第三十六話 理想
「――では伊東殿、こちらを勘解由左衛門殿に」
「あい分かった。たしかに届けよう」
明日に
「急がせたようですまない」
「いえ、どちらにせよこの晩に文を書く予定でしたから……。しかし、もう行ってしまわれるのですか?」
「ああ、おれは文を届けに来たからな。それ以外の目的もあったが」
最初は勘解由左衛門の剣友という男が気になって会いに来た。しかしそれ以上のものが、ここにはあった。
一つの煌めく
今はまだ、完全に開花していないその
新しい剣客の兆しとはこれほどまでに眩いものだったのかと、一刀斎の頬は緩む。といっても、
「伊東殿、改めて感謝を。典膳の心には、しかと火が点きました。あとはたゆまず鍛練を続けていくことを願います」
「ああ、典膳ならば大丈夫だろう」
それが何年後のことかは分からないが、そう遠くないことは確かだろう。
自分の剣の形を、典膳はまだ見付けていない。
金剛のように、雷雲のように、蒼空のように、流星のように、伏龍のように、天日のように、手練が有する武の形。絶群の武芸者が手にする、己だけの形。
典膳ならばきっと、それを見出すことが出来るだろう。
技をなぞるでなく、技を描く剣士となれる。その兆しが、いまの典膳にはあった。
「子息の剣名が、遍く轟くことを期待している」
「はい、それまで私も、見守り続けたいと思います」
二人は共に、「これが最後の会話だろう」と、深い座礼をする。
一刀斎が部屋を出れば、日はすっかり暮れている。雨上がりの昼と打って変わり、空は快晴、星の瞬きが目に見えるほど。空気も冷えて過ごしやすい。
後は部屋に戻って、明日に備えて寝るだけである。
――――だが。
「…………む?」
空気を楽しみながら縁側を歩いていると、夜風交じりに音が聞こえる。
その音は聞き馴染んだものであり、同時に、いま鳴っていることに多少の驚きがあるものだった。
音の鳴る部屋は、今朝も入った部屋である。襖に手を掛けわずかに空ければ、こちらに向けられた背が見えた。
「典膳か」
短く鋭い呼気と共に、同じく素早く剣が振られる。あれほど剣を振っていながら、未だなお止めようとしない。
どうやら思った以上に、火が熾ってしまったらしい。あれでは流石に、無理が祟るだろう。
こちらに背を向けているからか、それともよほど熱中しているのか、こちらに気付いた様子はなかった。
「典膳」
恐ろしいほど、音の鳴らない
「まだ続けるのか」
数歩近付き声を掛ける。すると脇差を二、三度振り終えて、ようやくこちらに振り向いた。
「っ、伊東殿。失礼しました、気付かずに……声を掛けられた気はしていたのですが……」
典膳は慌てながら振り向いて、深く礼をする。その時、額と毛先が白く光った。この涼しい夜の中で、光を返すほどの大玉の汗が浮かぶほど、身も心も熱せられていたらしい。
ならば、近付いたことに気付かないのも無理のないことだろう。
「しかし、明日は早いのでは。もう、お休みになった方が」
「夜を通して剣を振りそうな御身が言えたことではないな」
「いえ私は…………いつも以上に、目が冴えておりまして」
曰く典膳は普段から夜遅くまで起きて朝は誰よりも早く起きるという。そういう体質をしているらしい。
「そうか。付き合うか?」
「いえ、伊東殿、明日に備えてください。私も、そろそろ止めにします」
ふと見れば、刀を握る手が僅かに震えている。一度止めたせいなのか、朝と同じように疲れが急に出て来たらしい。
「ああ、それがいい。今日はだいぶ疲れたろう。ゆっくりと休め」
「はい。……伊東殿、今日は、誠にありがとうございました。己の未熟を思い知らされました」
刀を鞘に戻しながら、典膳は軽く礼をする。だがしかし、結んだ口の端がきつく閉じられていたのが目に見えた。
「…………典膳はもう武芸者だな」
「え?」
「自らの未熟を知り、いま一度鍛えようとするその性根は、武芸者のものだ。昨日言っていたように、武を好いていないのであれば、未熟を知れば、いくら責務があると思っていようと一層武から離れていよう。だが御身は、未熟を良しとせず鍛えることを選んだ。それは間違いなく、武芸者の気質だよ」
そしてあるいは、男としての気質である。
己の弱さを知り、弱いままでいることが許容できない。それが男が生まれ持って持ってしまった難儀な生態だ。
許容できず、目を逸らし、自棄になって寝転がるか。
許容できず、故に直視し、意地になって邁進するか。
その二つの道の中で、典膳は、典膳の
それを選ぶのは、武芸者の気質を持つ者だ。
「……ですが私は」
「武士と武芸者を両立している者も居る」
少なくとも自分や自斎といったろくでなしもいるにはいるが、柳生新左衛門や雲林院松軒といった例もある。
無頼と変わらぬものもいれば、仕官を目指す者もいる。気儘に振るう己等や、なにかのために覚えようとする者もいる。
兎にも角にも、つまるところは、武芸者というものは。
「武芸者に決まった形はない。武芸者とは、自由なものだ」
「自由。自らに由るもの、ですか?」
「ああ。その者が何者であろうとも、どういう性根を、生まれを、行いをしていようとも、武芸者という生き方を
少なくとも、一刀斎はそう信じている。己の
……だがしかし、だからこそその危うさも同時に知っている。
「だがな、魂のままに生きるならば、魂を研かねばならん。そこが無頼と武芸者を分ける一つの線だ。精神が育ち分別が付くようになるように、身体が出来上がりやれることが増えるように、魂を研いていけば、振るう剣は強く、剣を握る手は清く、相手を見る目は明らかに、信念は正しく、歩む道は
正しいことは良いことだと、一刀斎は知っている。なにせ己を育てた父役は、そういう気質をしているのだから。
ああいう生き方こそが真っ当であり、ああいう人間こそが、本来の人間の姿であろうと思う。
「……魂を研くとは、どうすればいいのですか?」
「己の理想を見付けるんだ」
「理想?」
「少なくとも、おれはそう教わった」
なにせ、一刀斎が今まで相対してきた中で、最も強き
「己の内にあるものを、一つ一つ削ぎ落とし、最後に魂に残ったものが
虫が花を求めるような、魚が水を求めるような、ひとりひとりの生き方を決定付ける人間の
理想とは一つを目指し続けるための指標である。
「典膳、まずは理想を抱け。御身だけの理想を見付けることが出来たならば、あとはその理想のために、魂が研かれていく」
「私だけの、理想……」
典膳は俯き、目を伏せた。その目の下には、先ほどまで剣を振るっていて、疲れで振える拳があった。
拳を広げ掌にし、細かい皺の、一つ一つまで拾うように、ただただジッと、見詰めている。
典膳が抱く理想。それは、きっと――――。
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