第十二話 赤色
京に来てから
山の
「……あの山の葉を全部燃やせば
「
「お前が楽しんでいるのは
一足先に顔を洗い終えて、隣で食事の準備を進めている月白は眉間に皺を寄せている。
昨日も昨日で
なんだかんだいって、一刀斎はすっかり月白の家に住み込んでいた。
あの日武芸者がここに上がり込んで以来、月白にも協力して貰い宿を探していたがどうにもこうにも上手く行かず。
結局、今も月白に厄介になってしまっていた。そもそも、月白はあまり熱を入れて探している素振りがない、
「そういえば、
「
月白は味噌汁の味を確認して、「うん」と頷き
ちょうど
冷え切っていた顔が、一気に蒸れた。
「蓮芽も久々の休みだからな、今日は、あの子と街を散歩にでも行くと良い。
「散歩か……」
目の見えない蓮芽を連れ立ったのは、初めて出逢いここまで送ったあの夜以外なかった。
どうやら蓮芽は人気の
それでも、彼女は疲れた顔一つしない。口元はいつもほころんでいて、穏やかに頬笑むだけ。
それでも座は
「……行ってみるか」
「じゃあ、今日はあの子を任せたよ、一刀斎」
「そういうお前は休まないのか?」
「医者に休みはないからな。今日は往診の予定がある。さて、朝食も出来たし食べようか」
いつの間にか自分用になった来客用の大茶碗と、自分用の普通の茶碗に
「
「ええ、大丈夫です」
あの後、食事を終えたらちょうど蓮芽が起きてきた。
蓮芽の食事が終わるのを待って、散歩に誘えば蓮芽は一も二もなく了解した。
「散歩は、好きなのか?」
「はい、誰かに手を引かれないと、出来ませんけれども。……今日はお付き合いいただいて、ありがとうございます」
「いや、構わん。誘ったのは元よりおれだ」
顔を傾げて、
こちらを覗き込むその顔には、いつもしていた蓮の葉の刺繍が施された
しかし薄い瞼は結ばれたまま、まるで縫い付けられているように微動だにせず、瞳まで見せようとはしなかった。
蓮芽は一刀斎の袖を細く小さな手でしっかり掴んで、一歩一歩、ゆっくり進む。
京の
「蓮芽は、なぜ散歩が好きなんだ?」
景色が見えるわけではないだろう、と言いかけながら。ハッとして言葉を飲み込んだ。
「……空気が、好きなんです」
鈴を転がしたような、柔らかな
「確かに、秋の空気は涼しいな」
「ええ、その空気も、なのですけれど」
ふと足を止めた蓮芽が、周囲を見渡すように
「……人が放つ、空気が好きなんです」
「それは、気配のことか?」
「はい。例えば……あっちに腰掛けている人たちがいませんか?」
蓮芽が顔を向けた先では、軒下に付けられた折り畳みの
「あの人、男の人なのに、子どもの面倒を見るのが好きで、いつもああやって、子どもを連れ立って、遊んでるんですよ。その時の、子ども達の心が、とても賑やかで」
そういえば、蓮芽と初めて会ったとき、彼女は「心の質」というものが分かると言っていた。
当人が思った感情の、発する気配に触れているのだと。
「それから、あちらの女性、ですけど」
わずかに蓮芽が顔を反らすと、その先は家三つ分離れたところ。
頭に布を巻いて、その上に駕籠を乗せた物売りの女がいる。どうやら、栗や飴を売っているらしく、
だがその
「……あの男の方に向いているな」
「はい。しっかりと」
「きっと、気になる男性なんだと、思います。きっと、楽しそうな笑顔が、素敵に見えたんでしょうね。私には、その顔は分からないんですけれど。……それでも、あの人の朗らかさは分かります」
正直、男の
ただそれでも厭らしさはなく、
「きっと、あの
「……ああ、そうだな」
「他にも、えと、あそこのご夫婦は、いつも喧嘩していますけど――」
人と人とが
人々が織り成す感情が混ざり合い、生み出す
蓮芽が散歩に求める「空気」とは、これを示しているのだろう。
さながら、月白が酒の肴に紅葉や月と親しむように、彼女は目が見えなくても、人々が持つ固有の気配を感じ取って道を歩んでいるのだ。
それが極めて特異な、優れた才覚であることは察する事が出来る。
彼女はきっと、人を心から好いているのだろう。そうでもなければ、人がそれぞれ放つ気配を判別することなどとうてい出来ない。
「お前は、凄いな。気配で誰か分かるとは」
「……そう、でしょうか? 私にとっては、顔のような、ものですから。……でも確かに、覚えるのは、ちょっと大変かもしれませんね。…………あ」
身に凍みるような
秋の陽射しに照らされた紅葉の赤が揺らめいた。それは山川と揺れたようでもあり、山全てが、燃え立つ炎になったかとさえ思った。
「――綺麗、ですね」
「…………なに?」
山を見上げて、蓮芽がポツリと呟いた。
瞼は閉じているはずなのに、日の光を遮るように手を
そこでふと、月白が言っていた事を思い出した。たしか、蓮芽は。
「……そうか、蓮芽は、赤色だけは判じられるのだったな」
「はい」
決して治せぬ
できると言っても色そのものは分からず、ただ明るく見えるだけ、という程度のものらしい。
それでも暗闇に生きる彼女にとって、赤が見せる光は、眩しく美しいものなのだろう。
「…………一刀斎さん、一つ、お
「なんだ?」
「赤というのは、どういう色をしているんですか?」
蓮芽は、いまだ
いつもは即座に言葉を返す一刀斎も、思わず唸る。
目が見えないのだから、なにかに
「赤色、か……」
――思った以上に難問である。生半可な答えであっても、恐らく彼女は受け入れてしまう。
赤というものがなにか、蓮芽が知る感覚で伝えるには、いったいどう言えばよいのだろう。
一刀斎が、思う赤は――――。
「……ああ、そうだな」
思い悩む前に、頭の中に咲いた華。泥の中で
一刀斎が、地獄で咲いていたあの華に、
「……全ての色の中で、最も強く輝く命の色だ」
あの死が
名前などないと言われた娘に、一刀斎が名付けた色が「赤」だった。
答えを受けて、蓮芽は一刀斎の顔を見上げてくる。一刀斎は瞼越しに、その瞳をしかと見つめて言葉を続けた。
「血は赤い。心の臓もまた赤い。炎も赤く、感情が高ぶれば、
「……命の、色……」
呟いた蓮芽は、今一度赤い山を見上げる。山風は止み、紅葉はとろ火のように揺れるだけ。
一刀斎の目には派手さが消えたように見えるが、蓮芽には、巨大な
「……ああ、それなら、赤という色は――――」
「……む?」
蓮芽が一言、ポツリと呟く。微風にすら掻き消されそうな極めて小さな、囁き声。
その言葉の先は、紡がれない。ただ蓮芽自身の中へ、封じ込まれるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます