第十二話 赤色

 京に来てから二日ふつかが過ぎた。そのかん京は寒さを増していく。

 かめ冷水ひやみずは洗った顔が凍るようで、いまだ雪が降らないことが不思議ふしぎなくらいだった。

 山の紅葉もみじ最盛期さいせいきで赤々と燃えているが、木葉このはは燃やさねば暖は取れない。

「……あの山の葉を全部燃やせば一冬ひとふゆ温かく過ごせるだろうか」

織田おだ尾張守おわりのかみでもそこまでの非道ひどうはしなかったぞ。風情ふぜいを楽しめ、風情ふぜいを」

「お前が楽しんでいるのは紅葉もみじざけだろう」

 一足先に顔を洗い終えて、隣で食事の準備を進めている月白は眉間に皺を寄せている。

 昨日も昨日で深酒ふかざけをしていたし、完全に二日酔いだろう。今日もどうやらシジミの味噌汁みそしるになりそうだ。

 なんだかんだいって、一刀斎はすっかり月白の家に住み込んでいた。

 あの日武芸者がここに上がり込んで以来、月白にも協力して貰い宿を探していたがどうにもこうにも上手く行かず。

 結局、今も月白に厄介になってしまっていた。そもそも、月白はあまり熱を入れて探している素振りがない、

「そういえば、蓮芽はすめはまだ寝かせているのか」

昨夜さくやは帰ってくるのが遅かったからね。それに、今日は稽古けいこがないし、夜も演奏の予定はないそうだ。急に呼ばれるかもしれないが」

 月白は味噌汁の味を確認して、「うん」と頷きかまを開ける。

 ちょうどめしけていたのか、白い湯気ゆげが立ち上る。

 冷え切っていた顔が、一気に蒸れた。

「蓮芽も久々の休みだからな、今日は、あの子と街を散歩にでも行くと良い。気分きぶん転換てんかんにもなるしな」

「散歩か……」

 目の見えない蓮芽を連れ立ったのは、初めて出逢いここまで送ったあの夜以外なかった。

 どうやら蓮芽は人気の芸妓げいぎのようで、昼は稽古、夜は座興ざきょうで日々をついやしている。

 それでも、彼女は疲れた顔一つしない。口元はいつもほころんでいて、穏やかに頬笑むだけ。

 それでも座は長丁場ながちょうばになることもあるらしいし、見えない疲れも溜まるだろう。

「……行ってみるか」

「じゃあ、今日はあの子を任せたよ、一刀斎」

「そういうお前は休まないのか?」

「医者に休みはないからな。今日は往診の予定がある。さて、朝食も出来たし食べようか」

 いつの間にか自分用になった来客用の大茶碗と、自分用の普通の茶碗に雑穀ざっこく飯をよそう月白の姿は、すっかり所帯しょたいじみて見えた。

 

歩調ほちょうは、これでいいか」

「ええ、大丈夫です」

 あの後、食事を終えたらちょうど蓮芽が起きてきた。

 蓮芽の食事が終わるのを待って、散歩に誘えば蓮芽は一も二もなく了解した。

「散歩は、好きなのか?」

「はい、誰かに手を引かれないと、出来ませんけれども。……今日はお付き合いいただいて、ありがとうございます」

「いや、構わん。誘ったのは元よりおれだ」

 顔を傾げて、童髪わらわのように切り揃えられた毛先が揺れる。

 こちらを覗き込むその顔には、いつもしていた蓮の葉の刺繍が施された赤布あかぬのはなく、目元を晒していた。あの目隠しは仕事用なのだろう。

 しかし薄い瞼は結ばれたまま、まるで縫い付けられているように微動だにせず、瞳まで見せようとはしなかった。

 蓮芽は一刀斎の袖を細く小さな手でしっかり掴んで、一歩一歩、ゆっくり進む。

 京の昼間ひるまにぎわっていて、人々はあちらこちらへ行き交っている。

「蓮芽は、なぜ散歩が好きなんだ?」

 景色が見えるわけではないだろう、と言いかけながら。ハッとして言葉を飲み込んだ。

「……空気が、好きなんです」

 鈴を転がしたような、柔らかなが鳴った。

「確かに、秋の空気は涼しいな」

「ええ、その空気も、なのですけれど」

 ふと足を止めた蓮芽が、周囲を見渡すようにかぶりを振る。

「……人が放つ、空気が好きなんです」

「それは、気配のことか?」

「はい。例えば……あっちに腰掛けている人たちがいませんか?」

 蓮芽が顔を向けた先では、軒下に付けられた折り畳みの床几しょうぎを開いて、若い男が子ども達の手遊びに付き合っていた。

「あの人、男の人なのに、子どもの面倒を見るのが好きで、いつもああやって、子どもを連れ立って、遊んでるんですよ。その時の、子ども達の心が、とても賑やかで」

 そういえば、蓮芽と初めて会ったとき、彼女は「心の質」というものが分かると言っていた。

 当人が思った感情の、発する気配に触れているのだと。

「それから、あちらの女性、ですけど」

 わずかに蓮芽が顔を反らすと、その先は家三つ分離れたところ。

 頭に布を巻いて、その上に駕籠を乗せた物売りの女がいる。どうやら、栗や飴を売っているらしく、うたうように喧伝けんでんしている。

 だがそのいしきは。

「……あの男の方に向いているな」

「はい。しっかりと」

 いんを踏んで区切る度に、踊るように膝や首を曲げるが、その時ちらりと、子どもと遊ぶ男を目に映している。

「きっと、気になる男性なんだと、思います。きっと、楽しそうな笑顔が、素敵に見えたんでしょうね。私には、その顔は分からないんですけれど。……それでも、あの人の朗らかさは分かります」

 正直、男の相貌そうぼうは並には届かない。腹も出ているし、頬骨ほおぼねも膨れている。

 ただそれでも厭らしさはなく、好感こうかんさえ感じた。根っからの人の良さが、滲み出ている。

「きっと、あの女性ひとも、この雰囲気に、惹かれたんでしょうね」

「……ああ、そうだな」

「他にも、えと、あそこのご夫婦は、いつも喧嘩していますけど――」

 人と人とが相互そうごして、宿す想いが調和ちょうわする。

 人々が織り成す感情が混ざり合い、生み出すなごやかな空気。

 蓮芽が散歩に求める「空気」とは、これを示しているのだろう。

 さながら、月白が酒の肴に紅葉や月と親しむように、彼女は目が見えなくても、人々が持つ固有の気配を感じ取って道を歩んでいるのだ。

 それが極めて特異な、優れた才覚であることは察する事が出来る。

 彼女はきっと、人を心から好いているのだろう。そうでもなければ、人がそれぞれ放つ気配を判別することなどとうてい出来ない。

「お前は、凄いな。気配で誰か分かるとは」

「……そう、でしょうか? 私にとっては、顔のような、ものですから。……でも確かに、覚えるのは、ちょっと大変かもしれませんね。…………あ」

 身に凍みるような秋風あきかぜが、山の方から一陣いちじん吹き抜ける。

 秋の陽射しに照らされた紅葉の赤が揺らめいた。それは山川と揺れたようでもあり、山全てが、燃え立つ炎になったかとさえ思った。

「――綺麗、ですね」

「…………なに?」

 山を見上げて、蓮芽がポツリと呟いた。

 瞼は閉じているはずなのに、日の光を遮るように手をかざしながら。口元をたおやかにほころばせて。

 そこでふと、月白が言っていた事を思い出した。たしか、蓮芽は。

「……そうか、蓮芽は、赤色だけは判じられるのだったな」

「はい」

 決して治せぬ業病ごうびょうだとられるほどの盲目ながら、蓮芽は、唯一赤色だけは認識できる。

 できると言っても色そのものは分からず、ただ明るく見えるだけ、という程度のものらしい。

 それでも暗闇に生きる彼女にとって、赤が見せる光は、眩しく美しいものなのだろう。

「…………一刀斎さん、一つ、おうかがいしてもいいですか?」

「なんだ?」

「赤というのは、どういう色をしているんですか?」

 蓮芽は、いまだそよぐ山を見上げながら、言葉だけを一刀斎へと投げ掛ける。

 いつもは即座に言葉を返す一刀斎も、思わず唸る。

 目が見えないのだから、なにかにたとえても伝えることは出来ないだろう。

「赤色、か……」

 ――思った以上に難問である。生半可な答えであっても、恐らく彼女は受け入れてしまう。

 赤というものがなにか、蓮芽が知る感覚で伝えるには、いったいどう言えばよいのだろう。

 一刀斎が、思う赤は――――。

「……ああ、そうだな」

 思い悩む前に、頭の中に咲いた華。泥の中で健気けなげに浮かぶ、たった一輪咲き誇る花。

 一刀斎が、に、それを名付けた理由は。

「……全ての色の中で、最も強く輝く命の色だ」

 あの死が蔓延まんえんしていた当時の洛外らくがいで、たった一つ、みすぼらしくも命の輝きを放っていた童女どうじょ

 名前などないと言われた娘に、一刀斎が名付けた色が「赤」だった。

 答えを受けて、蓮芽は一刀斎の顔を見上げてくる。一刀斎は瞼越しに、その瞳をしかと見つめて言葉を続けた。

「血は赤い。心の臓もまた赤い。炎も赤く、感情が高ぶれば、血色けっしょくがでて身体が赤らむ。葉も生命が極まれば、あのように燃える赤になる。……赤とは間違いなく、命の色だ」

「……命の、色……」

 呟いた蓮芽は、今一度赤い山を見上げる。山風は止み、紅葉はとろ火のように揺れるだけ。

 一刀斎の目には派手さが消えたように見えるが、蓮芽には、巨大な篝火かがりびに見えているだろう。

「……ああ、それなら、赤という色は――――」

「……む?」

 蓮芽が一言、ポツリと呟く。微風にすら掻き消されそうな極めて小さな、囁き声。

 その言葉の先は、紡がれない。ただ蓮芽自身の中へ、封じ込まれるだけだった。

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