東国の空編

第一話 夏の小田原

 天正十二年。その年の伊豆伊東の夏は、いつもよりも涼しく感じた。

「いま帰ったぞ」

「お、弥五郎やごろう。今回は早かったじゃねえか?」

 鳥居を潜れば、信太しんた竹箒たけぼうきで石畳を掃いていた。

 一応、この三島みしま神社じんじゃの主であるはずなのだが、掃除などと言う出仕がやる仕事をまだ日の高い内にやっている。

 理由はおおかた想像が付く。またなにかしらの仕事をさぼったその罰だろう。

「帰ってきたならよー、掃除手伝ってくんねえか? 落ち葉が尋常じゃあねえんだよ。ったく、なんで俺が掃除なんか……」

「心当たりは?」

「祭りの片付けすっぽかして利一と大助と博打してたら宵っ張りの朝寝坊、起きたら狩衣かりぎぬをカカシが着てて俺はカカシの野良着を着てた」

「相変わらずでなによりだ」

 信太は本当に、二十年前と呆れるほど変わっていない。面立ちも無精髭を散らしたぐらいで、ほとんどそのままのようにも思える。ふて腐れた顔で箒を使う姿など、かつてこの場所で何度となく見た。

 時勢がどれだけ移ろおうとも、この三島神社は変わらない。

 一つ変わったことがあるとすれば、織部おりべが完全に神主のしょくを下りたこと、そしてとじも、いつのまにか奥の庵を使わなくなったことだ。

「あら、帰ってきたのですね、弥五郎」

 人の話をすると、本当に人が来るという。

 手水舎ちょうずやの影から現われたのは、とじであった。

 ようやく顔に皺が出来はじめ、鋭かった目と口元が幾分か柔らかくなった。目や口だけでなく、態度も――――

「信太、先ほど見たときと全く同じ場所を掃いていますが、本当に案山子になってしまったのですかあなたは? 案山子は鳥獣避けであって落ち葉避けではないのですが?」

 ――――なんでもない。

 口調から冷たさはいくらかなくなったが、それでも手厳しいことには変わりない。

 さっきまで唇を尖らせていた信太は背筋を伸ばし、あちらこちらへ落ち葉をかき集めに足を動かす。

「……さて、弥五郎。あなたが旅をしている間にまたお客が来ましたよ」

「客? 誰だ」

「北条家の者と名乗っていました」

 北条。それは相模さがみの大名の名だ。

 最初の当主が相模に根付き、四代掛けてこの関八州を手中に収めつつある、文字通りの東国とうごく覇者はしゃ

 勇仁の士であった先代の後を継いだ現当主は、まつりごとに明るく、どうやら名将揃いであるらしい隣国とも対等に渡り合えている名君だと伝え聞いている。

 一刀斎もときおり相模に赴くが、訪れる度に発展している。

 そんな北条は以前、一刀斎が留守中に仕官の誘いを持ってきた。織田尾張守が死した年のことである。

「なんだ、また仕官の誘いか? すまんが今は気乗りがせん。また断って……」

「話は最後まで聞きなさい、弥五郎。今回は仕官の話ではなく」

 軽く溜め息を吐いて首を振る弥五郎を制止し、とじは遮られた話を続ける。

「――――天下の伊東一刀斎と、仕合をしてみたいとのことでしたよ」


 曰く、その男の名は以前一刀斎が仕官を断った後、代わりに北条家の武術指南として雇われた男だという。

 時が経ち、ふとしたときに一刀斎の話を聞きつけて、興味を持ったのだという。それ以上の来歴は語ることがなかったが、名前と流名だけは残していた。

 古藤田ことうだ勘解由左衛門かげゆざえもん俊直としなお。――新当流の使い手だという。

「新当流か……」

 思い出されるのはかつて京で出逢い、伊勢の山奥で肩を並べた武芸者。

 入道雲のような大らかさを持ち、雷霆らいていのような武技を誇る達人、雲林院うじい松軒しょうけんである。

 剣の道に悩みかけた一刀斎に、「綺麗な剣」を教えた男でもあり、一刀斎が敬う剣客の内の一人である。

 加えて新当流の名にはもう一つ覚えがある。

 熱田の宮での腕試しの際、剣を競った抜刀の名手、浅野あさの甚助じんすけ

 印象深いのは流星が如き抜刀のわざだが、あの剣士も確か、鹿島香取の新当流を修めていたはずである。

 雲林院松軒、浅野甚助。多くの武芸者と渡り合った一刀斎にとっても、より強く心に刻まれている武芸者である。

 そんな新当流の使い手が己と戦いたいと言うのだから、一刀斎も赴かずにはいられない。

 三島神社に帰ったその日にもう、古藤田勘解由左衛門が待つ相模へと出立しゅったつしていた。

 ……のだが。

「うぐ……やはりこれはいつになっても慣れん……」

 仕合をしたいならば相手を待たせるのも悪かろう、早く行けととじに凄まれ、一刀斎は船に乗ったのだ。陸路であれば何日か要るが、船であるなら伊東から相模へは一日の間に辿り着ける。

 商売をしている利一りいち伝手つてを通して相模行きの船に乗った一刀斎は、日が暮れる前には相模へと到着した。

 だが。

「おいおい、大丈夫かい旦那? 顔色が悪ぃぜ?」

 いつだか知り合った船乗りが、笑いながら見下ろしてくる。

 ここ数年、当てもなく廻国するとき船は極力避けていたせいか、久方振りになり多少あった慣れが消えた。

 いや、船には慣れたくなどはないのだが。やはり船は今後とも遠慮したい。

「アンタ、これから北条の武芸者と仕合するんだろ? そんなんで大丈夫かよ?」

「さてな……陸を歩いている内に気分も戻るだろう。そういえばお前は知っているか、古藤田勘解由左衛門のことを」

「コトウダ……? ……ああ、話には聞いてるぜ。元は安房国あわのくにの里見に仕えていたんだが、何年か前に里見が内々で争ったらしくてよ。そのゴタゴタの隙に暇乞いしたって話だ。んで、数年修行して、北条に誘われて今では武術の指南役に……だったかねえ?」

「詳しいな」

「商人と付き合いがあると色々情報ネタが入ってくるんでな。そっちの旦那にもよろしく伝えといてくれよ」

 どうやら利一との縁が能く動いてくれているようだ。船の労と合わせてどっこいである。


 港にいると潮風を浴びる。潮の臭いが嫌いな一刀斎は、港に居続けると気分が回復しないと小田原の街に入った。

 小田原の街は以前三浦に訪れる際通りがかったことがあるが、この栄えぶりは、西の都である京を遥かに凌ぐだろう。

 賑わう人々の多さもそうだが、華やぐ人が、街が、延々遠くまで続いている。

 京の街も広いが、その気になれば一日で端から端まで歩くことも可能だが、この小田原はそうではない。

 京の街はあくまで、しかしこの小田原は、相模という自体が繁栄していると言って過言ではないだろう。

 日の本の中心は将軍のいる――いや、将軍が――京だろうが、最も平穏で、かつ隆盛を極めているのは、この東の都で間違いない。

「とかく、宿でも取るか……」

 夏の日は長いとは言え、そろそろ日が落ちる頃。この時間に古藤田某の元に赴いても迷惑になるだけだろう。

 加えて三島に戻ったのもつい先ほど、長い旅ではなかったが、船に乗った後の調子の回復が悪い。旅疲れがまだ残っているのかもしれなかった。

 古藤田某の技倆ぎりょうがどれほどのものかは分からないが、分からない故に、心身を万全に整えておきたい。

「ここでいいか」

 通りを一本曲がった一刀斎が目に付けたのは、ひっそりとした宿屋である。大きい道からも反れ、店構えも質素で人目をあまり引かない。

 戸の前に立っても道の喧騒けんそうの方が耳に届き、客もいないようだ。

 一刀斎はうんと頷き、戸を開ける。

「いらっしゃい」

 戸を開ければ土間は驚くほど狭く、番頭ばんとうが座る番台ばんだいがすぐ目の前にあった。

 番頭の声はハッキリとしているが愛想はなく、一刀斎を見ることもなく、暇そうに木目を指でなぞっていた。

「一晩宿を借りたい。飯は要らん。余所で食う」

「なら安くしとくよ。今日はアンタしか客もいないし、なんなら襖外して一部屋使ってくれても構わんよ」

「えらく適当だな」

「金には困ってないし、ほとんど道楽でやってるもんでね。……おわ、旦那背がでけえな」

 ようやく顔を上げた番頭は一刀斎より多少年上ぐらいだろうか。一刀斎の上背に一瞬目を丸くしたが、それだけ。それ以降なにを聞くでもなく、前払いだと銭を求める。

 一刀斎はそれに応じつつ。

「宿を取るついでに一つ頼みがある。コイツを、軒先に掛けさせてもらうぞ」

「うん……? なんだいそりゃあ」

 一刀斎が背負った風呂敷から取りだしたのは一枚の木の板。彫られ、墨入れされた文字で、「天下一剣術之名人 伊一刀斎」と書かれていた。

「伊藤一刀斎……一刀斎…………ああ、噂は聞いたことがある。あんたが伊豆の剣豪様か」

「なんだ、知っていたのか」

 剣を知って二十年、旅を初めて十余年。その廻国修行で、気付けばこのような市井しせいの者にも名が知れるようになっていたらしい。

 しかしそれも当然である。

 一刀斎は行く先々、泊まる旅籠はたごに必ずこの札を掲げていた。

 お陰で血気盛んな無頼や武芸者に勝負を挑まれる事も多く、その都度その都度、懇切丁寧に

 旅籠には当然他の客も泊まっており、宿場街であれば旅人も見ている。一刀斎の名が広まって当然である。

 肝心の名が、「伊藤」と覚えられているが。

「まあ、この小田原で問題を起こそうって輩はいないだろうし、さっきもいったとおり他に客もいない。別に下げても構わんよ、俺は」

「感謝する」

 一刀斎は一度外に出ると、手慣れた手付きで札を掛ける。ここは往来から外れているし、誰かの目に止まることもないだろう。

 ――――と、その日は思っていたのだが…………。

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