第五話 二厘の差

 近江おうみ堅田かたた金剛刀こんごうとう印牧かねまき自斎じさいとの修行で、自斎の木刀―と呼ぶのも烏滸おこがましいそこらの木の枝―は、滅多に折れなかった。

 一振り一振り、全霊を込めて振るったこちらの木の枝は砕けるのに、自斎の小太刀寸の木の枝は、こちらが十本折る間に、一つたりとも折れなかった。

 受けの名手、防御に秀でた自斎の術技の凄まじさは、年経る度に身に染みる。

 かつてを思い出したのは、こうして木と木を打ち合っているからだろう。

 あのころと違って今回は、一刀斎が振る木太刀は、いまだ健全なまま。

ェエ!」

フンッ!」

 乾いた音が波打って、夏の熱波を弾き飛ばす。

 繰り広げられる熾烈しれつ剣劇けんげきは、かれこれ十分じゅっぷんは続いている。

 一刀斎は間合いで勝る槍を相手に、果敢に攻め行き自身の刃圏はけんまで納めるも、勘解由左衛門も巧みである。すかさず脚を動かして、一刀斎の木太刀から逃れては急所狙いの突きを放ち追撃を止める。

 しかし槍を返して攻撃に転じれば、一刀斎はその槍を見事に捌ききり、攻めに入り込む。

 攻防の入れ替わりが目まぐるしく、お互いが同時に攻め、同時に防ぐ。攻防という両極的な概念が、お互い一本化している。

 両者の技はともに攻防一体、一拍子。共に一分いちぶすきもなく、どちらも決め手に欠けていた。

 しかしそれでも、二人の攻め気は削がれていない。その姿勢に攻め倦ねている様子はない。

 一瞬たりともこの立ち合いの時を無駄にすまいと、無動でいる時間を削ごうと、最適手を瞬発選ぶ。

 心中発声も最小限、時にはなくして心のままに得物を振るう。

 ……そしてそれは、ほんの僅かな差であった。

ェエ!」

ッ!」

 実力差、五分と五分に見えたこの立ち合い、その実、五分ごぶ一厘いちりんと、四分しぶ九厘きゅうりんの立ち合いである。

 たった二厘の差を生み出したのは、一刀斎が師より受け継いだ心法しんぽうあってこそ。

 いやそれよりも、一刀斎の気質に寄るもの。

 一刀斎は己が心を疑うということを知らない。己が心のままに生きてきた。心が身体を動かすものだと、もはや思考がそう固定されている。

 故に思考が待ったをかけず、より早く、一刀斎の肉体を動かしている。

 かつて今世こんせい無双むそう剣豪けんごうが一刀斎の剣士としての適性について、その体躯や剛力よりも上にあると置いたのは、意志決定の速度と強度。

 思いを一つに決すれば、それに徹してその他全てを削ぎ落とす。

 剣を振るう心がなおくあるならば、当然剣も乱れることない。

 そして意志決定が早ければ早いほど、振るう剣は、素早くなる。

ァアア!」

「ッ……ァアア!」

 一手、勘解由左衛門の手が遅れた。僅か一厘の均衡きんこうが、ここより大きく崩れ出す!

ェエエエエ!!」

ッ、ェイ!」

 それぞれの武器捌きに変化が起こる。

 攻める側と受ける側が、徐々じょじょ明確めいかくになる。

 勘解由左衛門の動きの繋がりが薄くなり、一つ一つが孤立していく。

 しかし、それでもなお。

(遠い……!!)

 一手が遠い。放たんとする決め手が届かない。彼我の距離を埋めないのは、木太刀と木槍の間合いの差ではない。

 勘解由左衛門の体捌きと槍捌きが、もう少しの一手を打ち払っている。

 松軒のような雲より放たれる雷撃とも違う、細かく小さく、されど鋭く痛烈つうれつな電撃のようである。

 均衡が崩れ追い込まれつつある中で懸命に、しかし我武者羅がむしゃらでなく正確せいかく無比むひに。

 一手一手を正しく選んで一刀斎の剣を捌いている。

 この古藤田勘解由左衛門俊直という武芸者はやはり、紛う事なき本物である。

 だからこそ。

ォオオオオオオ!!」

 持ちうる全霊ぜんれいを尽くし、こちらに傾いた勝機を全力で逃さない。

 一刀斎のこころが、より強烈に燃え上がる。

 しかしそれでも心火しんかの真っ芯だけは揺れることなく。

 一刀斎の頑健な肉体を外炎と変えて、木太刀が止まることなく勘解由左衛門へと迫る。

(なんという猛々しさ、いや、それ以上に…………!)

 一刀斎の太刀筋は、あらゆる角度で、全身の急所に襲いかかる。

 武芸者として長い経験を積んできてなお、それまで体験したことのない軌道きどうで放たれる太刀さえある。

 その剣捌きは自由自在、それでいて一刀斎の持つ剛直ごうちょくさは失われていない。

 つまりそれら全ての太刀筋は全て、一刀斎の術理として、剣技として存在しているということだ。

 だとすれば一刀斎には、いったいどれほどの斬撃の用意があるというのかと、勘解由左衛門は口の端を吊り上げる。

(聞きしに勝るとは、文字通りこの事か!!)

 一刀斎の噂は、勘解由左衛門も幾度となく耳にしていた。

 曰く無敗の剣客だと、剣を握れば並ぶものがいないのだと、その剣に切れぬものはないだろうと、この小田原に訪れた武芸者で、一刀斎と出会ったことがある者はみなそういう。

 だがしかし、肝心なことはなにひとつ喋っていなかった。

 いま、勘解由左衛門が感じていることは、誰も口にしなかった。

(なんと、鮮やかな太刀筋か!)

 一刀斎の剣には、なにひとつ迷いがない。立ち合いの最中であっても、見惚れてしまうほどの清らかさ。

 一点の曇りも一片の陰りもない、研ぎ澄まされた鋭い斬撃。

 武芸者が何千と振るって十度と感じない、「手応え」のある太刀の流れ。

 それを一刀斎は、立て続けに撃ち放っているのだ。

 天下一剣術之名人、その看板には、何一つの偽りがない!

(ならばこそ!)

 勘解由左衛門も、感嘆だけに留めない。

 刀の究竟くっきょうにいるならば、剣の窮極きゅうきょくと相対するならば、それに追いすがり、勝らんという意欲をこそ抱くべきである。

ィィッォオァアアアアア!!」

「っっ……!」

 全力、全身、全霊、持ちうる全てを込めて、それでも足りない分は、でもって底上げし、一刀斎を迎え撃つ。

 左腿、右腿、右肩、左肩、丹田たんでん鳩尾みぞおち、都合六つの連続れんぞく刺撃しげき

 全てが本命の一撃に相違なく、しかし突く威力に引く速度が負けていない。並の武芸者であるならば、使ったのが本物の直鑓すやりであったならば、皮膚と肉を抜き、寸分の狂いもなく血脈けつみゃくを突き破られていただろう刺突だった。

 だがその六つの刺突は。

セイァアアアアアアア!」

 一刀斎が、全て撃ち払う。削ぎ逸らす。そして切り落とす。

 己の全てを込めて撃った回生かいせいの技、それを一刀斎は、見事いなして見せた。

 しかし勘解由左衛門には屈辱はない。なぜならその対応の全て、勘解由左衛門の木槍を落とした木太刀には、一刀斎の全てが込められていたから。

 己の全力に、相手も全力を持って応じてきた。

 それがあの無敗の剣客がというのだから、それを誇らず何という。天下一の剣豪に、全力を出させたのだから。

 ――――――ならば、こそ。

ォオオオオオァアアアアアアアアア!!」

 肉でなく、骨でなく、心で以て、腕を突き出す。

 狙いは一つ、仏の浮き出た太く浅黒いその喉元。

 己を越えて放った一撃は、真っ直ぐ一刀斎の喉元に向かう。

 残り一尺、七分。三分を越えたところで、時の流れが著しく緩くなった。

 残り一分、七厘、五厘、四厘。三厘に迫り、まだ触れてもいないのに、骨の髄で手応えを感じる。

 そして、残り二厘――――――

「ぐ、んっ……!!」

「…………!!」

 ――――突きだした木槍は、一刀斎の喉を

 いや、実際すり抜けたわけではない。

 一刀斎が、上体を僅かに反らし、紙一重で避けてみせたのだ。いったいどの段階で、避け始めたのかまるで分からない。

 勘解由左衛門の目にはまるで炎でも突いたように、たしかにそこにあったはずの一刀斎の肉体が、揺らめいたようにさえ見えた。

 …………そして。

ァアアアアアアアアアア!!」

「ご、ぉが……!」

 一太刀一閃、一刀斎は勘解由左衛門に木太刀を振り下ろす。

 その一撃は勘解由左衛門の肩口を強かに打ち付けた。

 得物が先のまま真剣であったならば、そのまま肩を切り落とされていたに違いない。そう確信するほどの衝撃が、勘解由左衛門を襲った。

 ――――わずか二厘、その攻防は、一刀斎の勝利に終わる。


「感服、いたしました……!!」

 終わってみれば、勘解由左衛門の顔は赤くなっている。

 太陽が燦々眩しく燃えてる上、荒れた地面の照り返しもあり、さらにはお互い全てを尽くしたのだ。血がだるのも当然である。

 一刀斎も、近次きんじが持ってきた冷茶を何度も呷っている。

 それでも身体はいつまでも火照ったまま、燃え立つこころが、未だ内側から一刀斎をあぶっている。古藤田勘解由左衛門俊直との立ち合いは、ここ一年で一番の仕合だったと断言出来よう。

「おれも、見事だったと言う他ない。古藤田殿の鑓の手並てなみは、今まで相対してきた長物使いの中でも指折りだ」

「……いやはや、まだ未熟と自負していますが、一刀斎殿にそう称えられると、本当にそうなのだろうと思ってしまいます」

 面映ゆいのか、苦笑しながら勘解由左衛門はうつむいた。

 一刀斎はもう一杯冷茶を飲もうと、湯呑みを口に運ぶが。

「一刀斎殿、一つ頼みがあります」

 ちょうどそのとき、勘解由左衛門が口を開いた。

 湯呑みを近付けた手を止めて、声の主へと視線をやる。

 すると勘解由左衛門は顔を上げ、背筋を伸ばして姿勢を正し――――。

「この古藤田勘解由左衛門俊直を、どうか御身の弟子にしていただきたく!」

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