第五話 再会

 一刀斎の脳裡のうりに咲いたのは、赤い一輪の蓮の花。

 かつて、生気せいき活力かつりょくが消え失せた、屍山しざん骨原ほねばらの地獄であった京の洛外らくがい

 そこにただ一つだけ、瑞々みずみずしい命の輝きを持っていた幼子おさなご

 薄汚れた衣を着て、むくろの中で食らうネズミを探していたわらべ

 一刀斎が「あか」と名付けたあの少女もまた、この三味線弾きの芸妓げいぎのように、目に布を当てていて。

 そしてその理由も。

「……あの、もし? どう、なさいましたか?」

 芸妓にわれてハッとして、思わず一歩、踏み込んだ。

 芸妓は相変わらず、一刀斎の方を見ない。あの布を当てた目ではこちらも見られないだろうし、なにより先程さきほど、自ら「目が見えない」と語っていた。

 一刀斎の脳裡のうりに、一つの可能性が生じる。

 もしやこの女は、あの死の国のような河原で出会ったあかなのではないか。

 卑しく痩せ細っていた母は、再び相見えたときに「女衒ぜげんに売った」と言っていた。

 浮かび上がった可能性は、一刀斎の意識を埋め尽くす。

「……いや、なんでもない」

「…………あなたは、武芸者さん、ですよね?」

 芸妓が、再びポツリとたずねてきた。

 確信めいたその言葉に、一刀斎は思わず目を見開いた。女は初めてこちらを見遣みやる。

 布は赤がつけていたような粗末な襤褸ぼろではなく、赤地あかじに金糸で、いけ蓮華れんげ刺繍ししゅうされた華やかなもの。あれとはまるで似付かない。

「なぜ、おれが武芸者と?」

「えっと……。今日来ているお客様は、武芸者さんだと聞いていたのと。今踏み出したのが、左足だと思うんですけれど、その時ちょっと、重い音がしたので、御刀おかたなを差しているのかと。それと、声も力強くて、息がしっかり吐かれているようですし」

「なにより」と若い芸妓は言葉を次いで。

「あなたのこころしつが、熱い鋼のようでしたから。ふすまの向こうで、感じていたものと同じで」

「――心の質?」

 聞き慣れない言葉に、思わず一刀斎は聞き直す。すると芸妓はハッとして。

「心の質っていうのはなんというか……その人の雰囲気、みたいなもので。人それぞれ違って、あ、そのときどきでも違うんですけど……。……わたし、目が見えからなのか、分からないんですが、人から向けられる意識には、敏感で……」

 芸妓の言葉は透き通り、玲瓏れいろうと鳴る玉響たまゆらのよう。一言一言区切られても不快感はなく、せせらぐ小川と、明滅めいめつする蛍火ほたるびを連想させて心が安らぐ。

 先の演奏えんそうには歌がなかったが、歌も混ぜればまた一つ違ったものになっただろう。

「つまり、目が見えない代わりに、人の心が見えるのか」

「……見えると言うより、触れる、というのが近いです。そちらの感覚の方が、私には馴染み深いので」

 他者の心に触れることが出来る。それはなんと希有けう能力のうりょくか。

 一刀斎も、幼少の頃より人の気配にはさとかった。それを剣術で研鑽けんさんし、心法しんぽうあらためてきた。

 長きに渡る修練の果てに身に付けたものである故に、剣士以外で「心を知る能力」を持った者に、素直に感心する。

 武芸ぶげいげい。楽器を奏でるのもまた芸である。

 芸をきわめるということに、何を握るかは関係ないのかも知れない。

 不思議と、口角が吊り上がった。すると。

「…………なにか、楽しいことがありましたか?」

「感心していた。さっきのつまきは、見事なものだった」

 多少の感情の変化でさえも、盲目もうもく芸妓げいぎは容易く感じ取るらしい。

 素直に褒めると、すると彼女は小首をかしげ、やんわりと口の端をわずかに上げる。

「……ありがとう、ございます。お客様に、褒めてもらうことは、なかったので」

「そうなのか?」

「ええ。……いつもこうやって、襖一枚、隔てて三味線を弾いています。……わたしは、不気味ぶきみですので」

 くすりと女ははにかむが、漏れた吐息には、少しばかり湿っていた。

 一刀斎は、久しぶりにおのずと意識いしきして気配を探った。

 冷たい夜露よつゆむしばまれ、葉や花弁が痛んでいくような。

 それでも花はなにもせず、ただ身にみる夜露を受け入れいた。

 目に布を当てていながら、弦を操り音を奏でるその姿は、確かに奇妙に映るだろう。彼女は、人から向けられた気配に触れられる。人が抱いた心に、触れてしまう。

 客が抱い思いがじかに、この女には打ち付けられるのだ。もしかしたら、人前で奏でて不躾ぶしつけ感情ことばを当てられたこともあるやもしれない。

 音がこもろうと隣の部屋で奏でるのは、一つの自衛の為かもしれなかった。

 頭の中で、赤い蓮のつぼみがしぼむ。同時に一刀斎のこころほのおも、れたように弱まった。

「不気味などではない」

「……え?」

「お前は不気味などではない。顔を上げろ。三味線と言ったか。お前の三味線の音は、幾度とない鍛練によって培ったものだろう。ならば誇れ。その目の布を湿らすな」

「……あなたも、人の心が?」

「おれ達の言葉では、心法しんぽうというものの一種だ」

 恐らく、自分の同類と初めて出逢ったのだろう。芸妓は唇を震わせており、額の動きで察するに、布の奥で目が見開かれた。

「……不思議、ですね。あなた様の内側は、燃えるように熱いのに、言葉遣いも、凜々しいものなのに、とても温かいです」

「そういえば、名乗っていなかったな。おれは、伊東いとう一刀斎いっとうさいという」

「あ、すみません……申し遅れました。わたしは」

蓮芽はすめ!」

 芸妓が小さい口を開き掛けた瞬間、一刀斎はその身を退けた。

 一刀斎が立っていた場所をすり抜けて現われたのは、藤色の衣を纏った遊女。遅れて自分らの部屋に来た、藤花ふじばなだ。

 藤花はさっと芸妓――名はきっと、蓮芽はすめと言うのだろう。

 蓮芽に近付いて、三味線もろとも抱きついた。

「どうした」と一刀斎がたずねた直後、藤花は顔を半分こちらに見せて、瞳孔どうこう開いた目を向ける。

「――にいさん、このは私ら遊女やのうて、ただの三味線弾きの芸妓どす。手ェ出したら、あきまへんえ」

 身を割くような烈風れっぷうが、藤花から一陣放たれた。

 半刻ほど前、藤花が言い訳として使ったとはあの蓮芽だろう。

 なにやら深い縁があるのか、蓮芽を大事にしているらしい。だがしかし、藤花が飛ばした敵意かぜ、その中に有ったものは――。

「……大丈夫ですよ、藤花姐さん。安心して下さい、あの人は、悪い人じゃありませんから」

 肩を抱える藤花のたもとを掴み、言い聞かせるようにささやく蓮芽。

 その二人の姿が、かつて三途の川で抱き合う親子の姿に重なって、脳裡に再び花が生まれる。あの時も一刀斎の姿に荒ぶる母親を制止したのは、赤だった。

 柔らかい声音こわねのゆらぎに、乱れた呼吸がととのえられる。

 一度目を閉じて、軽く息を吐いた藤花は、次の瞬間には座敷ざしきで見せていた、世を儚むように咲く、幻惑的な表情ふじのはなに戻る。

 しかし一刀斎へと向けられる、細い瞼から覗く視線は、なおも鋭い。

「……お連れさんは、今日はお開きにするとお休みになりはったとこどす。ウチは、次の場があるさかい、そろそろ行かなあかん。……蓮芽、今日は終いや。送ります」

 手を引き立ち上がろうとする藤花だが、「あっ」とわずかに息を漏らした蓮芽は応じない。

「…………蓮芽?」

「……その、ごめんなさい、姐さん。もう少し、そのお方と、お話したいんです」

 世話する娘に拒まれて、藤花は大きく目を見開いた。

「せやかて蓮芽、どうやって帰るん? 手を引かれんと、その目ぇじゃ帰れへんやろ?」

「なら、おれが送ろう」

「兄さんに任せろ、と?」

「手込めにはせん」

 一刀斎から出された提案に、藤花の眉は間を広げて、八の字を描く。

 瞳が微動びどうを重ねて、人差し指の腹を軽く噛んだ。

「あのー、藤花姐さん? そろそろ行かんと、間に合いまへんえー? 蓮芽さん、どうかなさったんどすかー?」

 先に下りたのか、階段の下から桐乃きりのの声が小さく響いた。刻限こくげんも差し迫り、藤花はフッと蓮芽を見る。

 目が見えないはずの蓮芽は、藤花が漏らしていたわずかな呼吸を捉えて、その顔を見上げていた。

 すると、深い懊悩おうのう徐々じょじょに晴れていき……。

「……珍しい蓮芽のワガママやさかい、今回は聞きましょ。次は、他のこともお願いしてな?」

 ありがとうございます、と頭を下げた蓮芽。

 藤花は子か妹でも慈しむように、切り揃えた前髪にはらりと指を這わせて、とんとんと頭を撫でた。

 その時の表情かおにはあの霧靄きりもやで姿をくらます幽玄ゆうげんさはなく、優美な愛しさが溢れている。

 立ち上がり、部屋を出る藤花は、すれ違い様軽く会釈し。

「一刀斎はん、蓮芽のこと、頼みますえ」

 やたらいろづいた、はんなりとした声を出した。

 今まで、一度たりとも見せなかった藤花の色に、思わず一刀斎は振り向いた。

 その先にはもう、藤花の姿はない。


「それで、住まいは左京側さきょうがわか?」

「はい、近くにあるんです。さっきのお店から、東に行って、小さい通りを、五本過ぎて六つ目を下って――」

 一刀斎たちは、そのあと半刻はんこくは語り合っていた。

 気の早い秋の夜は深まっていて、月明かりのない京の道は、つじ行灯あんどんだけが光っている。

 その暗い道を一刀斎は、蓮芽の腕を取ってゆっくり歩調を合わせて歩く。

 一刀斎は蓮芽から三味線というものについて、音楽という芸について聞き、蓮芽は一刀斎から、旅して回った国々について聞いていた。

 ……本当は、一刀斎は昔のことを聞きたかった。もしかしたらこの蓮芽という芸妓げいぎは、あの頃川で出会い、勝手に自分が名付けた少女、あかなのではないかという予感が、脳裡に赤い蓮の花という形で浮かんでた。

 それでも踏み出さなかったのは、音楽について語る口が軽やかで、そして一刀斎の旅路を聞く耳が、ぴくりぴくりと動く様が、愛らしかったから。

「お前の住まいは、共同か?」

「いえ、わたしは、先生のところに間借りしていまして……」

「そうか」

 先生とは、楽器を手習てならいしている相手だろうか。身形みなりも整い、目に当てた布の拵えを見ると、よほどよく扱われているらしい。

 あの弦の音を聞けば、それは当然のことやも知れないが。

「六つ目の通りだ。下がるぞ」

「そうしたらすぐに、提灯ちょうちんが、出ている家があると思います。そこです」

 歩みを乱さないように、大きく曲がった一刀斎はふっと顔を上げる。

 すると辻でもないのに、赤く照らされた提灯があった。月明かりの少ない夜によく目立ち、ふっと思わず口の端が上がる。

「着いたぞ」

 赤提灯が吊るされた家の前までやってくると、まだ先生とやらは起きているらしい。格子から白い光が漏れている。

「ありがとうございました」と頬笑む蓮芽は、一刀斎を軽く見上げて一礼する。闇夜やみよに融けるような黒い前髪が、さらりと揺れた。

先生せんせぇー、蓮芽です。今、帰りました」

 遅いこともあり、蓮芽はあまり声を張らず、戸を優しく叩く。

 すると先生とやらが燭台の前を通ったのか、一瞬内から漏れる光が消えて、足音が鳴る。

 そして、戸ががらがらと開けられて。

「おお、遅かったな、蓮芽。だいぶ長丁場ちょうばだったか――――」

 その戸から、出て来た顔に、一刀斎は思わず目を見開く。

 いや目だけではない。普段しかと結んだ口もあんぐり開いて、鼻の穴まで最大限広がっている。

「このお客様と、話し込んでしまっていて……、すみません、先生」

 蓮芽が、先生と呼んだは。

 満月のように白い顔をして、星を散りばめた夜空のような黒髪を持っていて。

 長い睫毛を持つ目は、形がよく切れ長で、その中にスッポリ収まった瞳は健康的に潤んでいた。

 そして何より特徴的だったのは、襦袢からこぼれそうなほど、たわわな胸。

 一刀斎はその胸の、重みと柔らかささえ知っていた。

「紹介します、一刀斎さん、この人は私の目をてくれているで」

「――――久しぶりだな、醫術處いじゅつどころ瑠璃光るりこうにようこそ」

 もはや十年使わなかった懐かしき名を、底冷えするような冷たさでもって呼んだのは、薄くも赤い唇だった。

「……まさか、こんなところで、会うとはな。……月白つきしろ

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