第二話 熱陽炎

 外の往来の声で、一刀斎は目を覚ました。

 昨夜は暑かったが、幸い夜風が涼しく窓を開けて眠っていた。

 お陰か通りを一つ外れた宿でも、外の賑わいが格子を素通りして部屋に入り込む。

 窓から入り込む光と陰の差を見る限り、まだ日が海から顔を出して間もないだろう。それでもこの小田原という大きな街は、すっかり目覚めているらしい。

 小さくない部屋に、活気溢れる騒ぎ声が――――

「…………む?」

 そう、騒ぎ声である。

 どれほど盛り上がっていようと、いくらなんでも近く聞こえる騒ぎ声。

 まるでこの宿の近くに人が集まっているかのようである。

「お客さん、朝から失礼しますよ。開けて良いですかね」

「うむ、構わん」

 はてさてなにが起きているのか、疑問には思うがそれはさておき、襖の外から掛けられた声に応と答える。

 現われたのは宿屋ここの番頭。一本調子で、表情の変化にも乏しい男だった。

「外が騒がしいが、なにかあったか」

「それがね、朝ウチに野菜をおろした丁稚でっちが、昨日立て掛けた札を見てあちらこちらに言いふらしたらしくてね。天下に名高い剣豪様が小田原に来てるぞと。そしたら見物しようと人が集まってきたらしい」

 自分の宿の周りで起きていることだというのに、まるで他人事のような物言いであり、眉の一つも動かさない。ここまで他者他物に興味がなさそうな男はそうそういまい。

 しかし困った。この背丈であったり観衆の前で武を競うことがあったりで、注目を浴びることは多々あった。

 耳目を向けられ野次などを飛ばされることには慣れているが、慣れたからと言って好いているわけではない。

「して、御身が部屋に訪ねてきた理由は外の騒ぎが原因か? 騒がしくしてすまんな」

「いや、飯の支度したくが出来たんでね。それで呼びに来ただけで」

「…………そうだったか」

 この男、実は大層な大物なんじゃあないだろうか?


 人目が気になるなら裏から出ればよいと言われ、案内されたのは台所の勝手口。

 そこから出れば広い通りであり、これでは正面と裏が逆転しているようにしか思えない。

 それはともかく裏の抜け道があると便利なものだと、一刀斎は一人頷いた。

 一刀斎は上背うわぜいがあり人混みの中に入っても目立つが、この賑わい、不思議と一刀斎に目を向ける者はいなかった。

 掛けたまま札に関しては、ほとぼりが冷めた頃下ろすように頼んだから後で取りに来ればよい。

「さて……」

 番頭に渡された紙に目を落とす。

 世間に興味がなさそうな男だったが、さすがに小田原を支える北条家臣については記憶していたらしい。

 古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもんに会うためにこの街に来たと話したら、屋敷の場所を一筆紙に書いてくれた。これまたなかなか上手く出来ていて、小さい通りの一本一本まで正確である。

 あの暗い宿屋に籠もりっぱなしのようでいて、実はこの街のことをよく知っているのかもしれなかった。

 聞くところによると、古藤田勘解由左衛門という男は新当流の技の中でも、槍術を得意としているという。

 鹿島かしま香取かとりの鑓の凄みは、一刀斎も知っている。

 黒雲くもからはし雷撃らいげき一瞬いっしゅん七閃ななせん七支しちしに分かれる稲妻である。

 鹿島かしまの神は雷の神だというが、かつて見たあの鑓の技は雷そのもの。

 それでいてその鑓を放った雲林院うじい松軒しょうけんは、鑓よりも刀が得意だといい、その通り、刀の方が得意であった。

 刀槍二つに秀でた松軒は、新当流一門の中でもかなりの実力を持つ武芸者であることは、肌とこころで感じている。

 もしこれから会う古藤田勘解由左衛門の技が、かの入道雲が如き松軒ほどのものであれば――――。

「…………お」

 入道雲、という言葉でふと空を見上げる。そこには夏盛りの青空に広がる、眩しいほどに白い大雲がそびえていた。

 この小田原一帯を、そのまま空に押し上げて乗せることが出来るだろうほどの巨大な雲。

 それを見た一刀斎は、歩みの調子を少し早めた。それはあの大雲が、やりの前兆にも思えたからか。


「ふむ、ここだな」

 借りていた宿から古藤田勘解由左衛門の屋敷は、そんなに近いわけではなかったが、この広い小田原の中、存外早く辿り着いた。

 それも番頭から貰った地図のお陰である。示された通り進んでみれば、四半刻ほどで辿り着いた。

 塀の幅と門の大きさから察するに、それなりに大きな屋敷であることは察せられる。

 塀を眺めるついでに意識を屋敷の中へと巡らせてみるが、手練の気配は感じない。北条に仕える身ということでもあるから、勤めに出ているのやもしれない。

 本来ならば出直すところであるが、そこまで考えを至らせる前に。

「頼もう、古藤田勘解由左衛門殿はおられるか!」

 門を叩いて、敷地の中へと声を掛ける。

 中は見えないが広そうな屋敷、返答は遅れるかと思ったが、こちらに近付く足音と気配があった。

「はい、どなたでしょうか? 主様はいま、城に武術指南のお勤めへと行っておられますが」

 脇にある小門から出て来たのは、手に箒を持つ作業着姿の小僧であった。纏う意気が若々しい。十をいくつか過ぎたぐらい、もうじき元服といった頃だろう。

 団子っ鼻で少々抜けた顔付きをしているが、作業着の上からでも分かる。背丈は普通だが、しっかり鍛えている肉体をしていた。

 恐らく小姓なのだろうが、武術指南役の側に立つ身、鍛練を行っているのだろう。

「やはり、そうであったか……。おれは伊東一刀斎と言う。旅から三島に帰った折、古藤田殿がおれをたずねたと聞いてこの小田原まで……」

「伊東一刀斎様!?」

 最後まで言う前に、小僧が箒を落とした目を大きく見開いて、団子っ鼻の穴が膨らんだ。

「お、お話はお伺いしておりました! 勘解由左衛門様は廻国修行で名を上げるあなた様の名を聞いて、常からぜひ一度あいまみえたいと仰っていて……! 伊豆に向かったのも、その意気を押さえ込めなくなったからでして……!」

「……それは光栄だ。留守にしていて申し訳ないことをしたな。……しかしいないならば仕方ない。また改めて出直す」

「いえそんな! お上がりになってお待ち下さい! 日が傾く前には、主は戻ってきますので! ぜひとも! 稽古場もございます!!」

 そう言えば、今朝けさは日課の素振りを行えていない。この広い小田原、素振りのために人気の無い外まで出て、帰ってくるのは苦労するだろう。

 かといって街中で素振りなど目立つうえ、最悪警邏けいらの者に見咎められる。

 場所が借りられるのならば、それはありがたい

「……ならば、待たせて貰うとしよう」

「はい、どうぞ!」

 小僧は小門から敷地に戻り、内から門を開けた。かんぬきでも差してあったのだろう。

 塀の内側は、思ったよりも広かった。いや、屋敷自体の大きさはさほどである。それに対して、庭が広い。

 そしてその広い庭には庭木も池もない。緑の代わりに敷き詰められているのは、踏み心地の悪そうな土と砂利。日の熱を蓄えているのか、陽炎を発している。

 まるで風流ではない。だがしかし。

(武張っている)

 一刀斎は足を止め、その庭をしかと見詰める。

 その土に、汗が沁みているのが感じられる。古藤田勘解由左衛門は、この庭で日夜武を磨いているのだろう。

 点在する窪みの跡は、的でも立てているのだろうか。およそ等間隔、中心に立てばそれぞれ距離は一丈いちじょうほど。

 鑓の鍛練に使っていると見て間違いない。

(古藤田殿の体躯にも寄るが……)

 一丈ということは、得物の寸法は七尺から九尺の間だろう。短槍片手に走りながら振るうのならば、的の跡はもっとばらけているはずである。

「伊東様? どうなされましたか? 屋敷の裏に板間の離れがありますので、そこで稽古を……」

「いや、ここで構わん」

「しかし、今日は日の光も強く」

「古藤田殿も、ここでやっているのだろう」

 甕割かめわりの柄に手をやりつつ、土と砂利だけの庭に立つ。

 踏めば分かる。荒れて見えるこの庭の土は、しっかりと踏み固められている。日頃からこの庭を使証だろう。

 一刀斎の決意を固いと知るや、小僧はすぐに「左様ですか」と引いた。

「女中がいますので、冷たい茶を作るよう頼んでおきます」

「感謝する」

 屋敷の中に入っていく小僧を目で追うこともせず、返事だけを返す。

 この稽古場の整い度合い。小田原に訪れてから相当な錬磨を重ねていると見える。

 聞くところに寄ると古藤田勘解由左衛門は、北条の門戸を叩いて間もないという。一刀斎の代わりに仕官を誘われたというのなら、それこそ一年二年ほどであろう。

 その短い間に、この庭は野晒しの土と砂利の稽古場に変えられた。

 この稽古場に揺らめく陽炎はまさに、未だ見ぬかの武人の熱のあらわれである。

「……ふん」

 一刀斎の鼻が愉快げに鳴る。ここの主がどのような者かは分からない。

 だがそれでも、この場を見れば分かる。

 古藤田勘解由左衛門は、武にひた生きる武芸者に違いない。

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