第十九話 なんでお前がここにいる

「先生」

 刑部ぎょうぶに剣を見せた後、庭で四半刻ほど素振りをしていると、一度は場を離れていた刑部が戻ってきた。

 今朝のゆるい寝間着姿ではなく、仕事着だろう正装をしている。

「あれからだいぶ経ちますが、まだ剣を?」

「習慣だからな。それにこう広いと心地良く剣を振れる。そちらはこれから勤めか?」

「ええ、私たちは登城します。帰りは未の中刻以降になるかと。朝餉あさげの準備はさせていますので、折を見て小姓か女房に言いつけて下さい」

「ああ、分かった」

 ここは石田いしだ治部じぶの屋敷だが、どうやら刑部も主と同列に見られているらしい。

「それで、早速の稽古けいこについてなのですが」

「帰ったあとに半刻ほど休息しろ。その後にしよう」

「承知しました。では、先生はそれまで自由にしていて下さい。街に出てみるのも良いかと」

「ふむ……」

 一刀斎は塀を見遣る。

 昨日少し高台から見ただけだが、城の周り、屋敷街以外はある程度整っているらしいのは見て取れた。

 海沿いに、堺まで長く広がる港町。

 これからしばらくは逗留する街である。ある程度は見知っておけば得であろう。

「では、飯を食ったら街に足を伸ばしてみるとしよう」

「はい、大坂はいい街ですので、気に入っていただけると思います。それでは私はこれで」

「ああ、あまり無理はするなよ。湯浅殿から無理をしていると聞いている」

「それは、仕事の量次第になりますね」

 相変わらず、苦笑も柔らかい男である。石田治部が相当な堅物であるから影に隠れているが、刑部もそれなりに真面目なようだ。

 臣下である湯浅五郎も心配するわけである。

「ではまた、昼過ぎに改めて」

「ああ」

 刑部は深く一礼すると、広縁をゆったりと歩いて行った。

 後ろ姿を見送って腹に手を置いてみるが、不思議と空腹は感じない。とはいえ、あと十数分ほど剣を振っていればさすがに腹も減るだろう。

「む?」

 ふっと空を見上げても、水浴びを終えた雀たちは、既に一羽も飛んでいない。これではさっきのように羽が落ちてくるのも期待できまい。

 また宙空ちゅうくう相手に斬り結ぶかと思ったとき、風が吹いた。

 肌に纏わり付くような、湿り肌を刺す潮風しおかぜである。島にいた頃から潮風は嫌いであり、正直いまも海は嫌いである。

 とはいえ昨日の海鮮と同じ。伊東の地も海に近く、潮風が吹くこともある。いちいち気にしていては夜もおちおち眠れない。

 この数十年で、潮風にも――未だ嫌いではあるが――やっと慣れた。

「――――」

 また一度、風が吹いて来る。一刀斎はすかさず、風目掛けて甕割を振った。

「…………ふむ」

 懐かしい。そういえばかつてこうして、風と斬り結んだこともあった。

 腹が減るか、風が止むか。どちらかが来るまで続けよう。どちらが先に来るかは分からないが。


「これはまた、凄まじい賑わいだな」

 天下の中心である京の都も、尾張の商都群も、関東第一の小田原の城下も、多くの賑わいを一刀斎はその身で感じ取っている。

 どこもかしこも人が溢れ、花火のように弾ける活気と、笑い声の嵐風があちらこちらから吹き付ける。

 どの街も、活力溢れる人が生き、多くの生が織り成して、街という煌びやかなあやが生まれていた。

 だがしかし、この大坂という街が描く綾は、派手に壮麗そうれいとし、絢爛けんらんきらめいている。

 満ち溢れる生気は街を覆い、今にもこぼれ落ちそうである。

 滴り落ちる余剰な活力を染料せんりょうとし、より目も綾なほどの眩さが生まれている。

 これが天下人たる者が築いた街なのか。

 人が作るものにはなんであれ、その者の理想が宿ると言う。

「なるほどな」

 この景色を見て、やはりその言葉通りだろうと確信する。かつて見た、「羽柴藤吉郎秀吉」となる前の「木下藤吉郎」。

 呆れるほどの派手好きで、空気をたゆますおどけた男。愉快でとぼけた男だった。

 あの男は、深く「人」を求めている。人に対する強い期待が、あの男にはある。

 熱田の宮に織田尾張守の名代として訪れたのも、武芸者を見繕おうとした節がある。

 大谷刑部や石田治部を初めとした、子飼いの将を数多抱えているのも人に多くを見出しているからなのだろう。

 こちらが辟易へきえきし、置いてけぼりにするほど溌剌さ。

 その精神を丸っきり写したのが、この活力漲る人が集う、大坂という街なのだ。

 それは、ともかく。

「想像以上に騒がしいな」

 騒がしいと言うより、もはややかましい。

 あちらこちらで擾乱じょうらんが起きているのか、あるいは祭りでもやっているかのような喧騒けんそうである。

 あの羽柴藤吉郎が、分身してそこらの人々の中心にそれぞれいて煽動せんどうしているかのようだ。

 四方しほう八方はっぽう十六方じゅうろっぽう、静かな場所などどこにもない。

 海の方を見遣れば波はそれなりに高く、水面にいくつもの白い波。それなりに波音も大きかろうに、この人々の声で全く消されて聞こえない。

 この賑やかさが毎日続いているのだとしたら、この大坂の街は尋常ではない。

 誰かに道を聞こうと思っても、どちらを見ようと余すことなく人は誰かと喋っている。

 店の軒先には人々が居並び、番台や奉公と笑い合いながら談義して、道行く人々も顔見知りと見れば、往来の中なのに我が家の居間が如くくつろいでいる。

 この国から出れば戦乱がまだあるというのに、ここの者達はそれに巻き込まれる憂いなど無く、安心しきっているようだ。

「ああ、なるほど」

 本当に、平和なのだこの街は。

 天下人のお膝元であり、その天下人には強力な将が揃っている。

 昨日石田治部が言っていたとおり、奥羽や関東、そして遥か西、九州には争乱の火種こそあるが、周辺諸国は平定し終えている。

 怯える必要など、大坂ここにはないのだ。

 広い城壁と支城に囲まれた小田原の人々が笑顔でいるように、山と海に囲まれて、そして特に占領する意義など無いから半ば放置されているだけの三島の人々が呑気であるように、この大きな街も、平穏なのだ。

 だからこうして、能天気とも言えるような、警戒心のまるでない心持ちでいることが出来るのだろう。

 なんとも平和惚けしているが、しかし、一刀斎はそれを疎う気は起きない。

「無事泰平ならそれに勝るものはない」

 世の中の多くは、一刀斎のように暇ではない。一刀斎のように、好きなことだけをしているだけでいい人間ばかりではない。

 しかしながら、世が無事泰平であるならば、戦に割かれる労力は減る。

 減った分、芸事に費やす時間が長くなる。芸事を役目として負っているものでいなくとも、遊興ゆうきょうとして技を身に付ける暇が増える。

 平和ボケした人々に囲まれていた一刀斎は、そこに心地良さを感じている。

 あれが世の常になったならば――まあ真面目に働く者も不可欠ではあるが――、武芸はもう一つ、先に進むやもしれない。

「一体いつになるかは分からんが」

 その頃には一刀斎はよぼよぼの爺になっているかもしれないが、もしかしたら自斎じさいやそれこそ左衛門さえもん入道にゅうどうのように、呆れるほど壮健そうけんなまま、矍鑠かくしゃくとしているかも知れない。

 それか案外、無名の若剣士に討たれてコロリと野垂れ死んでいるかも知れない。

 一刀斎が死ぬのが先か、羽柴藤吉郎秀吉の手で、日の本全土が泰平となるのが先か。

 なんとも見物であると、まるで他人事のように一刀斎は目を伏せふと笑う。

 ――と、ちょうどそのときである。

「おわっ!?」

「ぬ?」

 角から出て来た女のぶつかる。

 足腰が根付く巨木のように、微動だにせぬ一刀斎であったが、女は余程急いでいたのか駆けており、まるで一刀斎が弾き飛ばしたかのような形になる。

 人通りの激しいこの往来、足元を気にせぬ輩に歩き蹴られることもある。「これはいかん」と一刀斎は手を伸ばし、倒れる女を引き寄せた。

 掴んだ手首は、親指が人差指に掛かるほど細く、その身体は、羽毛のように軽かった。

 ……だが。

「…………むっ」

 勢い余り抱き寄せた。そのとき腹に当たる、やたら柔らかな餅の感触。

 ふわりと優しく、どこまでも潰れ、しかし瑞々しく、一刀斎の腹を押し退けようとするそれは、嫋やかさの中に強かさも秘めているようである。

 その感触に、一刀斎はひどく身に覚えがある。

 ついで、女の髪から鼻へと香るこの独特な匂い。

 これは貴女の親しむ香などではない。深く脳髄に刺さるような、嗅ぐだけで「苦々しい」と舌を巻き、同時に身体がシャキリと、健康になる匂い。

 それは即ち、の匂いであり、それを一刀斎は、知っていた。

「ふう、危ないところだった。すまない、助かっ――――――」

 その声に、一刀斎は視線を落とす。

 真下にあるのは、夜空をそのまま丸ぁるく閉じ込めたように煌めく黒い瞳であり、同じく夜空に布かれた星々が、織り込まれたかのような艶めく黒い髪であり、月のように、陶器のように、白粉を塗るまでもなく輝く白い肌であり。

 ――――――かつてあった頃と、恐ろしくなにも変わっていない。

「…………はて、私は夢でも見ているのか? なんで、お前がこんなところにいるんだ?」

「それは、おれの言葉なんだが…………こんな場所で、なにをしているんだ、月白つきしろ

 京で、あるかもわからぬ「またいつか」を約束した女と、大坂の街で相見えた。

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