第七話 帰郷

 旅を初めて十年。堅田に旅立った時を含めれば十三年。思えば人生の半分近くを、剣の修行に費やした。

 その肉体は鍛え抜かれていわおのようで、技も鋭く研ぎ澄まされて、心においては言わずもがな。

 練武の果てに修めた武威ぶいは、市井しせいの剣客とは一線を画す。

 だが、しかし。

「…………うぐ」

 船には、全く慣れなかった。特に、海の船にはだ。

 一刀斎は大きな商船の甲板かんぱんど真ん中に座り込んで、虚な目をしている。

 揺れる船体せんたいあお潮風しおかぜ、いくら心を鍛え抜いてもこればかりは無理だった。これはもはや宿業しゅくごうと言って良いだろう。しかも、船に乗ってかれこれ二刻にこく。ここまで長時間乗ったことのなかった一刀斎の顔は、土気つちけ色になっている。

 朝一で五助から回収した甕割刀かめわりとうの柄を握って、心の支えにする。……刀を一本駄目にしたのに、笑って許してくれたのはなぜだろうか。本人は「良い仕事くれた恩だ」と言っていたが。

 さて、どうして一刀斎がはなはうときらう船に乗っているのかと言えば。

「おいおい、大丈夫かよ?」

陸路りくろでは駄目だったのか」

「は? 普通に考えてこっちのが楽だろ?」

 鼻からのどへとこびり付く、塩辛さに顔を青くする一刀斎。

 そんな一刀斎を見下ろして、あっけらかんと笑う若い神職しんしょく装束しょうぞくをした男。

 名前は信太しんた。かつて伊豆いず伊東いとう三島みしま神社じんじゃで、まだ「前原まえはら弥五郎やごろう」と名乗っていた一刀斎と、共に過ごしていた出仕しゅっしである。

 そんな伊豆にいるはずの信太が、つい昨日、一刀斎が唐から渡ってきた武芸者を打ち倒した直後に現われたのだ。

「いやあまさか、弥五郎やごろうがこっちまで来てたとはなあ。あ、今は違う名前を名乗ってるんだっけか?」

「……弥五郎で構わないぞ。信太はあのまま、三島神社にいたのか?」

「ああ、はふりになったよ」

 出仕しゅっし時代じだいの頃から助平心すけべごころがあって世俗せぞくにまみれた気質きしつの持ち主だったが、そのまま順当じゅんとう出世しゅっせしたらしい。してしまったらしい。

「だけどこっちかえってきてたんなら顔出せよ、伊東いとう通り越して相模さがみにまで来やがって」

「……まだ帰る気にならなくてな」

 なんで信太が、一刀斎が相模の三浦みうらにいたことを知っているのか。

 一刀斎が相模に着いて、まだ五日程度しかっていないし、隣の国まで流れるほどの騒動は起こしていないはずだった。

 その理由は、至極しごく単純たんじゅんなものだった。

「しっかし、兄ちゃんがあの三島みしま神社じんじゃから出た剣士だったとはなあ。世間はせめえもんだ」

 つい昨日、一刀斎が港で出会った船乗りだ。

 そういえば「伊豆に行く」と言っていたのを思い出した。口ぶりからして三島神社とはなんらかの交流があったのだろう。

 そうして昨日、この船乗りが三島神社で一刀斎のことを話して、それを知った信太をそのまま連れてきた、ということだ。

「あれから十と……三、四年はってるか? ふみの一つも寄越さねえんだもんなあ、利市りいち大助だいすけも気にしてたぜ? あとさほりとか巫女のみんなもな」

 続々と、懐かしい名前が出て来た。利市と大助は信太と共に、よくつるんでいた名主の三男坊と、村一番の田を持つ家の息子だ。

 さほりというのは、巫女の一人。たしか一刀斎や利市と同じぐらいの歳だったはず。さすがに、他の巫女と共にどこかへとついだだろう。

「昔話を邪魔しちゃ悪い」と、船乗りがせっせと仕事に戻っていく。波に合わせて大股で行ったからか、あの男が船自体を揺らしたかのようにも思えた。

 船に揺らされた脳みそが、遠い昔の記憶を浮かせた。わずか一年ばかりの時間だったが、愉快ゆかいな思い出ばかりが出て来て、一刀斎は目を細めた。

 その記憶の中に浮かんだ二つの影。いま名前を挙げられた中には、いなかった。

「……織部おりべは、今はなにを?」

 矢田やた織部おりべ、海に打ち上げられた一刀斎を拾い上げて、一刀斎に「剣」というものを教えてくれた父のような存在である。

 一刀斎に印牧かねまき自斎じさいを紹介し、常に心の片隅かたすみえる「こころほのお」という言葉を授けてくれた「先生」でもある。

「織部さんはまだまだ現役げんえきだよ。だから俺もこの歳になって補佐役なんだよ。ま、楽だから別に良いんだけどよ」

 あっけらかんと笑う信太に、相変わらず不真面目な奴だと一刀斎は口の端を二分だけ上げた。

 不真面目だが、性根しょうねは真っ直ぐとしていていじけていない。だからこざっぱりとしていて、非常に好ましかった。

「一回、弥五郎のこと気にならねえのかって聞いたことあんだよ、そしたら『便りが無いのは壮健そうけんあかし』『いずれ帰ってくる』って、それだけだったぜ。だけどま、心配はしてっと思うぜ?」

 夏の深い青空を見上げる信太は、頭の後ろに手を組んで、そのままだまる。

「それ以上は問われなければ言わない」。そう言わんとしているのが、容易たやすく察せられた。一刀斎は、同じく夏の空を見上げてうた。

「……とじは、どうなった?」

「あのあと、すぐに物忌ものいみに入ったよ」

 あのあと、とは、間違いなく「あのこと」だ。

 とじは、島育ちで学がなかった一刀斎に、勉学べんがくを厳しく叩き込んだ母のような人である。

 しかし一刀斎は、思い違いによる憎悪ぞうおで、社内しゃないに赤い血を流してしまった。

 それを目撃したとじは、心にけがれが生じてしまったのだ。

 その日が、一刀斎と、三島神社との分かれの日となった。

 信太は、その事件を知っている。なにせ一刀斎の惨殺ざんさつ死体したいの処理のために、人を呼びに行ったのは他ならぬ信太なのだから。

「とじ様はしばらく顔を見せなくてなあ。そうだな、だいたい……半年ぐらいだったかな。桜が咲き始めた頃にようやく出て来たよ」

 桜が咲き始めた頃というと、一通りの修行を終えた一刀斎が京に出た頃である。

 己の技倆ぎりょうに一区切りがついたところでとじも出たと知って、一刀斎は妙な因果いんがを感じた。

「で、とじ様が一刀斎をどう思ってるかだが…………」

 空飛ぶカモメを目で追いながら、信太は言い切らず、もったいぶる。

 一刀斎も、その先をかしたいとは思わなかった。

 恨まれていても、許されていても、それがとじの思いならば受けきる覚悟をすでにしている。

 カモメが真後ろに飛び去って、信太はようやく口を開く。

「…………本人に会ったときのお楽しみって奴だな」

 口はニタリと、目はニコリと、二面性にめんせいのある顔で、答えにもなってない答えを吐いた。

「ほら、話しているうちに見えてきたぜ」

 信太が顎で船首せんしゅを差した。つられてそちらの方を見てみれば、海に突き出した半島が見える。

 十余じゅうよねん前に離れて以来いらい久方ひさかた振りに目に収めたその土地は。

伊東いとう、か」

 一刀斎が、遠い昔に流れ着いた場所。

 一刀斎にとって、全ての始まりとなった場所――――。


「あの頃と、何も変わっていないな」

 見える山の稜線りょうせんに、立ち並ぶ民家。広がる田畑たはたに流れる小川おがわ

 かつて暮らしたあの村の姿と、いきれた草の匂いまで一致いっちした。

 肌をあぶる懐かしさがなければ、かつての日々が昨日のことに思えただろう。

 暑さも盛りのうまこく、村人が誰もいないのを見るに、家の中やらに逃げ込んでいるのだろう。

 広い村の畔道あぜみちを歩むのは、一刀斎と信太しかいない。

「ああ、なんも変わんねえよ。オッサン達は酒飲んで、バアさん達は愚痴こぼして、ガキらはお天道てんとさんも気にせず走ってる。呆れるほどあの日のまんまだぜ」

 言葉だけ聞けばつまらなそうなことを、心底楽しそうに信太は言う。

 そう言えば、信太の口から「つまらない」という言葉が出た記憶は無かった。

「お、見えてきたな」

 鎮守ちんじゅの森に包まれた、小上がりのような小さな丘。そこに三島神社はある。

 参拝者さんぱいしゃを迎える、あちらとこちらを区切る鳥居。

 大木たいぼくを削ったその教会を見て、ふと足が止まる。

「どうした? 弥五郎。……怖いのか?」

「うん? なにがた?」

 鳥居をくぐる直前ちょくぜんになって、足を止めた一刀斎を見遣みやる信太。

 だがその顔に、不安の色はない。単に、不意に過ぎった記憶を見ていただけだ。

 この鳥居前で、一刀斎は、生まれて初めて決闘けっとうしたのだ。

 仕合しあい自体じたい呆気あっけなく終わり、そのうえ夜に強烈きょうれつな体験をしたせいで、今の今まであまり思い返すことはなかった。

 だが確かに、あれも一刀斎の始まりであった。

「さて、行くか」

 甕割の柄頭つかがしらに手を置いて、鳥居をくぐる。

 甕割も、久々ひさびさに故郷へ帰ってきて安息あんそくしているのだろうか。心なしか、返る手応えが柔らかく感じた。

 不思議と、入ることに不安はなかった。むしろ、心踊ってさえいた。

 この十年余り鍛えてきた己を、誰よりも見せたいひとがそこにいる。

 ――だから。

「――――――っ」

 木々に囲われた社中しゃちゅうは、熱気を木々が吸い込んでいるのか、盛夏せいか火輪かりんに照らされてなお涼しかった。

 神社や寺は、旅の中でも幾度いくどか立ち入った事がある。

 それでもせみ時雨しぐれをもんで聞こえるこの清々すがすがしさは、心身に深く染み込んだ。

 そしてその、神聖しんせいにも感じる凛とした空気の中、境内の中心に立っていたのは。

「――久しぶりだな、弥五郎。…………お帰り」

 穏やかに笑う、白髪はくはつの神主。一刀斎に剣の道を示した男。

「……ああ、ただいま戻ったぞ。織部おりべ

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