第三十五話 自由
ただ単に、剣を振る。形通りに振って見せろと言う頭に、申し訳ないと謝りながら剣を振る。
ただ単に、剣を振る。脳漿から指令がないと、戸惑う身体を努めて無視して剣を振る。
ただ単に、剣を振る。腹の底にある熱だけが、それでいいと言っていた。
思うがままに、剣を振る。今まで教えられたことを淡々と熟してきた典膳にとって、それは慣れないことである。今の自分が正しく剣を振えているのかどうか、しかと線をなぞれているのかどうか、気に掛かってしょうがない。
まるで
そう思ってしまうほどに、振るう剣が軽く速かった。その軽さと速さに、戸惑ってしまう。
そんな感情さえ無視して、腹の底の熱だけが、それでいいと言っていた。
妙な違和感があるのなら、さっさと止めてしまえばいいのだろう。ただこの、全身が総毛立つような複雑で不気味な違和感は、どこか不思議と、心地良いと感じていた。
「本当に、妙だ」
思えば今日は、日がな一日剣を振るっているばかりであった
普段は朝起きて、日が昇るまでの暇潰しを兼ねた鍛練をして終わるのに。
飯を食べて剣を振り、気付けば日は頂点に
刀を一つ振り終えて、足音がすぐそこまで近付いていることに気付いた。
もしやと思い、そちらを振り向けば。
「やっているな、典膳」
「…………父上でしたか」
己に最初に剣を教えた、父の姿がそこにあった。
「もう、お帰りに?」
「もうもなにももう夕刻だぞ、だいぶ熱中していたようだな」
ハッとして空を見上げれば、いつの間にやら太陽は頂点から大きく傾いていた。蒼かった空は僅かに赤みを帯び始めていて、もうしばらくすれば
本当に、日がな一日振るっていたらしい。
「どうやら、すっかり伊東殿のことが気がかりのようだな」
「いえ、そういうわけでは……」
否定しつつ、最後まで言えず言い淀んでしまった。
父親を尊敬しているのは確かだ。長きに渡り主家に仕え、多くの戦場を越えてきた。まさに己の手本となる、武家の
だがしかし、現に言い淀んだ自分がいた。それがなんとも
「いや、構わん。伊東殿は立派な人間だからな」
「……そうでしょうか」
父は、長きに渡り忠義に生き、主のために槍働きを重ねてきた。武を学ぶのも単に好んでいるのと合わせ、己の役割に役立てるためであるだろう。
それに対して一刀斎は、特に誰かに仕えるでもなく、
有り体に言えば、習うところがまるでない「ろくでなし」の類である。
ろくでなしの類である、はずである。
「いいか、典膳。一刀斎殿は自ら由り生きているのだ」
「自らに由る……ですか?」
「ああ。その生き方は、極めて困難なものだ。人はな、人に寄り添い生きていく。他人の役に立てば喜ばれ、心は満たされる。その人生は充足する」
「何も悪いことがないではないですか」
「ああ、ないな」
間違いなく、人として出来ているのは父の方であるはずなのに。
なぜ父は――なぜ自分は――、一刀斎を称えるのか――無視できぬのか――。
「だがな、それは人の弱さ故だ。人はか弱く、だからこそ、他人を生きる理由にする、他に由る生き方は、弱さの証でもある」
「弱さ…………」
その言葉に、腹の底に灯った熱が、身体の中で大きく暴れた。
「とはいえいま言ったとおり、人は弱いもの。協力すれば多くのことを成し遂げられる。人も物も、数多ければ役立つからな。それが悪しなどとはとても言えん。だが、一人で生きていくというのはそうはいかん。何事であろうと己の力で成し遂げねばならない。出来ぬ事ならば人に頼ることもあるだろう。しかし出来ることならば、誰にも頼ることが出来ない。ひたすらに、強くあろうとする生き方だ」
「――――」
ああ、なるほど、そういうことか。
典膳も、一角の男であった。まだ元服したばかりの男児であった。
男とは、特に男児とは、「弱い」ことをひたすらに
同い年の
それに気付かなかったのは、己が強い側であったから。
しかし今日、本当に強い者と
この腹の底にある、身体を内から焦がす熱は、強さに対する憧れであったのだ。
いままで感じたことのない、いや、かつてはあったが、忘れていたものだったのだ。
「……伊東殿は、自分は縁に恵まれていると仰っていました。剣で結んだ縁が、数多くあると語られていました」
「伊東殿にとって、お前もきっとその一人だ。縁とは人と人との間に生まれるもの。故に伊東殿に出来たのならば、お前にも、出来ただろう」
この
得体が知れぬ不気味な
「――――ええ、はい。たしかに、出来ました」
気付いた瞬間込み上げてきたのは、己を殴りたくなるほどの悔しさである。勝手に周りに失望し、剣を見限っていた己の不甲斐なさと未熟さである。
剣をただの勤めに過ぎないと定めたのは、他ならぬ自尊の自惚れであった。
自分が武芸者になったのだと、典膳はここで、ようやく気付いた。
(……誠に、勘解由左衛門殿に文を送ってよかった。このような良縁が結ばれるとは)
空を見上げる典膳を見て、土佐守が、うんと頷く。
噂を聞いて、普段は書かず慣れない文を、たまさか旧友に送った。
その返事を返したのが、噂に聞いた剣豪であるとは思いもしなかった。
繋がった縁が、剣に道を見出せなくなった典膳の心に再び火を付けてくれたのだ。
「今日もしっかりと持てなさなければ」
「帰っていたのだな」
「伊東殿」
微笑む土佐守のところに現われたのは、その一刀斎である。先は父親の姿にどこか落胆としてしまっていた典膳が、その姿に真っ先に反応する。
昼に少し話した後、今まで姿を現わしていなかったが、どこかに出掛けていたらしい。
「典膳も、まだやっていたか。疲れ知らずだな」
「今日はどうも、身体を動かしていなければ落ち着かず……」
「伊東殿、今日は典膳の相手をして戴き、改めてありがとうございました」
「気にするな。おれにとっても実りのあるものだった」
今日の一日を振り返っているのか、一刀斎は目を伏せている。その口の端が、ほんの一分だけ、上がった気がした。
「そう言って戴ければとてもありがたい。もうしばらくすれば夕飯になります。そのときまた、しっかりと持てなして戴きます」
「む、そうか。ありがたく受けよう」
ありがたくと言う割りに、一刀斎の表情はあまり変わらない。
眉が真一文字に結ばれた、沈着に引き締まった顔はどうやら一番楽な素の顔らしい。表情は変わらぬのに率直な誠心が伝わるのは、一刀斎が何事も偽らず、なんであろうと直截的に言う者だからだろう。
…………だが。
「多少は弁当にしてくれ。朝一にここを
「え」
あまりにも直截的な一刀斎の言動は、聞く者に猶予も余裕も与えない。
事も無げに口から放つ言葉は、
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