第十一話 切り離せないもの
戸を入ってすぐ側にある診察部屋。
月白は薬棚を探り、一刀斎は目の前で気を失っている男を視ていた。
「む、うん……?」
「……起きたか」
「うん? 早いな。さすが武芸者だ」
どうやら、心はともかく肉体はしっかり鍛えていたらしい。
額に一刀斎の一撃を受けて倒れていた男は、意外にも早く目を覚ました。
「ぬ……!! 一刀さ……うぐっ!」
目の前に
だがまだ額に痛みが残るのか、すぐさま頭を
「
「起き抜けに暴れるモノじゃあないぞ。ほら、打ち身に
「なに……? 女、お前、医者の
「はっはっは、
武芸者は目を
だが、薬の染み入る感覚が心地良いのか、すぐに手を離した
「患者……俺は、アンタを襲った男だぞ」
「それを許す気は毛頭ないが、それでも
月白は、「医者」という言葉を一段と
さっきまで欲しいままにしようとしていたそれを見ずに、男は
「…………立派なお方に、大変、申し訳ないことをした。
さっきまで暴れていたはず男は、居住まいを
あれほど
「構わないよ、元より金は取るつもりだ。
さらさらりと、紙に墨で文字を引く月白は、男にそれをさっと渡す。
男は一瞬怯んだ様子だったが、「安い方だ」と
「一つ、聞いて良いだろうか? 実はおれを襲ったのは、お前が二人目だ。なぜ追われている?」
「惚けた事を言うな……。決まっているだろう? 二十年近く前、まだ
男から一刀斎への怨みは消え、一応の礼を見せたとはいえ、その吐き捨てるような言葉には、いまだ
「お前自身、さっきも言っていただろう。日に十数人も相手にしたと。全員がそうだとは言わないが、「外他一刀斎が帰ってきた」と聞いて、黙っていられる連中は少なくないはずだ。敗北した武芸者の怨みは、鍛えてきた年月と、負けた相手の歳に比例するもの。己の未熟と切り捨てるにも限度がある。特に、ああも
「一刀斎、お前どれだけ暴れたんだ?」
男の
……確かに、
そんな
「……俺は女医殿に救われた
「……そうだな」
もう、自分は伊東一刀斎と名を変えたのだが。
しかし「外他一刀斎」という名前は、奴の人生に深く刻まれてしまっているのだろう。
訂正しても、直すことは恐らく無いだろう。
「その布はしていけ。額の痛み止めもだしてやろうか?」
「いえ、結構です」
もはや月白に対して敬語まで使い出した武芸者は、
大きな拳の内にあったのは、
「それでは、
外の気配もなくなって、ようやく一息、心休めることができた。
「……今夜は、本当に迷惑を掛けたな、月白」
「なに、男に絡まれるなんて日に
月白は一仕事を終えたからか、薬棚を開け、
「…………それは、ずいぶん苦労したな」
「自分が選んだ上での苦労だ。弱音は言えんよ。私が泣きじゃくるような
「……ああ」
確かに、月白という女は
しかし。
「本当は、涙もろいことも覚えているぞ」
「――――」
月白が、静かに息を飲む。
確かに彼女には、孤独に耐え、
だが、辛抱強いからと言って、辛みを感じないことなどない。
あの日、月白の瞳から零れた
「お前は強いが強すぎだ。弱音を言える相手ぐらい、いないのか?」
一刀斎の
月白はなかなか答えず、こちらも見ず、ただ静かに、棚を撫でていた。
「……そうだな。実家も飛び出したし、ただでさえ治療が必要な患者達に、いらぬ心労はかけられない。よくよく考えれば、そういう相手はいないかも知れないな」
「思った以上に孤独だなお前は」
「バッサリ言うなあ、一刀斎は。……だが、うん、一人だけ、心当たりがある」
「ほう、誰だ?」
「お前に決まってるだろう?」
事も無げに、さも当然であるように、月白はそう
間髪入れずに帰ってきた言葉で一刀斎は目を丸くする。
そんな心当たりの方をやっと見て、月代はその呆けた顔に思わず吐息のような笑い声を漏らした。
「なるほど、即答するのは
頬をわずかに赤くして、こそばゆそうに二の腕をこする。
まるで少女のような微笑みは、あの日柳生の郷でほころんだものと変わりない。
「……
「もちろん。思い返してみたって、私が心を晒したのはお前以外いないよ。……例え目指す先は違えども、お互い、天下一に
天下一。その言葉で、一刀斎がこの場に訪れた理由を思い出す。
その道は、先人の
共に進む者もなく、一人で征く
「……懐かしいな。あの時も、秋だったか」
「ああ。月が綺麗な夜だった」
隣に座った月白は、通り庭の天井を見上げる。
あの青い光だけは、どれほどの年月を
「一刀斎」
静寂を打ち破るように、不意に声をかけられて、「なんだ」と月白を見下ろした。
そこにあった月白の目は
相変わらず、夜空を
月白は、一刀斎と同い年だと言っていた。ならばもう、本人も言うとおり
だというのに、あの頃あった溌剌とした魅力は薄れておらず、一方で、纏う
あの頃から順当に、いい女へと成長していた。
思わず、顔が近付いた。仏頂面のまま近付く顔を、しかし月白は恐れることなく、阻むことなく、ただ穏やかに待ち構えている。
鼻の影と鼻の影が、重なり合った――――
「ただいま、帰りました、先生」
ちょうどその時戸が開かれた。
「ぐむっっ!」
「のわだっ!?」
「…………あれ、どうしました? 先生? 一刀斎さん?」
引き戸がガラリと開くように、一刀斎と月白は全く同時に反対方向へ身を退かす。
お陰で一刀斎は障子の縁に頭をぶつけ、月白は、
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