第三十二話 衝動

 その立ち合いが決したのは、一瞬のうちの出来事だった。

 破裂する剣気と剣気が、ぶつかり合っての決着であった。

 ともすれば、見た者の多くが理解しきれぬ速度であった。


(――――なんと見事か)

 一刀斎の内側に、抑えきれないほどの感嘆が込み上げる。

 幾度となく強敵と相対してきた心王が、眼前の少年をこれでもかとさんしている。

 素振りのときとは大きく違う。相対してみれば典膳てんぜんは、空気を一変させる剣気を纏った。

 真剣そのものの緊張感。試しの立ち合いであろうとも、相対する相手が誰であろうとも、一瞬の予断さえ生まないという覚悟が身体から溢れている。

 かといって、鍛練の最中見せていた柔らかさが消えているわけではない。己の肉体と技術を余すことなく駆使しようとし、瞳も硬くなってはいない。

 典膳は剣にこころを通すことが出来ないが、生死の戦いに挑む心構えは完成している。

 剣に対する熱意がないにも関わらず、これほどの気魄を纏えることは典膳の持つ最大の天稟てんぴんであろう。

 剣に秀でた才を、複合して有する稀有けうな素質。なるほどこれは、土佐守が入れ込むのも無理はない。初めて典膳に相対したときに生じた武者震いは、きっとこれに反応したものだと一刀斎は一寸ばかり口の端を上げる。

 そんな一刀斎に相対する典膳はといえば。

(…………いったい、これは)

 眼前の一刀斎が持つ複雑怪奇さに、喉も口も渇いていた。

 背丈だけでもただただ圧倒されてしまうほど大きいのに、全く圧を感じない。

 泰然とそびえる一刀斎からは、意志が全く読み取れない。鋒をいくらか動かしてもまるで反応せず、意識があるのかも怪しんでしまうほどであった。

 しかし一刀斎の目は黒々と煌めいており、生気は宿っている。一刀斎は、意識も含めて確かにそこにいる。

 木太刀を下に構える立ち姿からは力はまるで感じない。気を抜いているかのようにさえ思えて、いま打ちかかれば、そのまま肉体まで木太刀が素通りしそうである。

 だが、しかし。

(動けない……っ)

 懸かり行こうとしても、脚が動かない。一刀斎は天下一と噂される剣客であり、そんな天下一が立ち合いの最中に気など抜くだろうか。きっとそう見せかけているだけなのだろう。こちらから打ちにいけば、十中八九技を返されるに違いない。

 脚を動かせない代わりに、典膳は脳漿のうしょうを働かせている。

 ――――回る典膳の思考には、「胸を借りる」という思いはまるで介在していない。負けようとも、負けるだろうとも考えていない。勝とうと思い、勝つためになにをするかを考えている。

「戦うならば勝ち以外はないだろう」というのが、人より多少長い時間を過ごした典膳が抱く意識であり、負けという可能性を省くために思考する。

 それは天下一の剣術遣いたる一刀斎が相手だろうと、変わることがない。

 加えて、父の艱難辛苦を知る典膳は、勝利の困難さを直感的に理解している。だからこそ、若くして、戦場に立たず、立ち合いや仕合、勝負の経験が浅くとも、一刀斎すら息を飲む剣気を纏うことが出来る。

 恐らく本人は、それに気付いてないだろう。――――その剣気が故に、必要以上に、縁に恵まれなかったことも。

「――――…………」

 脳が疲れると、典膳は舌を巻き上顎へと押し付ける。「頭と目が冴えるから」と、父にそうするように言われていたことだ。

 煩雑としていた思考は強制的に静まっていき、目は思考を介さず、一刀斎を直に見据えた。

 腰を大きく落とし、両肘は前後に大きく張らせて拳は耳の高さまで。これも父より最初に教わったいんの形。父が得意だと言っていた構えである。

 甲冑を着て役立つ構えだと言うが、素肌であってもいい形だと典膳は思っていた。

 構えを変えても、一刀斎は動かない。動じない。応じない。こちらのことなどお構いなく、ただ個人で完結しているかのようで。

 その目には、自分が映ってはいないのでは無いかと疑ってしまうほどだった。

(ならば……!)

 映して見せよう。足の指に力を込め、板間をしかと踏みしめる。蹴り出し身を弾き出す準備を整える。

 誘い出すように付きだした腕に、一刀斎はまだ反応しない。構えは下段。剣の速度は低いと見る。

 ならば一閃、袈裟を振るい、腹の底から気を吐きながら――――!

ェイ!」

フンッ!!」

 ――――――剣気が、ぜた。

 その峻厳しゅんげん巨躯きょくを砕くために、全力を込めて撃ち放った袈裟の一撃。例え防がれようと、必ず相手の木刀を叩き落とし、そのまま肩腕に打ち付けることが出来た剣撃である。

 だがしかし、

(…………え)

 袈裟を放ちきったと思った瞬間、手に響く打突感の代わりにやってきたのは、全身を貫く衝撃であった。まるで身体の中心を通る芯が、脳天から真っ直ぐ破砕されたかのような。眼前が、頭が、意識が真っ白に染まる。


 死んだ。


 頭ではなく、意識でもなく、鳩尾当たりから、自分は死んだのだと告げられた。

 だが、生気が消え失せるはずの肉体にはまだ力が残り、暗くなった目の前が、徐々に徐々に色彩を取り戻す。

 眼前にあるのは、木の刃。一刀斎が放った木太刀。それは鼻先二寸先で、揺れることなく制止していた。

 先に振るったはずの典膳の剣は、一刀斎の木太刀の鍔元でピタリと受け止められている。

 典膳は、生きている。単に一刀斎の剣に乗った熱風きはくが、典膳に思考や感覚を吹き飛ばしていたに過ぎなかった。

 そう、気付いた瞬間に。

「あ…………」

 典膳は、腰を抜かして崩れ落ちる。例え死んでなかろうと、身体の中に、しっかりと据えていた芯が砕かれた感覚は残っている。

 一刀斎の剣が直撃したわけでもない。ただの寸止めに乗せた気魄が、典膳の肉体を徹り抜けただけに過ぎない。

 それでも、一刀斎が剣に乗せた気魄は、実在する圧力のように典膳の体を押し潰した。

「これで終いか」

「――――」

 ――――仕合とは、これほどまでに呆気ないものだったか? 舌の根が石のように堅くなり、なにひとつ喋れない。

 身体の中を徹り抜けた気魄は、灼熱に燃える炎のようで。その太刀風は、部屋の空気の全てをあぶり、爆発させる爆風であった。身を砕いて進む圧力は、噂に聞く噴火ふんかとやらにもにた烈しさであった。

 未だなお身体の内側では、灼熱の剣気が残り続けて典膳を焼いていた。

 いや、それも決して無視できない衝撃いたみである。

 だが、それよりも典膳が愕然とし、理解及ばぬことがある。

 典膳はこの一合いちあい。何が起きたのか、全く把握出来ていなかった。

 自分の太刀筋の顛末も、一刀斎の術理じゅつり理合りあいも、それどころかなにをしたのかも。まるで分からない。

 分かるのはただ一つ、自分が呆気なく敗北したことだけである。

「…………う」

 典膳にとって、立ち合うならば勝ち以外はないものである。

 指導を受けるために向かい合うならばまだしも、立ち合いとして向かい合うならば負けることは考えない。そもそも、負けることを知らない。負けたことがない。

 典膳にとって勝利は求めて当然のものであり、得て当然のものであった。

 しかし今回は、求める以前の結果であった。

「…………もう」

 身体を内から炙る熱が、鳩尾みぞおちに集まる。吐き気を催すほどの熱が胸に溜まる。肺臓はいぞうの空気が熱せられ吐き出さずにはいられない。

 無理やり吸気を取り込んで、焼ける空気を呼気として吐き出せば。

「もう一度!」

 肺腑はいふの空気が、声となって現われた。

 思考も乱れて意識も未だに惑う中、思考も意識も置き去りにして、身体を動かす何かがあった。

 身体の芯は砕けたままに、震える脚で立ち上がり、なぜか痺れる腕で木太刀を構える。

 典膳を動かすそれは、得体の知れないものではあるがそれでも。

「また、もう一度立ち合ってくれませんか!」

 己も知らぬ己の何かが、己をうごかしていた

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