第十三話 晴天

『君の剣は、さびしいね』

 それは常日頃つねひごろから言われていた言葉である。

 師は、かたきを取った後、当てもなく渡り歩いていた時に出逢であった老齢の男だった。

 名は、塚原つかはら新右衛門しんえもん卜伝ぼくでん鹿島かしま香取かとり両神宮りょうじんぐう、その二つの剣を学び修めた男であり、勇壮ゆうそう一団いちだんひきいていた。

 塚原新右衛門に拾われる形で弟子になった甚助はそのまま東へくだり、鹿島かしまの地で新当流を学ぶ。

 理由はない。ただ内に残っていたものが、「剣を振る」ということだけだったから。齢五つから剣を振り続けた甚助にとって、それ以外のことなど、なにも知らなかったから。

『君の剣は殺意が乗っているね』

『…………当然、では。剣は、人を殺す道具のはず』

 新右衛門は「然り」と頷いた。しかし直ぐさま、「だが」と言葉を続けた。

『剣は人を殺す道具。しかしね、』 

 …………甚助は、何を言っているか分からなかった。

 新右衛門は幾度となくいくさを経て、その経験をも自流じりゅう鹿島新当流にへと注ぎ込んだはずである。

 振るわれる技も的確に人の急所を払い斬るものであり、人を殺すための術理じゅつりによって理合りあいが構成されていた。

 だというのに師は、「剣術は人を殺すものではない」という。

『…………それは、どういう意味か。人を斬れなくては、剣の意味が』

『いいかな、甚助』

 深く、低い声が、甚助のか細い呟きをさえぎった。

 声音こわねは穏やかで圧は感じない。だがしかし、甚助はその口調くちょうに、どうにも逆らうことは出来なかった。

『肉体を斬る、命を刈る。それしか出来なくてよいのならば、世には剣客なんてものはいらない』

 新右衛門は木刀を拾い上げ、木戸から入り込んできたアキアカネ目掛めがけて剣を振り上げた。

 殺した。そう、甚助は咄嗟に思った。……しかし。

『剣が斬るべきものは、それだけではない。斬るべきものを見定めてこそ、人は初めて剣客になれるんだよ』

 木刀の切っ先には、目を丸くしたアキアカネが止まっていた。目を丸くしていたのは甚助も同じ。拍子も読めず、剣の軌道さえつかめなかった。

 しかしその剣は間違いなく、普段己が受けている痛烈な威力を乗せているはずのものだった。

 だが実際、剣を食らったトンボは身を弾けさせ体液を飛び散らすこともなく、木刀の上で周囲をうかがっていた。それが己を襲ったものの正体だとも知らず、稲穂いなほにでも止まるかのように。

 新右衛門がヒョイと剣先を跳ねさせれば、アキアカネは道場の内から飛び去っていく。

『……剣客になりに行きなさい、甚助。師走しわすころ尾張おわり熱田あつた神社じんじゃに武芸者が集まる。そこで剣客がなにかを、学んできなさい』

 師の言葉は、絶対であった。

 剣客がなにかを知れと言われたから、ただ旅をした。――それもある。だが第一は、あの剣が、素晴らしかったから。

 あの剣が、なんであったかは分からない。ただあの剣は、アキアカネを止めた優しい剣は、甚助の心を覆った暗雲に、わずかばかりの間隙かんげきを空けた。

 剣客というものは、あんな剣を振れるのだろうか。

 凍った眼で甚助は、そんなことを道中の幾度いくども思った。

 そして今、師に言われおもむいたこの熱田神宮で甚助は、相対あいたいした――――。


 降りしきる雪が、重く鋭いひょうへと変わる。抜き放たれた流星が、氷雨ひさめを後から連れ出した。

ェェェイ!」

 抜刀をしのいだ一刀斎にせまるのは、必死ひっし間合まあい三尺さんしゃく内の近間ちかまで振るわれるそれは、一刀斎ののどを、わきを、眼を狙ってくる。

 それはかつて見た、鹿島のけんだ。

 だが。

ィヤァア!」

「ッちぃ……!」

 松軒ほどの拍子ひょうしはない。

 甚助の斬撃に、一刀斎はしかと対応たいおうしている。喉狙いの剣を弾き、腋に払われた剣をかわし、眼に突きつけられた剣は切り落とした。

 やはりそうだ。甚助の剣は抜刀に特化とっかしきっていて、太刀筋たちすじ自体じたいにあの抜刀ほど速さはない。

 わざにおいては在野ざいやの武芸者の中でも絶群ぜつぐんの域にいる。

 だがしかし一方いっぽう撃剣げっけんでは――――。

ァァァ!」

「ぐッ……!」

 いや、それでも十二分じゅうにぶん力量りきりょうがある。

 市井しせいの剣客にもこれほどの者はそういないだろう。己が相対してきた京にいた武芸者、その中でも頂点にある者らに比肩する。

 意は針の先のようで読みにくく、放たれる斬撃と拍子がずれる。それでいて刃筋はしかと立っていて、こころほのおの揺れに、よどみが生じた。

 お陰で反撃はんげきを掴めず、撃ちがどうしてもあさくなる。どうにもこうにもままらならい。

 だが、ままならない今こそが。

 お互いの剣を撃ち重ねるこの瞬間が。

 勝利へと追いすがろうと燃える炎が、火花を放ったその刹那が。

 やたら楽しくて、仕方がない!

ァアアアアア!」

ォォオオァアアアア!!」

 まるで本当に星でも叩き落とすかのような袈裟切りに合わせ、一刀斎は剣を走らせる。

 対して甚助は腰をかがめて剣を寝かせ、懐に入りやり過ごしつつ抜刀の要領ようりょうで胴を払う。

 すかさず一刀斎は上から刀を叩き付けて抑え込み、押し退けて腕に斬りかかったが、甚助はさっと半身になり、片腕で剣を振り上げる。

 一刀斎は足の前後を入れ替えて一寸いっすん避け、直ぐさま身体を戻すと同時に刃を甚助の方へ立て、るかのように体当たりを仕掛ける。

 対する甚助の反応も早い。広げた腕をそのまま薙ぎ払い、剣を剣に叩き付けた。

 互いに、一歩たりとも引くことが無い。

 雪嵐ゆきあらしは一つの炎にすさび、おこ烈火れっかは凍てつく風を焼き尽くす。

 天下の広さに魂がたかぶる。心王しんおうが嬉々としてさかる。

 だが、

 剣が最も楽しい瞬間ときは、今ではない。

 強敵きょうてきと剣をまじえたときか。違う。

 きたえた剣技わざが当たるときか。否だ。

 完膚かんぷきまでに敵を斬り伏せたときか。近いが、異なる。

 剣が最も楽しいのは、最も気持ちのよい剣は、無心で剣を、振るうとき。

ェェエアアアアア!!」

「むっ、ぐぅ……!」

 一刀斎の速さが増した。剣速けんそく自体じたいも、甚助に対する反応はんのう速度そくども。そして心中しんちゅう発声はっせいと、剣が振るわれるまでの時間ときさえも。

 甚助の斬撃を起点にしていたちが、次第に一刀斎自身から放たれるものに変わっていく。

ァアアアアアアアア!」

 己の持ちうるもの全てをたきぎに変えろ。

 ほのおしん心王しんおうを据えて、身体からだを燃やし外炎がいえんえろ。

 ただ一つ、「ざん」の一念いちねんだけを思うものになれ――!


(なんだ、これは)

 刀と刀が打ち合う度に、心から風雪が消えていく。

 積もり積もった弥々雪いややゆきを、降りしきる氷雪ひょうせつを、寒さを感じる余裕などまるでない。むしろ。

(なんだ、この熱さは――――!!)

 先程さきほどからいくどえただろう。いくど剣を振るっただろう。

 後にも先にも、これほど剣を振るった覚えは甚助にはない。

 熱い。身体が、心が熱い。

 苛烈かれつ寒気かんきでそう感じるわけではなかった。

 凍土とうどの底で凍りきっていたはずのたましいが、父の死を見て以来いらい微動びどうだにしなかったたましいが、父の仇を討ってなお、打ち震えることがなかったたましいが、今さら熱を生じ始めた。

(なぜだ。なぜ今だっ!!)

 父の仇を斬り殺した時は、一切いっさいうごくことがなかったのに。

 目的を果たしたはずの時に喜楽きらくはるを迎えることなく、荒れ果てた雪原のままだったはずなのに。

 得体の知れない熱を、弾き出すようかたなを振る。だがしかし、熱を振るえば振るうほどに、肉体にくたいが燃えるように熱くなる。

 しかも、一刀斎の刀と打ち合えば、刀越しに炎熱が打ち込まれた。己の中に積もりきった、吐き出しようもなかった雪が消えていく。

 捨て去りたかったはずなのに、いつしかそういうものだと背負っていたものが、今さらになって溶け出した。

 知らない感情ものが溢れてくる。よわいいつつから二十年近く、抱いてきたものと全く違うものが満ちていく。

 脈動みゃくどうする心の臓が、ぬくい血を全身に送り出す。血はここまで熱いものだったのかと、甚助は恐れさえ抱いていた。

ァアアアアアア!」

 顔を出した心王を、吐き出そうと吼えた甚助。

 渾身こんしんの袈裟切りを一刀斎は受けきって、つばいにもつむ。

 眼前の一刀斎を、甚助はしかと睨みつける。――その瞬間甚助は垣間かいま見た。

 獰猛どうもうに歯を向き、眼を吊り上げながらも、どこか愉快げな一刀斎。

 その瞳に映った、相対する男と全く同じ顔をしている、自分自身を。

ァァア!」

「――ッ!」

 まどい力が抜けた瞬間、一刀斎の刀は己の刀を押し退けて眼前に迫り来た。

 寸でで後ろに足を運んで紙一重かみひとえかわし、鼻先はなさき三分さんぶを切っ先が通った。

 己の中心を、真っ直ぐ切り落とす剣の軌道きどう、その太刀筋たちすじは、なぜか師である卜伝ぼくでん想起そうきさせた。

 たけり、ほのおと化して熱を振りく一刀斎の剣は、その実、恐ろしく研ぎ澄まされていた。

 太刀筋たちすじなおただしく、それでいて込められている意気にかげりは無く、燦然さんぜんと煌めいて見えるほどに清らかで、まるで本当に燃えているかのように見えた。

綺麗きれいだ――)

 心が発したおもいだった。当惑していたのうを素通りして生まれた言葉ことばだった。

 荒々しく力強い一刀斎の剣は、一方で力任せに振るわれていない。正しく心が乗せられた剣だった。

「奮!!」

「うぐ……!」

 一瞬見せたきょを突かれた。翻された剣が迫り咄嗟とっさに防ぐも、その威力ちからは並大抵でない。

 ちを受けたまま後ろに飛んだが、身体の真っ芯を揺さぶられた。

 ふと気付けば白布の際まで飛んでいる。否、

 あまりの力に歯噛みするが、何はともあれ距離は開いた。ならば――。

「――――」

 己がほこる抜刀のため、一度納めようと鞘に手を掛けたとき、不意に身体が硬直こうちょくする。

 わずかな瞬間、躊躇ちゅうちょした。呼吸こきゅうととのえようとしても、喉仏のどぼとけで空気が止まり、上手く喉を通らない。

抜刀ころしの技を、使って良いのか』

 脳漿のうしょうが、もはや半ば以上溶けた雪原に、再び氷嵐ひょうらんを吹き掛けた。

 抜刀は、父のかたきを討つために始めた技。相手の意表を突き、逃げ場一つ無いさい近距離きんきょりで斬り落とすためだけの技。

 ――ああそうだ、あのしたいを作った時にはもう、用無しになっていたはずの技。

 もはやもう、使い道などないはずの――――。

「どうした、浅野あさの甚助じんすけ

 意識が飲まれかけたとき一刀斎が声をかける。

 抑揚よくようのない平坦な声。だがしかし喜色きしょく満面まんめんを浮かべる童子のような色が付いている。

「…………抜刀は、お前の言うとおり、刺客としての技。…………ならばこれを使う限り、われは剣客には、なれぬ」

「バカを抜かすな」

 バッサリと、一刀斎は切って捨てる。一拍の間もなく放たれた言葉は、火花のように甚助の頭を駆け抜けて、生じた暗雲に穴を穿つ。

剣技けんぎに決まった用途つかいみちなどない。技には意図はあっても意味はない。……剣とは心によって振るわれるものだ。剣に、剣技に意味を持たせるのは今の心意しんいに他ならないだろう」

 一体どういう生き方をすれば、ああも堂々どうどう言い切れるのか。

 それは若さ故なのか。一刀斎は自分を一切疑っていない。愚直ぐちょくと言って良いほどにかたくなであった。

「とうに斬りさばいた過去もの執心しゅうしんしてどうする。使い終えた意志ものを、いつまでも抱えてなんになる?」

「――――!」

 炎の利剣りけんが、払われた。おびばしった雪雲ゆきぐもを斬り開き、その合間から日が射し込んだ。

 黒かったはずの雲は燃えるような火の赤に染まり、燃やされるように消えてゆく。

われは、見誤っていたのか)

 あの父親のように、仇を無惨むざんに斬って捨てればそれで終わると。

 ……ああ、そうだ。自分は父親の仇を取りたかったわけじゃなかったのだ。ただ救われたかったのだ。父の無惨な死体を見た、その事実から。

 最初の師が『誓願せいがんは果たせぬ』と言ったのは、きっと全てに気付いてたからだろう。

 心に雪を降らせていたのは仇ではなく、甚助自身なのだと。

 ならば、そう、それならば。

「――――すぅ…………」

 誓願は今、果たされた。本当に斬るべきものを見つけた。

 甚助は、鞘へと刀を納める。内に秘めたのは必勝の星。一切を撃ち落とす、流星の剣。

 この抜刀は最初の一閃いっせん

 となるためのはじまり一撃いちげき

「…………来い、これでしまいだ、外他とだ一刀斎いっとうさい

「ああ終いだ。おれの持ちうる全てを持って、その抜刀、斬り越えて見せよう!」

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