第八話 年月経ようと変わらぬもの

 鎮守ちんじゅの木々に暑さと湿りを抜かれ、爽快そうかいになった夏風なつかぜが、境内けいだいを通り吹き抜けた。

 その風の中でまっすぐ立っているのは、島から流れ着いた若き一刀斎を拾い、剣を教えてくれた父の如き存在。三島神社の神主かんぬし矢田やた織部おりべだった。

 あれから十余年。顔にはしわが増え、髪には白髪が何本か交ざり始めている。

 かつてと変わらぬ穏やかな目が、より柔和やわらかに感じられた。

 いまだに背筋はピンとしていて、壮健そうけんであることが見て取れる。

「連れて帰ったぜ、織部さん」

「ああ、お疲れ信太。……連れ帰るのは良いが、勝手に神社を空けるのは止めなさい」

 どうやら信太は、誰に命じられるでもなく隣国りんごくまで一刀斎を迎えに来たらしい。年を食っても全く変わらず、行動力だけはあるようだった。

 信太は、とがめられても全く気にする様子ようすもなく。

「だってどうせみんな、会いたかったろ? そのくせ弥五郎が帰ってこないならそれはなにか理由が~なんて適当なこと言ってハッキリしない。正直になればいいのによ」

 そういう信太は正直過ぎるところがあり、叱られたことは一度や二度ではない。だがしかし、その直情ちょくじょうさは彼の短所とは言い切れない。それは一刀斎が、神社や村に馴染んだ理由の一端いったんでもあるのだ。

「……ああ、確かに、独断専行どくだんせんこうとは言えないな。よく連れてきてくれた、信太」

 悪びれもしない信太の言い分に、思わず苦笑くしょうする織部。

 苦笑いでさえも眉は下がらず、しぶい顔には見えず、優しくほのかな暖かみを感じた。

 そんな二人のやり取りを、一刀斎はただじっと見ている。

 なにもかにも、懐かしい。昔のままだ。

 織部はその柔らかい目を、一刀斎の方へと向けた

「……大きくなったな、弥五郎。……いや、確かな名を変えたのだったな」

「今は、弥五郎で構わない。……大きくなったと言っても、背丈は一寸いっすんばかりしか変わっていないぞ」

「いや、確かに大きくなった」

 一つうなずいた織部は、一刀斎の姿をしかと見つめる。

 その目は六尺ろくしゃく五寸ごすんを越える肉体ではなく、そのうちに向いていた。

 一刀斎の中で燃える、こころほのおに。

「あの頃は、まだまだ小さな種火たねびであったが……自斎じさい先生の元で、よくまなんだようだな」

「ああ、師匠ししょうにはとことん鍛えられた。剣技けんぎも、心法しんぽうも。だが、色々苦労も――」

「おおっと、そこまでそこまで」

 深く話し込もうとした矢先、信太が止めに入ってきた。

 いったいどうしたと、一刀斎は信太へ目をやる。

「立ち話もなんだろ? 、待ってるんだぜ」


「本当に久しぶりだな、弥五郎!」

「いやあ、背はあまり変わらないけど、身体からだは大きくなったなあ! 腕も足も!」

 神社で働く織部や巫女達の住居を兼ねた、社務所しゃむしょの一室。

 宴会えんかいや寄り合いにも使われる大広間おおひろまに、車座くるまざぜんが並べられた。

 夕餉ゆうげでもないのに豪勢ごうせいな食事がおかれていて、まるで宴だ。

 一刀斎の両脇りょうわきには、怜悧れいりな面立ちをした細身ほそみな男と、恰幅かっぷくがよく、ふくれた耳たぶをした男がいた。

 名主なぬし三男さんなん利市りいちと、村一番の田を持つ家の子、大助だいすけ。信太と並び、かつてこの伊東の地で共に過ごした友人たちだ。

 それだけでなく、一仕事終えて家で涼を取っていると思っていた村人達まで集まっている。

 村の男衆たちは織部を囲って、なにやら豪快に笑っていた。

 おおかた、「弥五郎がようやく戻って来て良かったな」とでも言っているのだろう。

 一刀斎はそちらに目を流した後、真正面に向き直る。

 すると、そこでは。

「あなたが仕事を放って出て行ったから、昨日は大変だったんだからね!」

「ったくホントに勝手な奴ねアンタは!」

「反省しなさい」

「はい……すいません……ごめんなさい……」

 向かいの席で、信太が三人の女房にょうぼうなじられて、小さくなっている。

 言葉を深く交わしたことはないが、その面立ちには見覚えがあった。

 全員、三島神社にいた巫女みこである。

「……彼女らは、とつがなかったのか?」

「ああ……巫女みこ自体は引退したのだが、なにぶんこの神社にはとじ様がいる。あの方の側仕えとして、神社に残っているんだ」

「それに次の神主になるはずの信太もあんな調子だからねえ、しっかり仕事出来る人がいないと」

「なるほど」

 全て得心とくしんがいった。

 あの信太が仕事が出来るとは思えない。利市はとじの側仕えと言っていたが、その仕事の大半は信太の手伝い……あるいは、尻を蹴り上げる役目も担っているのだろう。

 こってりしぼられしおれた信太を見て頬笑む織部は、まだまだ壮健そうけんに見える。だが、いつまでも現役というわけにもいくまい。

 あの三人には、かなえあしになって信太を支えて貰いたい。

 一刀斎は、今一度広間を見渡した。

 しかしその中には、探し求める人影ひとかげはない。

 鼻をぴくりと動かしてもても拾う匂いは飯と男達の汗臭さばかりで、かつて嗅いだ、清く爽快そうかいな香りはどこにもなかった。

 今の利市の言の通りなら、まだここにはいるはず――。

「どうした弥五郎、食わないのか?」

「だったら、おいらが貰って良いかな~?」

「やらんぞ。……ところで、信太ははふりになったとして、お前達は今はどうしているんだ?」

 箸を伸ばす大助の手を押し退けて、無作法ながらわんを持たず飯をつついた。

 訊かれた利市は、丸ごと干されて肉厚な魚の身をほぐして。

「オレの所は、下の兄が戦に参加してぽっくり逝ってな。上の兄も酔っ払いながら夜道を歩いていたら、肥溜めに頭を突っ込んで死んだ。で、オレが家を継ぐことになった。商売を始めたら上手く行ってな。お前が乗ってきたあの船も、オレの伝手つてだぞ?」

「おいらは妹が利市の弟に嫁いでお金が入ってさ~。そのお金で山を買ったら温泉が出て来て、湯治とうじのお客さん相手に儲けてるんだ~。一緒に出すウチの米も人気でさ~」

「ほう、そうだったか」

 どうやら、波乱があったようだがなかなか上手く行っているらしい。みなしたたかに、生きている。

 だからこそ、気になった。今この場にいない、とじのことが――――。


 一刻続いた宴も終わり、利市や大助を初めとした男衆は村へと戻っていった。

 信太も巫女達にれられて、いない間に積もった仕事をしにいった。

 一人残った一刀斎は広縁ひろえんに出て、夏の熱射ねっしゃを受けてなお青々と茂る緑をながめていた。

 目のはしに、奉公ほうこうたちの住まいに繋がる廊下が見える。あそこを進んだ一番奥、六畳の部屋が一刀斎の部屋だった。

 といってもあの頃の一刀斎は、もっぱら床下に潜り込んで寝ていたのだが。

 不意に思い出したのは、この三島神社を出たあの日、鼻に漂ったかぐわしさ。

 匂いというものは時を経ても、いつまでも鮮明せんめいに残るものだった。

 頭の冴える、清涼とした甘い香り。いつの間にか用意されていた旅仕度たびじたくが、纏っていた匂い。

 そのこうの、持ち主は…………。

「とじ殿のことが、気になるんだろう?」

 思いをせていた一刀斎の元に現われたのは、織部おりべであった。

 記憶に残る表情かおのまま、緩やかに口の端を上げながら、一刀斎の隣に座る。

「――――ああ、当然な」

「どの辺りまで聞いている?」

「あの後、半年はんとしものみをしていたと」

 船の中で信太が言っていた通りの言葉を返す。織部は「その通りだ」と頷いた。

「あの方は、特別けがれてはいけない方だからな。その汚穢おあいそそぐには、十全じゅうぜんな期間が必要だった。覚えているか弥五郎? このやかたにとじ殿の部屋がなかったことを」

 織部に言われ、はたと気付いた。

 今思い起こせば、この家屋かおくで過ごすとじの姿を見たことはない。

「この社内しゃないの奥まったところに、小屋がある。とじ殿はそこで全てをこなしている。食事も、そこでな」

 他人に穢れを移さぬように、他人に穢れを移されぬように。

 別の家屋で過ごす風習ならわしがあるのは、神社で長らく暮らした一刀斎も知るところである。

 織部の言葉を信じるのなら、とじはずっとそういう生活をし続けてきたのだろう。

「――会いたいか?」

「……無論だ」

 過去に起こした罪が、みそがれたとは思っていない。

 会うべきではないと思ったこともある。

 だが、しかし。

「おれはこの十年余り、ひたすら武をきたみがいてきた」

 剣の道の始まりこそ、血臭漂う酸鼻さんび惨劇ものだった。

 だが、培ってきたその剣技けんぎが穢れているとは思わない。

 織部に教えられたこころの炎という言葉。

 京の街で知った、綺麗な剣という理想。

 見えないものを断ち斬った、大上段の唐竹割り。

 それらが「穢れ」などと、吐き捨てることなど不可能だった。

「おれはまだ、理想に届かぬ未熟な身だ。だが、確かにおれは、今のおれをほこっている。――に見せるこの心身に、恥じるところなど、一つも無い」

 そう断じきった一刀斎を見て、織部はより目を細め、えくぼを深くする。

「……迷いがあったならば、会わせまいと思っていたが。心配ないな」

 一刀斎の中にある魂の炎。揺らめくことなく、しかと強く燃える炎を、織部は見ていた。

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