第十八話 克服

 昨日、屋敷の門を潜ったときには気付かなかったが、石田いしだ治部じぶの屋敷の庭は、それなりに広い。

 いや、面積で言えばそうでもないのだが、飾りの岩や松の木などがまるでなく、玉砂利が敷き詰められているわけでもない。

 ただ、隅に手水鉢ちょうずばちがあるのみで、他は雑草さえ一切なく、地面が露わになっているだけ。文字通り何も無い、だだっ広い庭である。

 起き抜け一番に障子戸を開け、目の前に広がるこの光景。

 主の精神が、そっくりそのまま現われたかのようである。

「おはようございます、先生」

「刑部殿。おはよう」

 歩き寄ってきたのは、めでたく――かは分からないが――昨日弟子となった大谷刑部である。

 よほど寝付きが良いのだろう。朝早いというのにスッキリした顔をして、温かみのある微笑みを浮かべている。

「いい庭でしょう。なにもない庭ですけれど、佐吉の性格が良く出ている」

「佐吉……半介殿も石田殿のことをそう呼んでいたな」

「おっと……起き抜けで気が抜けていたようです。佐吉は治部の幼名です」

 そういえば、昨日五助が言っていた。羽柴藤吉郎秀吉には幼い頃から目を掛けていた子飼いの将たちがおり、刑部もその中の一人だという。

 とあれば治部も同じく子飼いの将の一人であり、幼い時分から友人なのだろう。

「無駄どころか、遊びさえ無いな」

「治部曰く「眺める庭を作ったところで自分は屋敷では紙しか見ない。屋敷に客が来ることもない。だから不要」。だそうです」

 なるほど、如何にもあの堅物が言いそうなことである。

 手水鉢も使われている様子はなく、雀が朝の水浴びに使っている。

 雀が一羽、水浴びを終えて飛び立つと、すぐさま次の雀が飛んできた。よく見れば、塀の上に雀が何羽もまっている。

 なんとも和やかな景色であるが、恐らく屋敷の主はこれを見たことがないだろう。

 これほど和むものを知らぬのは、勿体ない話である。

「だが、この広さならちょうど良い」

 用意していた草履ぞうりを履き、庭に降りる。草は疎らに、土を見せた地面は固い。地面を何度か爪先で蹴っても、足が埋まることはない。

 これならば、いくら地面を踏みしめても問題なかろう。

「出来れば、ここで稽古をしたい」

「これから朝の挨拶に行くので、治部に話しておきましょう。問題なくうけがうとは思いますが」

「助かる」

 庭の真ん中に立ち、一刀斎は甕割を抜く。

 許可を受ける前に抜いてしまったが、そこは刑部に頼むとしよう。……ちょうどいい。これもついでだ。

「――そういえば、刑部殿」

「はい?」

御身おんみにはまだ見せていなかったな、おれの剣」

 本当ならば、腕を見せてから問うべきだったが、前後が狂ってしまった。いつかもこんなことがあった気がするが、まあ長い人生である。一度あることは何度かあるだろう。

 水浴び目当てに遅れてやってきた雀が、一刀斎の上を通り過ぎる。

 よほどくたびれていたのか、羽が一片ひとひらゆっくり落ちてくる。

 親指の大きさにも満たない、小さな羽。右や左に揺らめいて、風が吹けばそのままあおられ、どこかに消えて行きそうな羽。

 それが一刀斎の元へ、ふわりと落ちてくる。

 一刀斎はそれを見上げ、刑部は不可思議そうに、そんな一刀斎を見ていた。

 そして一刀斎の目の前を、羽が通り過ぎようとしたとき、

ッ!」

「っ!?」

 一閃、甕割を振るう。

 並の太刀より分厚く、幅広いその刀身は黒い剣軌けんきをよく残してくうを走る。

 その道筋に有った羽は、その剛刀が纏う太刀風に乱れることなくスパリと

 浮く力を失った羽は、そのまま地面に落下した。

「ちょうど良いから羽を斬ったが、俺の能力はこういうことが出来る程度だ。御身はおれの名ぐらいしか知らないだろう。これは初めに、知っておいてもらわねばなるまい」

「…………天下一の剣術遣いだと聞いておりましたが、百聞は一見にしかずという言葉が身に染みています。まさか、そのようなことが人間に出来るとは」

「二十年と剣を振る以外なにもしていなければな。これが出来るように鍛練を積んできた」

 最初に見た、「斬る」というのがこういうものだった。

 宙を舞う紙をスパリと斬り裂くあの技倆ぎりょう。あれを体得するために、一刀斎は剣士としての最初の一年を過ごしたのである。

 さすがにこれを、武将である大谷刑部に求めるつもりはないがしかし、最初に見せておいた方が良いだろう。

 師がどういうものか、教えを乞う者は正しく知っておくべきだろう。

「あなたを紹介してくれたあの方には感謝ですね。あなたに教えを受けたことは末代まで自慢になります」

「そういえば……御身におれを紹介したというのはいったい誰だ? 京にいたのはずいぶんと昔のことだが」

 武の巷と化し、荒れていた京の街には腕の立つ者もそれなりにいたが、再び日の本の中心となったときには、京から離れていく武芸者の方が多かった。特に腕が立つ者はそうであった。

 鍛えた末に京に戻ったのだろうか。

「ええ、最近になって京に小さな稽古場を設けてる武芸者がいまして。若いながら相当に腕が立つ方だそうで」

「若い……」

 となるといよいよ分からない。あの頃、一番若かった武芸者は間違いなく一刀斎である。

 他に考えられるのは、旅の中で出会った武芸者だろうが……やはり、見当がない。

「その者の流派と名は?」

 聞いたとき、「そういえば」とハッとする。

 頭の中に現われた、小さい影。真摯で丁寧で、それで、少年らしい純粋さを残していた少年剣士。

 したときは、凄惨せいさんたるものだったが――――。

「はい、鞍馬くらまりゅうの、大野おおの将監しょうげんという剣客です」

「――――――――」

 脳裡に描いていたその姿と、大谷刑部が出した名が、一つになって重なった。

 織田尾張守の死を伝え聞き、戦乱を避けて辿り着いた京。

 そこで再び相見えたのは、かつて稽古の相手をしていた少年で、慣れぬ復讐をするために、合わぬ魔道へと進んでしまった一人の剣士。

 あの夜、あの襲撃で、大野将監は、かつて甲四郎と呼び親しんだ少年は、一刀斎の剣から生き延びた。

「…………そうか」

 人が死ぬのは、やるべきことが全部終わったとき。もし死ななかったというならば、やるべきことが残っているから。

 大上段から剣を振り下ろすやり方と合わせて教えられたその言葉の意味が、いまになって、ようやく身に染みた。

 一度は落ちた魔道から、僅かに残っていた良心を頼りの綱として這い上がり、名高き剣士として再生した。

 一度は深く恨んだ一刀斎を、こうして大谷刑部、ひいては天下の豊臣に縁を繋がせた。いったいなにを思い、考えてきたのか。きっと多くを思い、考えてきたのだろう。

 切欠があるとはいえ、長く縛られていた一つの観念を克服することには相当な覚悟を有する。それに多くを賭けてきたのなら、尚更だ。

 しかしそれを克服したからこそきっと、甲四郎は大野将監という剣客へとなれたのだろう。

「大野将監は、大成していたか」

「はい、京では名高い剣士です」

「ならばよかった」

 もう一度、甕割を振るう。いつもより軽く、より力が通っているように思えた。

 ――――甲四郎が大成したというならば、その周りには、あの少女はいるのだろうか。あの少女達は、いるのだろうか――――――。

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