
今から二十年近く前のことである。尾張であった大規模な腕試しに、羽柴藤吉郎は織田尾張守の名代としてやってきたのだ。
あのとき言葉こそ交していなかったものの、一刀斎は、羽柴藤吉郎の目の前で剣を振るっていた。
「その頃についての、世間話が
あのとき出会った神宮の
剣の宮の大宮司となる者だったが故か、剣や武に対し強い興味を抱いている子だったが、曰く織田尾張守が「祖父、父のように武士として生きてはならぬ」と申しつけたらしく、素直に従ったそうだ。
喜七郎の成り行きをさらりと語った後は、織田尾張守についての言葉が長く語られていた。
直接書かれておらずとも、「彼の方が死してなお、彼の方への忠義は止むことはない」という思いが――どこかくどさまで感じるほどに――伝わってくる。
しかし、文は。
「だが、途中で終わっていてな。どうやら治部に急ぎ渡すため
後半も後半、終わりの頃は凄まじく乱れた字で書かれており、墨で文字が潰れたところもある。
恐らくあの折封は、この皺だらけの文を隠すために治部が後から付けたものなのだろう。堅物ではあるが、妙に気が回るらしかった。
ただそれでも、最後の一文はなんとか読めた。
「それで、最後にはなんと?」
「手紙に書ききれぬから、明日会って話せぬかと。そう書いてあった。…………つまり、城に来いと言いたいらしい」
一刀斎は、ふとあの夜を思い出す。
京の街、夜明け前でもっとも静かで暗い秋の夜中。五条にある寺に招かれて。
そこで一刀斎は、「武将」というものと対峙したのだ。
――これが二度目の、武将との対峙である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます