幕外 七

「ふざけてんじゃねえぞテメエ!!」

 食いかけの膳が、叩き割れ、続いて投げつけられた椀が、印牧かねまき弥六左衛門やろくざえもんの額に直撃する。

 弥六左衛門は避けることもせず、真正面からそれを受ける。

 椀を投げたのは、印牧かねまき通家みちいえである。

 通家の剣幕に、今し方広間に入ってきた小姓こしょうはすっかり腰を抜かし、後ずさりして縁側から庭へと落ちる始末。

「テメエ、左衛門さえもん! 知ってやがったのか、知ってやがったんだろ! なあ!」

 畳に落ちた魚を踏み潰しながら左衛門へと寄り、膳を蹴り上げて掴みかかった。

 弥六左衛門は椀が当たった額から赤い血を垂らしながらも、凄む通家から目を逸らさない。

 この赫怒かくどは、小姓がもたらした一報いっぽうにより燃え上がったもの。

 印牧分家のせがれである、印牧かねまき弥二郎やじろう弥三郎やさぶろう両名が孫次郎に命じられた富田一門――――その末尾も末尾の集団に謀殺されたこと、そして、助右衛門らの屋敷、全焼の知らせである。

「テメエ一度、弥二郎とすれ違ったとき、忠告したそうじゃあねえか。なら! 知ってたんだろ! あの孫次郎クソガキ分家おれらに怨みを抱いてたことを! なんとか言えや!!」

「よい」

 怒りで肩をそびやかし、眼瞼がんけんが裂けんばかりにまなじりを決する通家に、その場にいた全員が動けない。その気の圧に、抑え込まれて呼吸さえもままならない。

 そんないわおに声を掛けたのは、老公ろうこう印牧かねまき広家ひろいえである。

 しかしながら。

詰問きつもんなど、無用。ここにいる全員、斬り捌くだけでよい……!!」

 それは決して、制止などではなかった。

 この場にいる印牧本家の一門郎党は、戦の経験は多々あるがそれでもこの殺意あつに、抗うことが出来なかった。

 この場にいる全員が、己の死を覚悟する。

「当然分かっていた。若殿本人から聞かされていたからな」

 そんな中、弥六左衛門が口を開く。その舌が弾き出した言葉に、通家と広家は瞬間脇差を抜き放つ。

「――他に、言うことはねえか」

「辞世の句でも詠もうものなら首をこのまま斬り捨てるぞ」

 厚い胸と、太い首、それぞれ残り一寸と言うところで刃は止められる。

 額から滴る血が、首に突き付けられた脇差に落ちた。刀身にあかが触れるのを見て、郎党達は息を飲む。

「……分かれたとはいえ、印牧そちらには情もある。だがしかし、朝倉に対する義も俺にはある。その二つを秤に掛けても、揺れるだけでどちらか一つに傾くことがなかった」

「そして結局、秤だけ揺らしてテメエ自身は動かなかったってのか」

 二つの刃が、髪の毛一本入る隙なくその身に触れた。

 それでも傷が付かないのは、ひとえに通家、広家の技倆ぎりょうが成せる技なのか。

 動けば逆に身を傷付けるこの状況で、弥六左衛門は微動だにしない。

 一族と主の板挟みに合い、動かなかったいまのように。

「……その通りだ。俺は、なにもしなかった。秤が傾かなかった以上、心が己に命じなかった以上、動くことが、出来なかった」

「……のう左衛門、貴様は義と言ったな」

 老い、肉の落ち始めたその腕は、それでも刀をしかと支える。心と刀の橋渡しを、しかとしている。

 言葉を発してなお、刃は弥六左衛門を傷付けない。

「あんな小童こわっぱに立てる義など、どこにある。主家であるから立てる義など、それはもう義理はない。もはや責務に成り下がっておるだろうが。貴様のその忠に、意味などはないだろう」

 耄碌もうろくの身などでは、決してない。眼光も、胆力も、そして人道の明るさも、印牧広家は身に付けている。印牧の、富田流の剣士として、心を強靱に鍛え抜いている。

「左衛門よお、俺はテメエの剣腕は買ってる。だが今回のことで分かったろ、一乗谷ここにいればその技倆、いつかこぼされ潰されるぜ。それを判じる脳も能もなかったか? ただ鍛練が厳しい程度で殺すほど怨むような幼稚ようちな小僧の悪心が、貴様に向くかとは考えなかったのかよ? ああ?」

「それはない」

 通家のいに、弥六左衛門は素早く答える。密着した刃が肌を裂くより早い返し。

 その言葉にも、眼光にも、確信が宿っている。

「若殿はには決して手を出さない」

「甲羅だと?」

「若殿は玄武げんぶのようなものだ。悪性のな」

 玄武。大陸に於いては武威あらたかなる瑞獣ずいじゅう。この日本に於いても妙見菩薩に縁あり、東国の軍神いくさがみと並び奉る武人も多いその神性。

 およそあの、武を厭う暗愚に使うとは思えぬ形容。ではある。

 だが。

「あの小僧が亀であるというのは、納得じゃのう……」

 通家も、広家の頷きに同意する。なにより以前、通家自身が孫次郎を差して「亀」と例えた。

「この越前、一乗谷という甲羅に籠もり、平穏のみを求める。更なる発展を放棄し、ただ現状の繁栄に、ただながく浸ることを考える。…………そしてその安寧を邪魔する者に対する怨念は、蛇の如く深く暗い」

 亀と蛇。故に玄武。

 だがしかし瑞獣としての性質などそれにはない。外見だけの別物である。

「俺は、若殿を邪魔しない。俺達の役目はこの越前を守ることだからだ。越前こうらを守るものを欠かそうなど、あの男は全く思わん」

 己の利と情に、なにより重きを置くその姿勢。狂暴さと傲慢さをはらんだ消極性。それを弥六左衛門は、しかと見抜いている。知っている。

 通家と広家が辺りを見渡せば、郎党達は同意の沈黙。

 その様子で、ようやく気付いた。通家たちは、孫次郎のことを何一つ理解していなかったのだ。彼ら印牧分家の者達は、孫次郎をただの軟弱な小僧としか見ていなかった。

 だからその狂暴さに、気付かなかった。その片鱗を知ってなお、あなどってしまっていた。

 ――――傲慢なのは、己らの方だったのだ。


 印牧分家の屋敷のように、印牧本家にも裏の抜け道がある。この存在は、朝倉の者達も知らない。

「せめて御身らは」と、弥六左衛門によって使うことを勧められた。

 抜け出てみればそこは山中であり、木々の合間からは城下町が見える。

 そして武家町と、民の町。その端境はざかいからは、未だ黒煙が立ち上っていた。

 あそこは、自分らの屋敷があった場所だ。

「…………クソが!!!」

 吐き捨てながら、身近な木を殴りつける。修めた心法を今は忘れ、留めない怒りを巻き散らかす。幾度となく、木を殴る。幹が剥がれ、通家の手の皮も破れていく。

 それでもなお、怒りが尽きることなどない。

 助右衛門は、家族に対する情が深い。せつのあの難産ぶりを思えば、捨て置くことなくその場に残り続けたことは容易に想像できた。

 あの天を焦がす、空を付くほどの大炎が如き大上段。火花を散らす、究極の兜割り。

 その火種は、あの火災に飲まれて死んだ。

「……人とは、武芸者とは、かくもみにくいものか」

「あれが武芸者と言えるかよ! あんなのはただの虫螻ムシケラだ、垂れ流されたクソに群がるだけの、糞食虫くそくいむし共だ!」

「……我らのように、武を愛し高めることを望む武芸者こそが、武芸者ではないのやもしれぬ」

 今まで荒ぶっていた通家の感情が、吹き抜けた悪風あくふうによりいだ。

 矍鑠かくしゃくとしていたはずのおきなの声から、力強さは消えている。一気に老け込んだようにも見えるが、その目は、暗くも力強く照っている。

 世を、武芸者ひとを、いとうらむ暗い情念のみが、言葉の芯となっていた。

「……わしは、このままどこかの山に潜む。――――そうでもしなければこの二刀にとう、人と見ればりかねん」

 着いてくるなら貴様だろうと殺す。

 広家はまるで、そう言っているようだった。

 この翁は、人生の半分をとうの昔に越している。その身でこの時期、山中にるなどどうなるかは明らかだ。

 だが。

「そうかよ。じゃあ、達者でな」

 そんな老体と、共に過ごすつもりは毛頭なかった。

 じじいの介護などゴメンだと、広家とは違う場所を目指す。

 印牧分家は、既に滅びたのだ。滅ぼされたのだ。

 広家が山だというならば、自分は海か。海と言えば、隣国となり近江おうみには巨大な内海うちうみがあるという。そこには、よい真砂まさごもあるだろう。その上で振るう剣はきっと、心地良い。

 己は、もはや独りだけ。自らの力で生きて行けばよい。

「……自ら、か」

 ふと足を止めた通家は、腰の小太刀を引き抜いて、手近な木に斬り付けた。

 永字八法、止め跳ね払いも出来ぬきっさきふでに、文字を刻む。

 刻まれた文字は、「自斎」の二字。「おのれすみかとす」という、一つの決意。

「――――これが、俺の名だ」

 印牧かねまき自斎じさい

 今は潰えた武の印牧、その、最後の一人たる男である。

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