第十六話 初秋と瑠璃と女医者と

 元亀げんき三年、徐々に権力を高めていく織田おだ尾張守おわりのかみと、現行将軍である足利義昭あしかがよしあきの対立が深まる京の秋。

「そういえば、知ってるか?」

「ん? ああ、四条ここに医者が越してくるって話か」

 整備せいびが進む京の街で、世間話せけんばなしに興じる男たち。

 秋風はまだ夏の暑さを帯びていて、山も夏の緑を残している。

 男達は、汗を拭って冷やした茶を渇いた喉に流し込んだ。

「ありがたいなあ。仕事で怪我する連中も多いし、これから寒くなるからなあ。風邪引いたときにゃあ厄介やっかいになるな」

「たしか、あそこの空き家だよな。二階ある。人足が荷物を運んでたな?」

「ああ。いったいどんな先生が……」

「すまない、少し良いだろうか?」

「おう? なん――――」

 男達の眼前に、夜が現われた。

 夜色の髪をして、満ち月のように白い顔。素の表情でも、穏やかな笑顔を湛えている。

 男達は、間抜けな顔で呆けてしまった。

 目の前に、天女てんにょでもまろび出たのかとさえ錯覚して。

談笑だんしょうちゅうのところ申し訳ない。この近くに新しく医院いいんが出来ると思ったが、どこ…………どうかしたか?」

「――――あ、いやなんでも!」

 ハッとした男達が、揃って手を振りあたまを振り。ぶれる顔は赤くなり、なんともだらしない顔をしている。

「で、えっとその医院……診療所か? そりゃあそこの路地の一つ向こうだよ、人足がいる」

「む、そうだったか。一つ通りを間違えたんだな……。ありがとう」

「いやいや、お役に立てたようでなによりで!」

「医者に用事だなんて、薬でも買うのかい?」

「だけど、あそこはまだやっちゃあいないぞ?」 

「まあ、そうだろうな」

 女は打掛の内側から、緒紐おひもを一本取りだして、星羅せいら散らばる髪を纏める。

 男達は、はてと首を傾げた。

「自己紹介が遅れた。の月白だ。……なにか不調があれば、すぐに来てくれ。持ちうる知識を以て、確実にいやすよ」


「それじゃあねえさん、これは……ここでいいかい?」

「ああ、ありがとう」

 人足が、平たい板を居間に置いた。月白は礼を言いつつ、箱階段の中をあらためている。

 薬をしまうところだ。虫やネズミが入り込める穴が空いていれば食われかねない。

「しかし、大丈夫かい? 確かに今の京は落ち着いちゃいるが、あんたみたいな別嬪べっぴんさんが一人暮らしってのはなあ……」

「さてな、護身ごしんすべくらいは持っているが」

 帯から取りだしてヒラヒラと見せたのは、黒いおうぎ鉄扇てっせんである。

 かつてに手渡したものと、同じもの。

「そうは言ってもなあ……姉さん、元は上京かみぎょうに住んでたんだろ? なにしに下りてきたんだい?」

「私のやりたいことは、一つだけだよ」

 棚を確認し終えた月白は、居間の上がり口まで歩んで人足に置かせた板を立てる。

 そこには墨で塗られた彫り文字が刻まれていた。

「“醫術處いじゅつどころ瑠璃光るりこう”。私はここに、医者をやりに来たんだよ」

 紐をほどけば、艶めく髪に星羅が生じる。白磁はくじのような白い顔が、満天の星に浮かぶような望月もちづきのようにも見えた。

 月白という女は、夜が持ちうる妖しい艶やかさ全てを、身に宿しているようである。


「はあ、お医者様……女だてらに大したもんだなあ」

「こう見えても医聖いせい曲直瀬道三の技をっている。腕は確かだぞ」

 月白はこの京、ひいては日の本随一ずいいち医者いしゃひじり曲直瀬まなせ道三どうさんめいであり、その医術の腕を盗み続けてきた、「天下一の医者」を目指す女である。

 胸を張る月白は、人足に賃金を渡す。なかなかの良貨りょうかであり、うんと頷いた人足はそれを懐にしまった。

「この辺は、三条に次いで整い始めているから、人も増えるでしょう。お医者様がいれば、ありがたいでしょうな。それじゃ、手前はここで失敬しますよ」

「ああ、ありがとう。世話になったよ」

 家屋、改め、診療所を出て行く人足を見送って、「さて」と月白は土間に下りる。

 奥を見れば、天窓から光が漏れていて、通り庭は思ったより明るい。

 部屋は二階も合わせて全部で六室ろくしつ。一番手前は診察室しんさつしつとして、二の間は居間か。一番奥の座敷は安静が必要な患者の休む部屋として……。

「うーむ」

 通り庭を歩き、かまどを見る。古いが、悪くない。大きい鍋も置けそうだ。飯は滋養の第一である。良いものを作るには良い火が必須だ。

 そのまま庭に出れば目の前にはかわやと、小さな倉がある。

 月白はおとがいに手を当てて、倉をじっくり見遣る。……風呂に改造するのも悪くないかも知れない。いや、改造しよう。

「さて、これから忙しくなるな……」

 未だに蒼い空を見上げて、ひとちる。

 いつの時代も、医者というのは必要ひつようとされている存在だ。

 今の今まで培った医術を、発揮はっきする時が来たのだ。

 「全ての病毒を癒す天下一の医者」と成るために。

 との約束ちかいを成すために。

 月白は、伯父の道三が医学を教授する啓迪院けいてきいんから飛び出したのだ。あそこでは、月白の願いは叶えられることが出来ないから。

「さて」と月白は、部屋に置きっ放しにしていた薬種の整理をするために、屋内に戻る。

 開けた裏戸うらどに、秋風が一緒に入り込む。それは秋にしては、温みのある風だった。


「…………暇だな」

 四条に診療所を開いて二日、今日はまだ客は来ない。

 昨日は、老婆ろうばが関節の痛みを訴えてきて薬を処方した後、長い世間話に付き合って終わってしまった。

 別に世間話は嫌いではない。この街に来たばかりの月白にとっては、ここを知るタネになるし、些細ささいな話でも拾えば診療しんりょう診断しんだんの助けになるものだ。

「ま、暇が一番なんだがな、私の仕事は」

 仕事が欲しいと願ったならば、それこそ薬師如来の仏罰が下る。病人怪我人がおらず、医者が暇で昼寝をする。そういう世の中が一番良い。

 月白は戸を眺めるのをやめて薬研やげんを引っ張りだし、薬棚から種を取る。

 ただ時を浪費するよりは、漢方の一つや二つ作り備える方が有意義である。

 さてなにを作るかと、箱階段を開けようとしたちょうどその時。

「た、大変だ先生!」

 戸を開けて飛び込んできたのは、三人の男達。京の工事に追従している職人達だ。つい先日、道を尋ねた覚えがある。

 二人が一人を左右から担ぎ上げて、担がれた男は呻きながら、顔をしかめている。

 月白は切れ長な目を見開いて、「いったいどうした」と打掛を着直す。

「なんだ、病気か、怪我か?」

「いやさ、コイツ、いきなり身体が苦しいって転がりだしてよ……」

「先生え、助けてくれえ……!」

「取り敢えず、横にしてくれ」

 担ぐ男達を促して、歯を食いしばる男を座敷に寝かせる。苦痛はどうやら急性で、だいぶ強いものらしい。

 問診もんしんは難しいだろう。ならば患部に触診しょくしんだ。

 月白は慌てず騒がず、心を落ち着かせて男にたずねる。

「苦しいのは、ここか?」

「いや、下だ……!」

「なら、の辺りか」

「もっと、もっと下だ……!」

 細い指を男の身体に当てながら、言われるとおり下に下にと手を伸ばす。

 上腹部、へその上、臍の下、下腹部……。

「いや、その下だ!」

「この下……って」

 月白が目を向けたのは、腰の下、腿の上。両足の付け根の、その間。

 ……麻の布地が、なんとも不自然に盛り上がっている。

 そこで月白ははたと気付いて、目玉だけを動かしながら、男達の様子を探る。

 すると、盗み見られているのに気付いていない抱えてきた男達の下卑た表情と、苦悶の表情を浮かべる男の口の端が、微妙に上がっているのが見えた。

「……はあ、なるほど」

「どうした、先生、そいつはその下と」

「ああ、分かった。ここだな」

 努めて不安な振りをしている男が言い切る前に、月白は男の服を剥ぎ取った。

「え、な」

「ちょ、先生」

ふんどしが邪魔だな。剥がせて貰うぞ」

 戸惑いの声も無視して剥ぎ取れば、固く尖った逸物いちもつがある。丁寧に洗ってきたのだろう、汚れも垢もまるでない健康的な男根である。

「ふむ、見たところ悪いところはないな。触診を続ける」

「ま、待ってくれ先……ひぎっ!?」

 持ちうる力を込めながら、月白は男の逸物を握りしめ、左右上下にぐりぐりねじ回す。

「股ぐらにあるのは、これだけではないよな」

「おごぉ……!?」

 人間―男に限る―が唯一外に露出した臓器である、垂れ下がった睾丸こうがんを、あまりにも不躾ぶしつけに、乱雑らんざつに握る。

 生まれ持った宝物をほしいままにされた男の目は、目玉が飛び出しかねないほどに飛び出して、声にもならない悲鳴を上げて爪を畳に食い込ませている。

 さっきまで笑いを堪えていた男達もそれを見て、股間を押えて顔を真っ青にして怯えきっていた。

 男にとって、絶世の美人に己の逸物を握られるのは至上の喜びなはずなのだが、いま起きているのはそんな甘美かんびなものではない。

 情を介さない、ただの診察しんさつである。

「ふむふむなるほど、だいたい分かった」

 逸物から手を離した月白は、濡れ布巾ふきんで手を拭いた。

 拷問のような触診から解放された男は息も絶え絶えで、目を真っ赤に腫らしてだらしなく涙さえ流している。

 壁際まで退いて、情けなくも肩を抱き合っていた連れの二人は、「大丈夫か!」と駆け寄った。

「あ、あんたなんてことを」

「診察結果だが、残念ながら彼は病にかかっているらしい」

「え」

 自分らのやったことを棚に上げて、怒鳴りつけようとした矢先、月白が直裁ちょくさいに述べた言葉に絶句する。

 そんなはずはない、自分達はただ……。

「彼だけではない、あなた達もだ」

「な、え、はいぃい!?」

 怒鳴るはずの口から出た声は、なんとも間抜けな悲鳴である。

 自分達は診られていないはずなのに、あの艶やかな女医はスパリといった。

邪淫じゃいん妄語もうご。正しい関係にない相手に対し欲情し、淫行するため嘘を吐く。それは間違いなく、欲の暴走だよ」

「そ、それは……」

「ああ、確かに誰だって欲はあるし嘘は吐く。しかしな、ただ一時生じた気の迷いで、他人をおとしめてしまっては遅いのだ。……あなた達は、前に道を教えてくれただろう?」

 艶があるが、女にしてはやや低く、心に深く染み入る声で月白は男達をさとす。

 思わず聞き惚れてしまった男達は、ハッとしていに「ああ」と頷いた。

「なら、平時のあなた達は親切なんだろう。私は、それに触れたから知っている。あなた達がいたから、この辺りは良い場所だと思った。私は、あなた達の良心を知っている。信じている。……だから今さっきのあなた達の振る舞いは、病毒がもたらした気の迷いだよ。残念ながら薬はないが……しっかり、養生ようじょうしてほしい」

 最後に月白は、男達が抱いていた汚い欲情とはまるで真逆の、清らかささえ宿った頬笑みを浮かべて告げる。

 男達はその頬笑みが、青白い月の光を発しているように見えた。薬師如来が愛するという、瑠璃色の光を纏っているかのように見えた。

「……ああ、ありがとう、ございました!」

 そして気付けば平伏して、涙さえ浮かべている。よもや、まさか、自らをけがそうとした相手をさとし、慈しみ、更には善性を信じてくれるという。

 なんと懐が深いのだろうと、御仏みほとけの心を抱いたお方だと、すっかり観念かんねん戒心かいしんした。

「うん、分かってくれたなら良いんだ。今日は、もう帰りなさい」

「ええ、ええ、大変、失礼しました!」

 さっと起き上がった男達は、感心しきった様子で戸から出て行った。

 ……男達全員三人とも、月白が好き勝手股間の逸物を乱暴に扱ったことなど、頭から綺麗さっぱり抜け落として。


 ……ここまでは、後に現世げんせい大医王だいいおう眷属けんぞくと名乗る彼らが知っていることではあるが。

「ふう……」

 男達が帰った後、月白はしっかり手をそそぐ。患者かんじゃに触れたら清潔せいけつに。相手が汚穢おあいを持つ可能性も考慮して、誰かに感染かんせんさせてはいけない。

 綺麗に洗った自分の手を、開けて閉じて、やんわりと見る。

 月白が思い出していたのは、今さっき握っていた男のモノではない。

「……あいつのモノは、本当に特別だったんだなあ」

 六年前、数日ばかり、共に過ごした男である。

 今もきっと天下のどこかで、剣を振るっているんだろう。

 天下一の、剣豪を目指して。

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