第三十四話 こころ

「そうですか! 効果があったと!」

「ああ」

 典膳と立ち合いをしてから半刻後、客間に戻り朝食をり終えた一刀斎の元に、神子上みこがみ土佐守とさのかみがやってきた。

 いてもたってもいられなかったのか、早速、立ち合いの成果を聞きに来たらしい。

「とはいえ荒療治だった上、当人も困惑している様子だったが。火種が生まれたのは確かだろうが、火が点くかどうかはこれからだろうな」

「それでも、火種があれば良いのです」

「ならいいが」

 典膳はきっと、剣に対して少なからず熱意を持っていたはずだ。

 しかしなにかしらの理由があって、その熱意の元が冷え切っていた。それは、典膳との問答でそこはかとなく感じられたところではある。

 その熱源の炉に火種をくべることは出来ても、実際火を熾すのは典膳でなければならない。

「今日も食事の中で、普段はあまりしない昼にも稽古をすると言っていました。それだけでも、大きく前進しましたよ」

「ふむ……。なら、おれが少し様子を見てみようか。変化があったか気になるところだ」

「それはありがたい。私は少し出る用事がありますので…………息子の面倒を押し付けるような形で、申し訳ないのですが」

「構わん。寝食を世話されたのだから、それくらいはやらせてもらわねばならん」

 一刀斎は旅をし続け十数年。その間多くの人間に厄介やっかいになっている。恩義を返すのは慣れたものだ。慣れて良いものかは分からないが、とかく返さぬよりはマシだろう。

「典膳が稽古をするのは、いつも一人か?」

「ええ、ここ数年は、私が見る以外は常に。もはや私も見るだけで、なにか言うこともありません」

「剣友はいないのか」

「……はい。元よりこの一帯に剣を学ぶ年頃の近い若者がいないということもありますが、なにしろあの強さです。伍する者が現われず、次第に典膳から離れる者も多く」

「なるほどな」

 剣を「孤独なもの」だと、典膳は言っていた。それが指す意味は、言葉通りの孤独だった。

 あれほどの才気が幼い頃から顕現していたのならばきっと、その実力をねたそねむ者もいただろう。いや、辛いと思うならばまだマシだ。自分と典膳とを比較し、望みを絶った者もいたかもしれない。

 どうであれ、土佐守の言うとおりであれば、自分とは違う者なのだと一線を画して離れていった者も少なからずいたのだろう。

 だからこそ典膳は孤独であり、その孤独を埋めることは、師である土佐守たちでは埋められなかった。

(真逆だな)

 一刀斎は剣を覚えるまで、たった独りで生きてきた。三島神社やその村の人々以外で紡いできた縁のほとんどは、全て剣によって生まれたもの。

 剣で縁を失った典膳と、まるで異なる。

 だがしかし、剣の縁の強さにおいては一刀斎が勝るらしい。

 いくら典膳の縁が人を失うものであっても、一刀斎の縁は人を繋ぐもの。

 一刀斎が斬ろうと思わなければ、この縁は切れぬままだろう。

「任せきりで心苦しいのですが……では、私は準備をしてまいります」

「ああ、気にせずに行ってこい」


 雨が止んで多少は残暑も去るかと思ったが、どうやら火輪かりんは居座るつもりらしい。庭の土は泥濘ぬかるみはあれどごく浅く、踏みしめてもさほど沈まない。

 土をかえした畑のように、柔らかく足裏を包むようですらある。

「フッ!!」

 しかし返って踏ん張りにくい。地面から帰って来る力がどうにも脆い。

 剣を振るってもいつもの調子が出ないのは、この地面のせいだからか。

(違う……)

 今朝方、一刀斎と立ち合いをしてから妙であった。ひたすら続けたから疲れが残っているのだろうか。いや、それはない。あのあとじっくり休んだら、不思議と倦怠感はなくなっていた。

 残っているのは、腹の底にある熱さだけだ。

 その熱さがあるからなのか、いつも通りに、思う通りに剣を振っても違和感がある。太刀筋がどこかのろく感じてしまう。

 脳裡と胸裡、共に焼き付いたあの太刀筋と比べればそれも当然のことだろう。

 だが、あれと比べているわけではない。比べているのは今までの己とだ。

 己の今までが、全て粗末なものに思えてならない。

 一刀斎の言うの剣が、どれほどのものなのかを思い知った。

「励んでいるな」

「っ、伊東殿」

 いつの間にか、縁側に一刀斎が立っていた。いつから見ていたのかは分からないが、口振りから来てそんなに間は経っていないらしい。

「改めて、今朝はありがとうございました。大変、…………学びのあるものでした」

「ならばよかった」

 言い淀んだのは、それがまことの言葉だったから。それ以外、どうとも言えぬものだった。得た学びの重さ故に、軽々と吐き出すことが出来なかった。

「あれほどの打ち合いをした後だ、疲れもあるだろう」

「いえ、あの打ち合いがあったからです。自分の未熟を知った以上、足を止めてはいられません」

 強者になることに興味は無く、剣を極める意欲は失せており、高みへの理想など抱いていなかった。

 自分にとって、剣はただの嗜みの一つでしかないと判じていたはずなのに、なぜか今、こうして居ても立ってもいられず剣を振るっている。

「勇ましいな。まあ、その年の頃ならば体力もあるだろうし、回復するのも早かろうが」

 一刀斎は縁側に座り込むと、そのまま空を見上げた。典膳も釣られて空を見れば、そこには青い空と残った雲があるだけだった。

「なにかあるのですか」

「空がある」

「……それは普通ではないのですか?」

「そうだな。おれも長く旅をしているが、どこでも空があった。空がない場所を見たことがない」

 なんとも、観念的なことを言っている。培ってきた理念なのか、それともただ惚けた発現をしているのか。

 それを判じられるほど、典膳は一刀斎について何も知らない。

 空を見上げていれば、ずっとなにかをしなければいられないと思っていたにもかかわらず、自然と急いていた気が落ち着いてきた。

 一つ息を整えて、典膳は肩から力を抜いた。

「少し、休みます」

「む。そうか」

 太刀一つ分の間を置いて、一刀斎に習って縁側に座り込む。

 一刀斎は典膳を見ることなく未だ空を見上げているが、典膳はなにもない、いや、空しかない上を見ることを止めていた。

「伊東殿は、あれほどの技の数々をどうやって編み出したのです?」

 無沙汰ぶさたにならぬように、一つ聞いた。

「編み出したというより、自然と出来た。さきも言ったが俺は長いこと旅して回っているが、その間に多くの者と相対したからな。その者らの技に一つ一つ対応していく内に、気付けば色んなが出来ていた」

「手立て、ですか?」

「御身はおれの技を多いと思っているようだが、おれの剣は畢竟ひっきょう、どう相手の額を割るか以外を考えていない」

 額を割る。思い返せば一刀斎の技は全て、終いには典膳の額に付けられていた。

 こちらが剣を合わせても、撃ち出された一刀斎の剣に弾かれるのみ。一刀斎の剣はただ真っ直ぐ、典膳の手を意に介さず、無きもののよう線をえがいていた。

「あのかたちはいったい」

「昔はよく薪を割っていてな。慣れ親しんだ動きであれをやるのが一番楽で、一番確かだ。大上段であれ正眼であれ、下段であれなんであれ、真っ向を断つのが向いている」

 口では平易に言うが、それがいくら必勝の形であるといえ、理想の形に剣を移すことがどれほど困難であるか。

 その才気故に、対人経験が浅い典膳にとってはそれがまるで分からない。

「私も多く戦いを重ねれば、画く線が見えるのでしょうか」

「さてな。人にはそれぞれ合うやり方がある。そのやり方は己であっても分からんものだ」

 一刀斎は、「だがな」と言葉を続ける

「頭で理解していなくても、こころだけは理解している。こころまにまに頭も身体も動かしていれば、存外ぞんがい容易く見つかるものだぞ」

 そう語る一刀斎は、本当に思うままに生きているのだろう。

 心こそが、何をすべきか知っている。だから全て、心に任せて生きている。

 鼻が痒ければ指で擦るように、目が乾けばまばたくように。頭でしようと思わずとも、身体が勝手に動くように。

 一刀斎は、心のままに生きているのだ。

「こころ、ですか」

「ああ、こころだ」

 腹の底に、手を当てる。

 そこは燃えるように熱く、掌にも熱が宿る。

 触れた箇所から宿るでなく、身体を通って掌に到り、熱が宿る。

 腹の底に手を当てたのは、はたして頭か、それとも、心か――――。

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