第五話 二厘の差
一振り一振り、全霊を込めて振るったこちらの木の枝は砕けるのに、自斎の小太刀寸の木の枝は、こちらが十本折る間に、一つたりとも折れなかった。
受けの名手、防御に秀でた自斎の術技の凄まじさは、年経る度に身に染みる。
かつてを思い出したのは、こうして木と木を打ち合っているからだろう。
あのころと違って今回は、一刀斎が振る木太刀は、いまだ健全なまま。
「
「
乾いた音が波打って、夏の熱波を弾き飛ばす。
繰り広げられる
一刀斎は間合いで勝る槍を相手に、果敢に攻め行き自身の
しかし槍を返して攻撃に転じれば、一刀斎はその槍を見事に捌ききり、攻めに入り込む。
攻防の入れ替わりが目まぐるしく、お互いが同時に攻め、同時に防ぐ。攻防という両極的な概念が、お互い一本化している。
両者の技はともに攻防一体、一拍子。共に
しかしそれでも、二人の攻め気は削がれていない。その姿勢に攻め倦ねている様子はない。
一瞬たりともこの立ち合いの時を無駄にすまいと、無動でいる時間を削ごうと、最適手を瞬発選ぶ。
心中発声も最小限、時にはなくして心のままに得物を振るう。
……そしてそれは、ほんの僅かな差であった。
「
「
実力差、五分と五分に見えたこの立ち合い、その実、
たった二厘の差を生み出したのは、一刀斎が師より受け継いだ
いやそれよりも、一刀斎の気質に寄るもの。
一刀斎は己が心を疑うということを知らない。己が心のままに生きてきた。心が身体を動かすものだと、もはや思考がそう固定されている。
故に思考が待ったをかけず、より早く、一刀斎の肉体を動かしている。
かつて
思いを一つに決すれば、それに徹してその他全てを削ぎ落とす。
剣を振るう心が
そして意志決定が早ければ早いほど、振るう剣は、素早くなる。
「
「ッ……
一手、勘解由左衛門の手が遅れた。僅か一厘の
「
「
それぞれの武器捌きに変化が起こる。
攻める側と受ける側が、
勘解由左衛門の動きの繋がりが薄くなり、一つ一つが孤立していく。
しかし、それでもなお。
(遠い……!!)
一手が遠い。放たんとする決め手が届かない。彼我の距離を埋めないのは、木太刀と木槍の間合いの差ではない。
勘解由左衛門の体捌きと槍捌きが、もう少しの一手を打ち払っている。
松軒のような雲より放たれる雷撃とも違う、細かく小さく、されど鋭く
均衡が崩れ追い込まれつつある中で懸命に、しかし
一手一手を正しく選んで一刀斎の剣を捌いている。
この古藤田勘解由左衛門俊直という武芸者はやはり、紛う事なき本物である。
だからこそ。
「
持ちうる
一刀斎の
しかしそれでも
一刀斎の頑健な肉体を外炎と変えて、木太刀が止まることなく勘解由左衛門へと迫る。
(なんという猛々しさ、いや、それ以上に…………!)
一刀斎の太刀筋は、あらゆる角度で、全身の急所に襲いかかる。
武芸者として長い経験を積んできてなお、それまで体験したことのない
その剣捌きは自由自在、それでいて一刀斎の持つ
つまりそれら全ての太刀筋は全て、一刀斎の術理として、剣技として存在しているということだ。
だとすれば一刀斎には、いったいどれほどの斬撃の用意があるというのかと、勘解由左衛門は口の端を吊り上げる。
(聞きしに勝るとは、文字通りこの事か!!)
一刀斎の噂は、勘解由左衛門も幾度となく耳にしていた。
曰く無敗の剣客だと、剣を握れば並ぶものがいないのだと、その剣に切れぬものはないだろうと、この小田原に訪れた武芸者で、一刀斎と出会ったことがある者はみなそういう。
だがしかし、肝心なことはなにひとつ喋っていなかった。
いま、勘解由左衛門が感じていることは、誰も口にしなかった。
(なんと、鮮やかな太刀筋か!)
一刀斎の剣には、なにひとつ迷いがない。立ち合いの最中であっても、見惚れてしまうほどの清らかさ。
一点の曇りも一片の陰りもない、研ぎ澄まされた鋭い斬撃。
武芸者が何千と振るって十度と感じない、「手応え」のある太刀の流れ。
それを一刀斎は、立て続けに撃ち放っているのだ。
天下一剣術之名人、その看板には、何一つの偽りがない!
(ならばこそ!)
勘解由左衛門も、感嘆だけに留めない。
刀の
「
「っっ……!」
全力、全身、全霊、持ちうる全てを込めて、それでも足りない分は、でもって底上げし、一刀斎を迎え撃つ。
左腿、右腿、右肩、左肩、
全てが本命の一撃に相違なく、しかし突く威力に引く速度が負けていない。並の武芸者であるならば、使ったのが本物の
だがその六つの刺突は。
「
一刀斎が、全て撃ち払う。削ぎ逸らす。そして切り落とす。
己の全てを込めて撃った
しかし勘解由左衛門には屈辱はない。なぜならその対応の全て、勘解由左衛門の木槍を落とした木太刀には、一刀斎の全てが込められていたから。
己の全力に、相手も全力を持って応じてきた。
それがあの無敗の剣客がというのだから、それを誇らず何という。天下一の剣豪に、全力を出させたのだから。
――――――ならば、こそ。
「
肉でなく、骨でなく、心で以て、腕を突き出す。
狙いは一つ、仏の浮き出た太く浅黒いその喉元。
己を越えて放った一撃は、真っ直ぐ一刀斎の喉元に向かう。
残り一尺、七分。三分を越えたところで、時の流れが著しく緩くなった。
残り一分、七厘、五厘、四厘。三厘に迫り、まだ触れてもいないのに、骨の髄で手応えを感じる。
そして、残り二厘――――――
「ぐ、んっ……!!」
「…………!!」
――――突きだした木槍は、一刀斎の喉をすり抜けた。
いや、実際すり抜けたわけではない。
一刀斎が、上体を僅かに反らし、紙一重で避けてみせたのだ。いったいどの段階で、避け始めたのかまるで分からない。
勘解由左衛門の目にはまるで炎でも突いたように、たしかにそこにあったはずの一刀斎の肉体が、揺らめいたようにさえ見えた。
…………そして。
「
「ご、ぉが……!」
一太刀一閃、一刀斎は勘解由左衛門に木太刀を振り下ろす。
その一撃は勘解由左衛門の肩口を強かに打ち付けた。
得物が先のまま真剣であったならば、そのまま肩を切り落とされていたに違いない。そう確信するほどの衝撃が、勘解由左衛門を襲った。
――――わずか二厘、その攻防は、一刀斎の勝利に終わる。
「感服、いたしました……!!」
終わってみれば、勘解由左衛門の顔は赤くなっている。
太陽が燦々眩しく燃えてる上、荒れた地面の照り返しもあり、さらにはお互い全てを尽くしたのだ。血が
一刀斎も、
それでも身体はいつまでも火照ったまま、燃え立つ
「おれも、見事だったと言う他ない。古藤田殿の鑓の
「……いやはや、まだ未熟と自負していますが、一刀斎殿にそう称えられると、本当にそうなのだろうと思ってしまいます」
面映ゆいのか、苦笑しながら勘解由左衛門は
一刀斎はもう一杯冷茶を飲もうと、湯呑みを口に運ぶが。
「一刀斎殿、一つ頼みがあります」
ちょうどそのとき、勘解由左衛門が口を開いた。
湯呑みを近付けた手を止めて、声の主へと視線をやる。
すると勘解由左衛門は顔を上げ、背筋を伸ばして姿勢を正し――――。
「この古藤田勘解由左衛門俊直を、どうか御身の弟子にしていただきたく!」
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