第五話 再会
一刀斎の
かつて、
そこにただ一つだけ、
薄汚れた衣を着て、
一刀斎が「
そしてその理由も。
「……あの、もし? どう、なさいましたか?」
芸妓に
芸妓は相変わらず、一刀斎の方を見ない。あの布を当てた目ではこちらも見られないだろうし、なにより
一刀斎の
もしやこの女は、あの死の国のような河原で出会った
卑しく痩せ細っていた母は、再び相見えたときに「
浮かび上がった可能性は、一刀斎の意識を埋め尽くす。
「……いや、なんでもない」
「…………あなたは、武芸者さん、ですよね?」
芸妓が、再びポツリと
確信めいたその言葉に、一刀斎は思わず目を見開いた。女は初めてこちらを
布は赤がつけていたような粗末な
「なぜ、おれが武芸者と?」
「えっと……。今日来ているお客様は、武芸者さんだと聞いていたのと。今踏み出したのが、左足だと思うんですけれど、その時ちょっと、重い音がしたので、
「なにより」と若い芸妓は言葉を次いで。
「あなたの
「――心の質?」
聞き慣れない言葉に、思わず一刀斎は聞き直す。すると芸妓はハッとして。
「心の質っていうのはなんというか……その人の雰囲気、みたいなもので。人それぞれ違って、あ、そのときどきでも違うんですけど……。……わたし、目が見えからなのか、分からないんですが、人から向けられる意識には、敏感で……」
芸妓の言葉は透き通り、
先の
「つまり、目が見えない代わりに、人の心が見えるのか」
「……見えると言うより、触れる、というのが近いです。そちらの感覚の方が、私には馴染み深いので」
他者の心に触れることが出来る。それはなんと
一刀斎も、幼少の頃より人の気配には
長きに渡る修練の果てに身に付けたものである故に、剣士以外で「心を知る能力」を持った者に、素直に感心する。
芸を
不思議と、口角が吊り上がった。すると。
「…………なにか、楽しいことがありましたか?」
「感心していた。さっきの
多少の感情の変化でさえも、
素直に褒めると、すると彼女は小首を
「……ありがとう、ございます。お客様に、褒めてもらうことは、なかったので」
「そうなのか?」
「ええ。……いつもこうやって、襖一枚、隔てて三味線を弾いています。……わたしは、
くすりと女ははにかむが、漏れた吐息には、少しばかり湿っていた。
一刀斎は、久しぶりに
冷たい
それでも花はなにもせず、ただ身に
目に布を当てていながら、弦を操り音を奏でるその姿は、確かに奇妙に映るだろう。彼女は、人から向けられた気配に触れられる。人が抱いた心に、触れてしまう。
客が抱い思いが
音がこもろうと隣の部屋で奏でるのは、一つの自衛の為かもしれなかった。
頭の中で、赤い蓮のつぼみが
「不気味などではない」
「……え?」
「お前は不気味などではない。顔を上げろ。三味線と言ったか。お前の三味線の音は、幾度とない鍛練によって培ったものだろう。ならば誇れ。その目の布を湿らすな」
「……あなたも、人の心が?」
「おれ達の言葉では、
恐らく、自分の同類と初めて出逢ったのだろう。芸妓は唇を震わせており、額の動きで察するに、布の奥で目が見開かれた。
「……不思議、ですね。あなた様の内側は、燃えるように熱いのに、言葉遣いも、凜々しいものなのに、とても温かいです」
「そういえば、名乗っていなかったな。おれは、
「あ、すみません……申し遅れました。わたしは」
「
芸妓が小さい口を開き掛けた瞬間、一刀斎はその身を退けた。
一刀斎が立っていた場所をすり抜けて現われたのは、藤色の衣を纏った遊女。遅れて自分らの部屋に来た、
藤花はさっと芸妓――名はきっと、
蓮芽に近付いて、三味線もろとも抱きついた。
「どうした」と一刀斎が
「――
身を割くような
半刻ほど前、藤花が言い訳として使った子とはあの蓮芽だろう。
なにやら深い縁があるのか、蓮芽を大事にしているらしい。だがしかし、藤花が飛ばした
「……大丈夫ですよ、藤花姐さん。安心して下さい、あの人は、悪い人じゃありませんから」
肩を抱える藤花の
その二人の姿が、かつて三途の川で抱き合う親子の姿に重なって、脳裡に再び花が生まれる。あの時も一刀斎の姿に荒ぶる母親を制止したのは、赤だった。
柔らかい
一度目を閉じて、軽く息を吐いた藤花は、次の瞬間には
しかし一刀斎へと向けられる、細い瞼から覗く視線は、なおも鋭い。
「……お連れさんは、今日はお開きにするとお休みになりはったとこどす。
手を引き立ち上がろうとする藤花だが、「あっ」とわずかに息を漏らした蓮芽は応じない。
「…………蓮芽?」
「……その、ごめんなさい、姐さん。もう少し、そのお方と、お話したいんです」
世話する娘に拒まれて、藤花は大きく目を見開いた。
「せやかて蓮芽、どうやって帰るん? 手を引かれんと、その目ぇじゃ帰れへんやろ?」
「なら、おれが送ろう」
「兄さんに任せろ、と?」
「手込めにはせん」
一刀斎から出された提案に、藤花の眉は間を広げて、八の字を描く。
瞳が
「あのー、藤花姐さん? そろそろ行かんと、間に合いまへんえー? 蓮芽さん、どうかなさったんどすかー?」
先に下りたのか、階段の下から
目が見えないはずの蓮芽は、藤花が漏らしていたわずかな呼吸を捉えて、その顔を見上げていた。
すると、深い
「……珍しい蓮芽のワガママやさかい、今回は聞きましょ。次は、他のこともお願いしてな?」
ありがとうございます、と頭を下げた蓮芽。
藤花は子か妹でも慈しむように、切り揃えた前髪にはらりと指を這わせて、とんとんと頭を撫でた。
その時の
立ち上がり、部屋を出る藤花は、すれ違い様軽く会釈し。
「一刀斎はん、蓮芽のこと、頼みますえ」
やたら
今まで、一度たりとも見せなかった藤花の色に、思わず一刀斎は振り向いた。
その先にはもう、藤花の姿はない。
「それで、住まいは
「はい、近くにあるんです。さっきのお店から、東に行って、小さい通りを、五本過ぎて六つ目を下って――」
一刀斎たちは、その
気の早い秋の夜は深まっていて、月明かりのない京の道は、
その暗い道を一刀斎は、蓮芽の腕を取ってゆっくり歩調を合わせて歩く。
一刀斎は蓮芽から三味線というものについて、音楽という芸について聞き、蓮芽は一刀斎から、旅して回った国々について聞いていた。
……本当は、一刀斎は昔のことを聞きたかった。もしかしたらこの蓮芽という
それでも踏み出さなかったのは、音楽について語る口が軽やかで、そして一刀斎の旅路を聞く耳が、ぴくりぴくりと動く様が、愛らしかったから。
「お前の住まいは、共同か?」
「いえ、わたしは、先生のところに間借りしていまして……」
「そうか」
先生とは、楽器を
あの弦の音を聞けば、それは当然のことやも知れないが。
「六つ目の通りだ。下がるぞ」
「そうしたらすぐに、
歩みを乱さないように、大きく曲がった一刀斎はふっと顔を上げる。
すると辻でもないのに、赤く照らされた提灯があった。月明かりの少ない夜によく目立ち、ふっと思わず口の端が上がる。
「着いたぞ」
赤提灯が吊るされた家の前までやってくると、まだ先生とやらは起きているらしい。格子から白い光が漏れている。
「ありがとうございました」と頬笑む蓮芽は、一刀斎を軽く見上げて一礼する。
「
遅いこともあり、蓮芽はあまり声を張らず、戸を優しく叩く。
すると先生とやらが燭台の前を通ったのか、一瞬内から漏れる光が消えて、足音が鳴る。
そして、戸ががらがらと開けられて。
「おお、遅かったな、蓮芽。だいぶ
その戸から、出て来た顔に、一刀斎は思わず目を見開く。
いや目だけではない。普段しかと結んだ口もあんぐり開いて、鼻の穴まで最大限広がっている。
「このお客様と、話し込んでしまっていて……、すみません、先生」
蓮芽が、先生と呼んだ女は。
満月のように白い顔をして、星を散りばめた夜空のような黒髪を持っていて。
長い睫毛を持つ目は、形がよく切れ長で、その中にスッポリ収まった瞳は健康的に潤んでいた。
そして何より特徴的だったのは、襦袢からこぼれそうなほど、たわわな胸。
一刀斎はその胸の、重みと柔らかささえ知っていた。
「紹介します、一刀斎さん、この人は私の目を
「――――久しぶりだな、外他一刀斎景久。
もはや十年使わなかった懐かしき名を、底冷えするような冷たさでもって呼んだのは、薄くも赤い唇だった。
「……まさか、こんなところで、会うとはな。……
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