第三話 死日

 大陸由来の黒い商船しょうせん

 その船底せんていおくに明の武芸者――十官じっかんはいた。

 薄暗く、湿気しっけもこもりやすい船中でありながら、十官の周囲は清潔に保たれており、床には緻密ちみつ絢爛けんらんとした紋様もんようが描かれた敷物しきもの――羊毛ようもう絨毯じゅうたんかれている。

 日に五度ある神への祈り。そのうち一つを今し方終えた。

「おい、……いや、十官。なぜあそこで引いた」

 十官は自分をこの地まで連れてきた商人の言葉に反応せず、絨毯を片して刀を抜いて練武を始める。

 燭台しょくだいに照らされた肉体は、まるで舞踏ぶとうのように流麗りゅうれいに、あらゆる筋肉にくが、更には臓腑ぞうふさえも使われて稼働していた。

 壁に映された十官の影は、まるで身体をくねらせ天に昇る竜である。

 無視された商人は奥歯を噛みしめながら、「全く」と大きく溜め息を吐く。

フェイの者は理解できんな。お前達は、神と武にしか興味がないのか」

 ドン! と、十官が床を踏みつける。それがいへの答えであった。

 船内全体がふるえるほどの踏み込みだったが、商人は鼻白んで十官を見下すようにめ付けている。

「聞く耳持たないか……だがな、今は貿易ぼうえき、金の時代だ。いくら武を鍛えようが、金の元種もとだねにしかならん。だから、この国の人間相手からもっと金を集めろ。明日早速あのサムライの相手をしてもらうからな。しっかり稼がせろ」

 今まで刀を振るっていた十官が、技の途中でぴたりと止まる。

 商人はいつもなら最後までやりきるはずなのに、なぜか静止せいしした十官を「はて?」と首を傾げて見遣った。

「…………やはり、手練てだれか?」

 商人も十官とは付き合いは長い。それでなくとも職業柄、人を観察る癖が付いている。

 一刀斎が今までの武芸者と異なる肉体をしていたのは見て取れていた。

 十官が纏った凛冽りんれつな空気がより深まったのを感じ取り、顎を撫でる。

 商人は「ふむ……」と軽くうつむく。

「…………私は用事がある。そろそろサガミでの商売も終わる。だから頼んだぞ、十官」

 だが敢えて、深くたずねることもせず。細めていた目をわずかに開き、爛々らんらん精気せいきみなぎる視線をやって、商人は自室へと戻っていった。

 ――金を見る前から、よくもまああそこまで稼いだ後のような目が出来るものだ。あれは何か余計なことを思っている目だ。

 思っても口には出さず、十官は練武れんぶを再開する。

 いつもよりも、入念にゅうねんに。身体の筋繊維きんせんい一本一本に意識いしきめぐらせて、全身にった気力を行き渡らせる。

 この国に渡り五十人の武芸者と相対したが、みな一様いちよう凡庸ぼんよう体熱たいねつが上がった手練てだれなどいなかった。

 だがしかし今日、武芸者つまらんあいてを叩き潰した直後に現われ、自身に挑もうとしたあの男。

 トダイットウサイと名乗ったあの剣士は間違いなく。

「フッ!」

 閃いた刀が鋭い太刀風を巻き起こした。

 かがやいていた炎がふわりと消え、糸から煙が上っている。

 ――だが即座に、再び蝋燭ろうそくは炎をともす。その炎は、あの剣士が瞳の奥に秘めていたものによく似ていた。

 …………間違いなくあの剣士は、である。

 がた手強てごわいい、このくに唯一ゆいいつの、敵手てきしゅたり得る存在である――――。


 額に落ちた朝露あさつゆで、一刀斎は目が覚めた。

 むくりと起き上がり伸びをすれば、辺りは木々に囲まれていて、瑞々みずみずしい青草あおくさの香りが漂っている。

 昨日は一度街で晩飯を食った後、この森でれまで刀を振って、ほどよく身体がほぐれたところで、草を枕にそのまま寝た。

 空を見ればまだ薄明はくめいが過ぎた頃。空が白から青へと変わる間際まぎわ

 約束の時間は午前だったが、いくらなんでもこれは早い。

 と、すれば――。

「……――」

 一刀斎は傍らに置いていた刀を抜いて、頭上へゆるりと持ち上げる。

 無理な力が掛かっていない、ごく自然な立ち姿。

 ――武音ブオン!!

 無音むおん呼気こきと、共に振る。

 柔らかなその構えとはまるで真逆。力強く野太い剣閃けんせんを残し、裂かれた真夏の空気が熱風ねっぷうに変わる。

 剣の軌道は乱れることなく、たて一文字いちもんじを真っ直ぐ描き、太刀風たちかぜにいたってはきっさきから二尺にしゃく離れた茂みも揺れるほど。

 一刀斎の心に乱れはない。こころほのおはすくと立ち、剣は心でもって振るわれている。

 京を出て今年で十年。ひたすら磨き上げてきた術理じゅつり理合りあいと、そして心法しんぽう

 廻国修行の中でみがき続け、一刀斎は今日、久しく相対することなかった強敵と斬り結ぶ。

 喜楽きらくの生じた一刀斎の剣はより鋭さを増し、今度は五尺離れたそよぐ。

 甕割かめわりを使ってやらぬことに申し訳なさがあるが、それでも早い方が良い。

 今はとにかく、おのれきたえたくしたい。

「さて……」

 寝てかたまった身体からだほぐれた。朝飯あさめしでも食いに街にでも出るかと、一刀斎は刀をおさめる。

「ん――?」

 その時、みょうな手応えを感じた。

 納めきる前にふと見てみれば、目釘めくぎが少しばかり緩んでいた。

 頑健がんけん甕割かめわりに慣れすぎたのか、思い切り振りすぎたらしい。

 目釘をしかと締め、「これで大丈夫だろう」と改めて腰に差し直す。

 たもと巾着きんちゃくを握り、一刀斎は空きっ腹を抑えながら、飯を探しに港に向かった。


 三浦の魚は、端的たんてきに言うと美味かった。

 しかしながら。

「…………むう」

 魚というのは年をても、味は全く代わり映えしない。かつてあの島で食っていたものと丸っきり変わっていない。

 サバもアジも確かに美味い。美味いのだが、この生まれ里と似た潮の臭いと変わらぬ味のせいで胸が焼けてくる。

「なんだ兄さん、そんなしかめっ面で。魚は嫌いか?」

 一刀斎へ魚を売った年老いた漁師りょうしが、「ヒヒッ」と笑う。

 ってきた魚を不味そうに食らう様を見ても眉をひそめることもない大らかさは、一刀斎が記憶している海の男とは大違いである。

「……いや、不味まずくはない。ただ、食い慣れていて味気ないのは確かだ」

 サバの身を食い千切った一刀斎の答えに「ははぁ、そうか」と頷いた老漁師は、目を細めて顎に手を当てた。固い無精髭が撫でられるたびに音が鳴り、潮騒しおさいと交じって愉快な音頭おんどとなっている。

「そうだな……あんた武芸者だろ、今日あの唐人と仕合しあいする。だったら、こいつでも食ってみるか」

 そう言った老漁師は、若い衆に「あれを出せ」と指図する。

「あれかよ……」と不満そうな若い衆二人が、しぶしぶ舟から担ぎ出したのは、背中が青黒い大魚たいぎょだった。三尺余りはあろう。目も大きく胴体も太い。

 伊豆いずの島で育った一刀斎でも、見たことがない魚だった。

「これは?」

「こいつぁシビっつってな」

 老漁師が手慣れた様子で解体かいたいすると、その黒々くろぐろとした皮からは想像もつかないほど鮮やかな赤い身が現われた。

 かたまりかとも思ったが、ところどころある真紅しんくの血合いが、赤みが肉だと証明している。

 しかしその身からは、確かに強い血の臭いがした。

「嗅いだ通り、こいつの身は血生臭くてよ。オマケにデカくて塩にも合わねえもんでなかなか売れねえのよ。だけどまあ、アンタみたいに血気盛んな武芸者には合うんじゃねえか? ほれ」

 大振りな刺身を、老漁師は差し出してくる。

 別に武芸者は相手を取って食らうわけでも、好んで血を啜るわけでもないのだが。

 そう思いつつ一刀斎はシビの刺身を丸ごと口に含んだ。目端めはしに苦虫を噛み潰したような若い衆の顔が見える。どうやら本当に人気がないらしい。

「……ふむ」

 噛めば噛むほど、独特どくとくくさみが広がった。しかしいやみはなく、かといって旨味うまみもあるわけではなく。

 だが厚い身は噛み応えはあり、人の血にあるような鉄臭さは感じなかった。

 脂はあるがサッパリとしていて、思ったよりもくどくはない。

 美味いものではないが、かといってそこまで疎むほどでもなかった。

「それに、シビってのは名前がいいだろう? なんせ死日しびだ」

「確かにな、いい名前をしている」

「死ぬ日」とは凄まじく縁起が悪い名前をしている。名前もそれでは好まれもしないだろう。しかし。

「妙に活力かつりょくが出る。死力しりょくを尽くしたい日に食うのには最適さいてきだな」

「だろう? 実は俺もこっそり食ってんのよ。好きな奴はとことん好きな味だぜ、これは」

 そういう老漁師は自分でも捌いた刺身を食らう。相変わらず離れたところでは、若い衆が信じられないものでも見たようだがさておいて。

「もう一切れもらって良いか」

「おう、一切れと言わずどんどん食いな」

 この今までの魚とは大きく異なる目新しい味は、癖になる。

 どれ、言葉に甘えてもっともらおうかと手を伸ばした時……

外他とだ一刀斎いっとうさいはどこだぁ!!」

 港の入り口から、荒ぶる声。何事だとそちらを見れば。

「おいお前ら、仕事の邪魔――」

「うるせえ……!!」

 掴みかかろうとしたガタイのいい奉公の胴を、野太い棍棒で撃ち抜き飛ばす一人の男。

 あの男は見覚えがある。いや、一人だけではない。後ろにぞろぞろ並んだ連中、その数人はつい昨日見た。

 あれは間違いなく、小さいやしろたむろしていた無頼ぶらいども

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