第十三話 湯釜の火
「よもや風呂まであるとはな……」
冷たい秋風に晒されて、
月白が構える
てっきり蔵かと思ったが、実は蒸し風呂だったらしい。
日が低く傾き始めた頃、暗くなる前に
『どうだー一刀斎、薬を入れてみたが』
「ああ、よく効いている」
壁の外から、火を
鼻をぴくりと動かせば、
『それはよかった。……ふふ、懐かしいなぁ』
「ああ、そうだな」
月白と初めて出会ったのは、
「あの時は、驚いたぞ」
『ああ、私もだよ。あそこまで鍛え上げられた肉体を見た事なんてなかったからね』
「そういう驚きではないんだが……」
風呂の心地良さに身を
しかも
そんな
「よもや入り込んで触診までしてくるとはな……」
『血が
「しかしまあ、確かに。そこから先も目を見張ったがな。見て触れただけでおれの状態をピタリと言い当てたのだから」
傷をいつ負ったか、どれほど旅をしていたのか、いつから剣の修行をしていたのか。
それら全てを、月白は丸裸にして見せたのだ。
普段の態度からは、そんな
『見ると触るは基本の一つだ。傷の状態なんて、すぐ見分けられないとな。さて、こんなところかな?
「ああ。今回は、さすがに上がり込まないか」
『当然だろう? 私はお前の後、蓮芽と入る。火の当番はお前に任せるからな』
冗談めかして聞いてみたら、珍しく真面目に返される。確かに、蓮芽が入るならば
月白も月白で、風呂好きなところがある。この風呂も
『……それに』
「それに……なんだ?」
『うん? ああ、聞こえたか? いや、なんでもない独り言だよ。それじゃあ、芯まで身体を暖めてこい』
コンコンと、軽く壁を叩いた月白は、そのまま風呂から去って行った。
一刀斎は、
その上では、空が色を変え始めた
「加減は、こんなものか?」
『ちょっと強いな。もう少し弱くて良いぞ』
『はい、ほんの少しで構いませんから』
火の様子を見てない風呂が冷えたのは、すぐのこと。汗が引き始め、身体と湯殿の温度に変わりなくなったのを見計らって外に出た。
冷たい
本当に月白はよく効く薬を作るなと、……感心していたのだが。
「おお上がったかでは頼む」
と、入れ替わるように蓮芽を連れた月白が湯屋に入っていった。
流石に放っておく訳にもいかないと、一刀斎はさっさと火焚きに向かう。……念のため、服に袖を通していてよかった。
「……さすがに湯冷めするかもしれんな、これは」
せっかく風呂に入ったのにと、湯釜の中に灰を突っ込みながら独り
しかしながら。
『すみません、一刀斎さん。せっかく、温まったのに……』
「いや、構わない」
蓮芽も一刀斎とともに歩いていたのだ。身体もさぞ冷えているはず。
薪に向かって肺に溜めた息を吹き込んだ。秋の乾いた空気は、肺に通して湿らせても、思った以上によく燃える。月白はよくこれを操れたものだと、密かに感心した。
「これでどうだ」
『うーん……まあ、これくらいでもいいだろう』
『はい、心地良いです』
蓮芽は我慢しがちなところがあるし、素直な月白の言を信用するべきなのだろう。
大きく燃える木を、端へと寄せる。
『薪の面倒を見てくれて、ありがとうございます。お客様なのに……』
『一刀斎はもう半分ウチの人間のようなものだから気にすることはないよ。一刀斎はタダ飯を食うのに慣れているようだが、ウチにいる以上そうはいかない』
ぐうの音も出ない。
かつて京にいた時も、ほとんど
自分の家でもある三島神社でも雑事の手伝いこそすれど、基本的には剣を振るか散歩に出るか…………。
……改めて思うが、やはり自分はろくでなしの部類だなと、一刀斎は頷いた。
『ほら蓮芽。背中を擦ってあげるから、こっちに向けて。一刀斎、薬を湯に入れてくれ』
『はい、お願いします、先生』
火焚き場の側に置かれた小さな棚に、事前に用意されていただろ薬草があった。
言われたとおり湯の中に入れて、
『いやしかし、蓮芽の肌はいいな。しっとりとして柔らかい。……だけど少し肉が……』
『先生、一刀斎さんがおられます』
『おっと失礼』
一刀斎は
『でも、先生のお肌も、私は好きです。……私は、
『私も年を食ったからね、だらしなくなっているだけだよ。もし目が見えたなら、
不意に、一刀斎はかつてみた月白の身体を思い出す。照る月影に晒されたような
月白の色気は、あの頃とまるで変わってはいないしむしろ増しているようにも思える。
……この薄板一枚を
……もう半歩、後ろに下がる。これ以上退いたら息が届かなくなるだろう限界、
『おーい一刀斎、少し
薄い壁がコンコンと叩かれ急かされる。
離れた分だけ、強めに息を送り込む。燃える炎が薬草入りの
こうして、
揺れる炎は、秋の寒空の元でも確かな熱を生んでいた。――不意に、大昔のことを思い出した。
いつの間にか、あの場所で
甕の口のように、極めて小さな空がポツンと浮かんだ伊豆の島。
一刀斎がまだ弥五郎だった頃、海に叩き落とされる直前に見た景色。
甕のような島を真っ二つに割った、全てを燃やす紅蓮の炎。そして、島を赤く染めた朝焼けの
その景色はまるで、己を閉じ込めた甕を内から破壊して、世界へ火の手を伸ばした炎のように見えていた。
「なぜ」。という疑問が先だった。
島にいた時のことなど振り返ろうとしたこともなければ、今まで一度も思い出したこともない。
強いて言うならもはや顔もぼやけて声も忘れた、父親が教えてくれた薪割りのコツを、たびたび思い起こしたことがあるぐらい。
だというのに、なぜ、今さらになって思いだしたのか。
診療所の小さな裏庭から、遥か遠く、黒みさえにじみ出した紫色の空を見上げる。
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