幕外 七
「ふざけてんじゃねえぞテメエ!!」
食いかけの膳が、叩き割れ、続いて投げつけられた椀が、
弥六左衛門は避けることもせず、真正面からそれを受ける。
椀を投げたのは、
通家の剣幕に、今し方広間に入ってきた
「テメエ、
畳に落ちた魚を踏み潰しながら左衛門へと寄り、膳を蹴り上げて掴みかかった。
弥六左衛門は椀が当たった額から赤い血を垂らしながらも、凄む通家から目を逸らさない。
この
印牧分家の
「テメエ一度、弥二郎とすれ違ったとき、忠告したそうじゃあねえか。なら! 知ってたんだろ! あの
「よい」
怒りで肩を
そんな
しかしながら。
「
それは決して、制止などではなかった。
この場にいる印牧本家の一門郎党は、戦の経験は多々あるがそれでもこの
この場にいる全員が、己の死を覚悟する。
「当然分かっていた。若殿本人から聞かされていたからな」
そんな中、弥六左衛門が口を開く。その舌が弾き出した言葉に、通家と広家は瞬間脇差を抜き放つ。
「――他に、言うことはねえか」
「辞世の句でも詠もうものなら首をこのまま斬り捨てるぞ」
厚い胸と、太い首、それぞれ残り一寸と言うところで刃は止められる。
額から滴る血が、首に突き付けられた脇差に落ちた。刀身に
「……分かれたとはいえ、
「そして結局、秤だけ揺らしてテメエ自身は動かなかったってのか」
二つの刃が、髪の毛一本入る隙なくその身に触れた。
それでも傷が付かないのは、ひとえに通家、広家の
動けば逆に身を傷付けるこの状況で、弥六左衛門は微動だにしない。
一族と主の板挟みに合い、動かなかった
「……その通りだ。俺は、なにもしなかった。秤が傾かなかった以上、心が己に命じなかった以上、動くことが、出来なかった」
「……のう左衛門、貴様は義と言ったな」
老い、肉の落ち始めたその腕は、それでも刀をしかと支える。心と刀の橋渡しを、しかとしている。
言葉を発してなお、刃は弥六左衛門を傷付けない。
「あんな
「左衛門よお、俺はテメエの剣腕は買ってる。だが今回のことで分かったろ、
「それはない」
通家の
その言葉にも、眼光にも、確信が宿っている。
「若殿は甲羅を守るものには決して手を出さない」
「甲羅だと?」
「若殿は
玄武。大陸に於いては武威
およそあの、武を厭う暗愚に使うとは思えぬ形容。ではある。
だが。
「あの小僧が亀であるというのは、納得じゃのう……」
通家も、広家の頷きに同意する。なにより以前、通家自身が孫次郎を差して「亀」と例えた。
「この越前、一乗谷という甲羅に籠もり、平穏のみを求める。更なる発展を放棄し、ただ現状の繁栄に、ただ
亀と蛇。故に玄武。
だがしかし瑞獣としての性質などそれにはない。外見だけの別物である。
「俺は、若殿を邪魔しない。俺達の役目はこの越前を守ることだからだ。
己の利と情に、なにより重きを置くその姿勢。狂暴さと傲慢さを
通家と広家が辺りを見渡せば、郎党達は同意の沈黙。
その様子で、ようやく気付いた。通家たちは、孫次郎のことを何一つ理解していなかったのだ。彼ら印牧分家の者達は、孫次郎をただの軟弱な小僧としか見ていなかった。
だからその狂暴さに、気付かなかった。その片鱗を知ってなお、
――――傲慢なのは、己らの方だったのだ。
印牧分家の屋敷のように、印牧本家にも裏の抜け道がある。この存在は、朝倉の者達も知らない。
「せめて御身らは」と、弥六左衛門によって使うことを勧められた。
抜け出てみればそこは山中であり、木々の合間からは城下町が見える。
そして武家町と、民の町。その
あそこは、自分らの屋敷があった場所だ。
「…………クソが!!!」
吐き捨てながら、身近な木を殴りつける。修めた心法を今は忘れ、留めない怒りを巻き散らかす。幾度となく、木を殴る。幹が剥がれ、通家の手の皮も破れていく。
それでもなお、怒りが尽きることなどない。
助右衛門は、家族に対する情が深い。せつのあの難産ぶりを思えば、捨て置くことなくその場に残り続けたことは容易に想像できた。
あの天を焦がす、空を付くほどの大炎が如き大上段。火花を散らす、究極の兜割り。
その火種は、あの火災に飲まれて死んだ。
「……人とは、武芸者とは、かくも
「あれが武芸者と言えるかよ! あんなのはただの
「……我らのように、武を愛し高めることを望む武芸者こそが、武芸者ではないのやもしれぬ」
今まで荒ぶっていた通家の感情が、吹き抜けた
世を、
「……
着いてくるなら貴様だろうと殺す。
広家はまるで、そう言っているようだった。
この翁は、人生の半分をとうの昔に越している。その身でこの時期、山中に
だが。
「そうかよ。じゃあ、達者でな」
そんな老体と、共に過ごすつもりは毛頭なかった。
印牧分家は、既に滅びたのだ。滅ぼされたのだ。
広家が山だというならば、自分は海か。海と言えば、
己は、もはや独りだけ。自らの力で生きて行けばよい。
「……自ら、か」
ふと足を止めた通家は、腰の小太刀を引き抜いて、手近な木に斬り付けた。
永字八法、止め跳ね払いも出来ぬ
刻まれた文字は、「自斎」の二字。「
「――――これが、俺の名だ」
今は潰えた武の印牧、その、最後の一人たる男である。
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